第4話 魔術
キャロラディッシュの手を取り、挨拶を終えて……自らに纏わりつく猫達の顔を一匹一匹見ていったソフィアが、何を思ったのかその表情を真剣なものへと急変させて、焦りの感情が込められた高い声を上げる。
「あ、あのキャロット様!
お会いした直後にこんなお願いをすべきではないことは分かっているのですが、それでもどうしてもお願いしたいことがありまして……どうか聞いては頂けないでしょうか」
キャロラディッシュなりの言葉と礼節を尽くした挨拶を終えた直後に、会ったばかりのソフィアにそんなことを言われて、キャロラディッシュはなんとも渋苦い表情となる。
何事にも順序というものがあり、この世界には礼節というものがある。
会って間もなくいきなりのお願いとはなんたる無礼か、それと猫でもないのに名前を間違えるなと、そんな説教をしようと彼が口を開こうとした……その時、ソフィアが先程からずっと大事そうに抱えていたバスケットの蓋を開き、その中身を顕にする。
その中には幾重にも重ねられたタオルに包まれた犬の姿があり……その弱りきった表情を見たキャロラディッシュは思わず「ああ……」と、細い声を漏らす。
若い、2歳か3歳の黒白毛のコリー犬。
老衰ではないということは病気なのだろう。
命の灯を燃やし尽くし、自然に還る一歩手前。
死相を深くし、息も絶え絶え……見るに堪えない哀れな姿。
その姿からソフィアが何を望んでいるのかを察したキャロラディッシュは、彼なりの精一杯の優しい表情を作り出し、精一杯の優しい声を振り絞る。
「……残念だが、魔術でこの子を助けることはできんぞ。
万能のようで万能ではない、奇跡のようで奇跡ではない。
人の産み出した技術であればこそ……出来ることには限界というものがあるのだ……。
……儂の伝手に良い腕の医者がおるから、彼を呼んで診てもらうとしよう。
彼の医術であれば、この子の苦しみをいくらか緩和してくれることだろう」
これを言えばきっとソフィアは泣き出してしまうに違いない。
と、そんなことを考えながら吐き出したキャロラディッシュの言葉に対し、ソフィアが見せた反応は、彼の予想とは全く違う、意外なものだった。
瞳をわずかも揺らさずに真っ直ぐにこちらへと向けて来て、動揺せず泣き出しもせず、年不相応な、しっかりとした声と言葉を返してきたのだ。
「いいえ、違います。
私がお願いしたいのは、この子にも彼らのような言葉を与えて欲しいということなのです。
赤ん坊の頃からずっと面倒を診て来たこの子の……私の親友の最後の言葉を、この胸に刻み込みたいのです。
私といて幸せだったのか……私が飼い主で本当に良かったのか……それを最後に知りたいのです」
その言葉を耳にして目を丸くするキャロラディッシュ。
これが十歳の子供の言葉か、十歳の子供の考えなのか。
ソフィアが歩んで来た人生が尋常ではない、キャロラディッシュが思わず同情し、養子にすると決めてしまう程のものであったことは知っていたが、まさかその中で、ここまでの成長をしていたとは……。
試練が人を成長させるものだとはよく聞くが……本当のことだったのだなと、キャロラディッシュは深く息を呑む。
そうしてソフィアの真っ直ぐな瞳と言葉に圧倒されてしまったキャロラディッシュは、目の前の女の子に彼なりの最大限の敬意を抱きながら、ゆっくりと言葉を吐き出す。
「言葉を与えること、それ自体は難しいことではないのでな……お前がそう望むのならやってやらんこともない。
……だが、本当に良いのか? この子が何を言うかまでは儂にも予想できないのだぞ?
苦しい苦しいと、何故助けてくれないのかと聞くに堪えない悲鳴を上げるかも知れん。
お前のことなど嫌いだと、恨んでいると、そういった罵声を上げるかも知れん。
言葉を与えたとて、望んだ言葉を口にしてくれるとは限らんのだぞ?」
そんなキャロラディッシュの言葉に、ソフィアはそれでもこの子の言葉が聞きたいと、しっかりとした態度で頷き返してくる。
その姿を見て「分かった」と頷いたキャロラディッシュは、猫達にソフィアから離れるように指示し、バスケットを地面に置くようにとソフィアに指示を出す。
そうしてソフィアの手を犬の顔にそっと触れさせて……その上から自分の手を重ねるキャロラディッシュ。
「……この子の名前は?」
そうソフィアに訪ねながら瞑目する。
「アルバートです」
「アルバート……良い名前だ」
そんな言葉をソフィアと交わしながら魔力を練り上げる。
そうやって魔術の準備を整えてから、目を見開いたキャロラディッシュが呪文の代わりと言わんばかりの長い言葉を吐き出し始める。
「ソフィア、お前もこれから魔術を習う身だ。
ついでに、という訳ではないが、ここで一つ魔術についてのレッスンをしてやろう。
……魔術の根幹となる魔力とは己の中の世界、精神界から作りだされるとされている。
精神界、で分かりにくければ夢の世界と言っても良い。
目を瞑ったときに浮かんでくる世界、無限の可能性を秘めた夢を作り出す世界。
誰もが己の心の中に持っている、自由で、豊かで、何にも縛られることのない、そんな世界だ。
