第8話 爺と少女の散歩
翌日。
朝食を終えたキャロラディッシュは、ソフィアとアルバートを連れて、日課の散歩へと繰り出していた。
屋敷を離れ、屋敷側の農園へと足を運び、猫達が楽しそうにクワや馬引きプラウを使って土を耕している様子や、鼻歌交じりに種を植えている様子を眺めながら、ゆったりと足を進める。
冬が終わり、春を迎えた農園のその光景は、なぜだか目を惹きつける独特の魅力を有していた。
一面が土色で、鮮やかさは全く無いのだが、春という始まりの季節を見事に表現しているとも言えて、そこで土にまみれながら働く猫達の姿は、とても力強く美しく、見ているだけで活力を得ることが出来る。
そこに掘り返された新鮮な土の匂いを含んだ風が吹いてくると、春の匂いを感じ取った心が沸き立って跳ね上がって、春の日差し以上に体を温めてくれる。
そんな風に存分に春を楽しみながら足を進めたキャロラディッシュは、農園を見渡すのに一番良い場所へと到着するなりその足を止めて、ソフィアとアルバートの方へと向き直り、手を腰の後ろで組んで胸をぐいと張ってから声を上げる。
「当分の間はここでの生活に慣れることを優先するように。
屋敷の周囲には牧場や魚などの養殖場があるからそちらに赴くも良し、屋敷の中で過ごすも良し、庭やサンルーム、図書室で過ごすのも良いだろう。
アルバートやグレース、猫達と戯れるのも良し、何か趣味があればそれに没頭するのも良い。
何よりもまずはここでの生活に慣れ、心を落ち着かせて、大樹を育てる為の土壌を、己の心を、目の前の光景のように耕して豊かにするのだ。
そうしなければいくら知識を詰め込んでも、鍛錬に明け暮れても大樹は育ってくれん、それどころか枯れてしまうことだろう。
その為に何か必要な物があれば遠慮なく言うように、儂に言いにくい品の場合はグレースに言えば、彼女が上手く差配してくれることだろう。
……アルバート、お前も何か欲しいものがあれば遠慮せずに言うように」
突然キャロラディッシュが見せたその態度に、何を言われるのかと少しだけ身を固くしていたソフィアとアルバートは、そんなキャロラディッシュの言葉に安堵して、その身と表情を柔らかくして「はい!」との元気な返事をする。
その返事を受けて満足そうに頷いたキャロラディッシュが「何か質問は?」と声をかけると、僅かな躊躇を見せたソフィアが、それでも真っ直ぐにキャロラディッシュへと視線を向けながら口を開く。
「あの……キャロット様、どうして私なんかにそこまで良くしてくださるのでしょうか?
ビルさんから養子を欲しているというお話を聞いてはいたのですが……昨日のお食事といい、素敵なお部屋といい、アルバートのことといい……昨日、私にかけてくださったお言葉といい、どうしてそこまで……?」
ソフィアのそんな言葉を受けて、右の眉を上げて左の眉毛を下げて、なんとも言えない渋い顔をしたキャロラディッシュは、手を後ろで組んだまま、踵を上げたり下げたりしての落ち着かない様子で頭を悩ませて……そうしてから口を開く。
「儂が養子を欲したのは、女王からの命令があってのことだ。
養子を持てと命じられ、仕方なしに養子を持つことになった儂は、全くなんたる不幸だと嘆くことになった。
しかしだ……よくよく考えてみれば、今回の件で最も不幸なのはそんな理由でこんなジジイと暮らすことになる養子の方だろう。
仕方なく、愛のない家に貰われるなんてのは数多ある不幸の中でも、最上級に位置するに違いない。
そのことを思えば儂が嘆いた不幸など、全くちっぽけで取るに足らんものでしかないと気付いたのだ」
そう言ってキャロラディッシュは視線を屋敷の方へと向ける。
「だから儂は、せめて養子の不幸を少しでも和らげてやろうと、そう考えた。
幸いにして儂の手元にはちょっとした資産があるのでな、そのうちのいくらかを使ってやることくらいはなんでもないことだ。
ソフィア、お前は良くしてくれているとそんな勘違いをしておるようだが……こんなことは、お前にかけてしまった迷惑を思えばなんでもないことなのだ。
ちょっとした金とちょっとした気遣いをかけてやることと、お前が大人になるその日まで見守ってやることが儂に出来るせめてもの償いであり、お前の義父となった儂に課された義務なのだ」
屋敷の方を向いたままそう言ったキャロラディッシュは、その声量を少なくしてボソボソと言葉を続ける。
「儂は……この歳まで家族愛というものを持てなかった人間だ。
だが幸いにして……お前は、その、なんだ、この儂に匹敵するかもしれん類稀な才能を有しておる。
であれば、儂は……んー、あー……師弟愛とかいう、そういった感情を持てるかも……しれん。
だから、まぁ……遠慮はいらん。
遠慮なく儂に金を使わせ、儂から知識を吸収し、儂を踏み台にして大きく巣立つが良い。
変に遠慮をして、お前が辛い思いをしてしまえば、それはそのまま儂をも苦しめることになるだろう。
だから絶対に遠慮をするな、欲しい物があれば欲しいと言い、したいことがあればしたいと言えば良い」
屋敷へと向かってボソボソ声で。
普通であればそんな言葉、聞き取れるはずがないのだが、人よりもいくらか良い耳を持ったアルバートが、その言葉の全てを聞き取って、ソフィアへと耳打ちをして知らせてしまう。
そうやってキャロラディッシュの言葉全てを受け取ったソフィアは、目の前の老人の心の内を、目の前の老人がどんな人間であるのかをいくらか理解し、年齢相応の子供らしい笑顔を浮かべる。
そうして数歩、キャロラディッシュの下へと近付いたソフィアは、キャロラディッシュの枯れ枝のような手をそっと握り、柔らかな声を上げる。
「ありがとうございます、キャロット様。
そのお気持ちと心遣い大事にさせていただきます」
その言葉を受けて、目を丸くしたキャロラディッシュは、どうしたら良いのか、どうすべきなのか……散歩の続きをしたら良いのか、手を握り返したら良いのかが分からず、そのまま立ち尽くしてしまうのだった。
それから一時間と少しが過ぎて、キャロラディッシュとの散歩を終えたソフィアは、キャロラディッシュの言葉の通り、ここでの生活に慣れる為の時間を過ごそうと決めて、一切の遠慮をしない、彼女なりの我儘な時間を過ごすことにした。
アルバートとの会話を楽しみ、一緒に遊んで駆け回り、グレースと会話を楽しみ、猫達と一緒に遊んで駆け回り。
昼食を楽しみ、ティータイムを楽しみ、屋敷の中を探検して周り、図書室に足を運び、そこに並ぶ蔵書にその目を輝かせて……。
そうしてソフィアは、夕食の時間が来るその時まで、思う存分に我儘に時間を過ごすのだった。
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