そこで毎夜のように作り出される、不確かで不安定で、泡沫のような夢と魔力を、確かなものとし、こちらの世界に引っ張り出す技術……これを魔術と呼ぶのだ。
その方法は人それぞれ、様々な形があるとされているが、儂が得意としているのは大樹の魔術……己の中に確かな、不倒の大樹を養うことで不確かを確かとし、泡沫を確固たるものとする魔術だ。
今から儂の大樹を見せてやるから、目を瞑り、心を静かに保つが良い」
そんな彼の言葉にソフィアは静かに目を瞑り、出来るだけ静かに心を保とうと、平静を保とうと努力する。
そうして静かに、アルバートの熱と、キャロラディッシュの熱を感じていると、瞼の裏の、不確かで曖昧だった世界が、はっきりとした形を成した世界へと変化していく。
真っ白な大地に、真っ白な空に、真っ白な壁に……大きな古ぼけた木の扉に。
その扉がキャロラディッシュのものだと、何故だか確信したソフィアは、好奇心で沸き立つ胸をどうにか押さえつけながら、そっと扉のノブを握って、その扉を開け放つ。
するとその扉の向こうには、緑の大地と青い空と大きな一本の大樹の姿があって……その大樹の枝から落ちた葉が、はらはらとソフィアの周囲を舞い飛び始める。
樹齢百年、二百年、いや、千年か。
どっしりとした根を大地に張り、何本もの枝を世界の隅々まで伸ばす、力強い古木の存在感にソフィアが圧倒されていると、
『その景色をよく覚えておくが良い』
とのキャロラディッシュの言葉が響いてきて、先程の扉が閉じられて、ソフィアの精神が、元の白い世界へと引き戻される。
『目の前のそれがお前の種だ。
まだ芽も出ていない、ただの種。
だが、それもお前の努力次第では、先程見たような大樹になるのだということをよく覚えておくが良い』
またも響いてくるキャロラディッシュの声に、ソフィアが一体どの種のことだろうと訝しがっていると……いつからそこにあったのか、くるみの実のような丸い種が一つ、白い地面の上にポツンと転がっていた。
そしてその種を認識した瞬間……ソフィアの白い世界が、彩りを帯び始める。
真っ白だった大地に緑の草が生え揃い、周囲を囲っていた壁が消え失せて、真っ白だった空が真っ青に染まり、暖かな太陽まで生まれでて、ぽかぽかとソフィアの体を温めてくる。
そんな突然の出来事に、何が起きたのかとソフィアが驚いていると、空の向こうから太陽とは別の、もう一つの熱がソフィアの下へと漂ってくる。
『ソフィア、今感じているその熱が儂の魔術だ。
その熱が、魔術が、今からアルバートに知恵と言葉を与えてやるから……何が起きるかよく見ておくんだぞ。
……それともう一つ、儂はアルバートのことをよく知らん。
だからお前がアルバートの精神を正しい方向へと……アルバートらしい方向へと導いてやるのだ。
元気だった頃のアルバートを、お前とアルバートの楽しい記憶を思い浮かべながら、アルバートらしくあれと、そう祈ってやるのだ』
その言葉に素直に従って、アルバートとの記憶を、元気だった頃のアルバートを思い浮かべるソフィア。
その思い出があまりにも懐かしくて、あまりにも美しくて、ソフィアがまたあの頃のように、元気なアルバートと一緒に駆け回りたいと、そんな願いを強く抱くと―――その瞬間、ソフィアの太陽の熱と、キャロラディッシュの熱が混ざり合って、一つの大きなうねりとなる。
―――そしてそのうねりを、凄まじい吸引力で吸い込んでしまうソフィアの種。
『な、なんだこれは!? 一体何が起こっている!?』
と、そんなキャロラディッシュの悲鳴が世界に響き渡る中、爆発的な勢いで、種から芽が出て、芽が一気に成長し、秋の麦穂のように輝く一本の若木が、ソフィアの世界に産まれ出る。
生まれでた若木から、一本の枝が伸び、その枝が世界の外へと……アルバートの下へと伸びていって……アルバートの身に何かが起こり、そこでソフィアの意識が現実へと引き戻される。
目を開き、暖かな太陽の光を感じて、まずソフィアの視界が捉えたのはキャロラディッシュの姿だった。
何かに吹き飛ばされでもしたのか、かなり離れた場所で、驚愕の表情で尻もちをついていて……その周囲のビルや猫達も彼のような驚愕の表情を浮かべている。
次に視界に入ったのは先程まで大事に抱えていたバスケットの姿で……どうしたことか中身が空っぽとなってしまっている。
そして最後に彼女の視界に入り込んだのが、二足で立つアルバートの姿だった。
弱りきってしなしなになっていた体毛がしっかりとした艶を取り戻し、へたれていた髭がしっかりとした力強さを取り戻し、やわらかな尻尾がぶんぶんと振り回されて……死相のしの字も感じない、元気いっぱいの表情となったアルバートの姿。
「ソフィア! ああ、ソフィア!!
ありがとう! 本当にありがとう!!」
少年のような力強い声でそう言って、ソフィアの下へと駆け寄って来て、彼女のことをぎゅうっと抱きしめてくるアルバート。
そんなアルバートをソフィアは、訳が分からないながらもぎゅっと強く、力いっぱいに抱きしめるのだった。
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