第3話 少女と老人の出会い


 揺れる馬車の中で少女は言葉にもできない、どうしようもない程の陰鬱な気分に包まれていた。


 大好きだった両親を失い、優しくない親戚のもとに預けられ、挙句の果てに金持ちの老人に養子という名目で売り払われてしまったのだから、そういった気分になってしまうのも仕方のないことだろう。


 可愛らしい柄のクッションの敷き詰められた馬車の中であってもその気持は変わることなく……その身に纏った母親手製の白布のドレスと、両手でしっかりと抱えた大事な大事な蓋付きバスケットだけを心の頼りとして、馬車の隅で縮こまりながらその気分に押しつぶされてしまわないようにと、じっと耐えて……流れ出てしまいそうな涙をぐっと堪える。


『ソフィア……あの人はどうにも偏屈で頑固で、どうしようもない人だけれど、心根はとても優しい、稀に見る良い人だから、きっと君を幸せにしてくれるよ』


 ビルという冴えないおじさんはそんなことを言っていたが……そんな言葉で一体何をどうしたら安心出来るというのか。


 むしろソフィアの中で渦巻く不安は増してしまっていて……その不安がまだ十歳の少女でしかないソフィアに纏わりつく、陰鬱な気分をより暗く重いものへとしてしまった。


 両親が居たころは、どんなに怖いことがあっても、どんなに不安なことがあっても、耐えることができた、乗り越えることができた。

 

 何かあっても両親が側に居てくれる、何かあっても両親が守ってくれる。

 そう思えばこそ、ソフィアは様々な敵と戦ってこられたのだ。


 夜の闇に、恐ろしいゴースト達に、近所の悪ガキに、嵐の巻き起こす暴風に揺れる窓に、理不尽なことばかり言う大人に、会う度に嫌味ばかりを言う親戚に……。


 両親はとても優しい人達で常にソフィアの側に居てくれて……ありとあらゆる物からソフィアを守ってくれる、精霊樹の大木のような存在だったのだが……だからこそソフィアは、そんな二人を失ってしまった今、何もかもが恐ろしくて仕方なくて、どうしようもない程に不安で不安で仕方なかったのだ。



 せめて親友である彼が元気だったならと思うが……それは叶わぬ願いなのだと、ぎゅうっとバスケットを抱きしめるソフィア。


 そんな気分のまま無限にも思える時間が過ぎていって……ようやく目的地に到着したのか、馬車の速度が徐々に落ちていって、ゆっくりとその動きを止める。


 そうして御者台から降りて来たビルが、馬車の横扉を開けてくれて……外に出るようにと促してきて、ソフィアはバスケットをしっかりと抱きかかえたまま、陰鬱な気分のままゆっくりと馬車の外へと足を向ける。


 足元に気を付けながら馬車から降りて……顔を上げた先に広がっていたのは、見るもおぞましい灰色の景色だった。


 木も草も、石垣も屋敷も、目に映る何もかもが灰色で……その景色に恐怖し、身震いをしたソフィアは、それでも最早逃げ場など何処にも無いのだからと、半ば諦めたような気分になりながら、ビルが促す方向へと足を進める。


 そうやって灰色の石垣を踏みしめて進んだ先に待っていたのは、一人の灰色の老人だった。


 苦く渋い顔をしながら……ソフィアのことを見下してしまっている、絶対に好きになれないであろう、そういった雰囲気を纏っている老人だ。


 その顔を……どうしたら良いのかと困っているようにも見えるその顔を見て、これからの日々が地獄になるであろうことを確信したソフィアが、いよいよ限界となって泣き出しそうになっていると……老人の後方、老人の着込んだ灰色のローブの陰から一匹の猫がひょっこりと姿を見せる。


「も~、駄目じゃないですかキャロット様~!

 まずは大人のキャロット様から声をかけないと~!

 そんな風に突っ立ってないで! 膝を折って視線を合わせて! 肝心なのは挨拶です! 

 これからは家族になるんですから、しっかりしなきゃ駄目ですよ~!」


 それは二本の足で立って歩く猫だった。

 いや、歩いただけでなく喋っている、服を着ている。


 それはまるでおとぎ話の世界のような光景で……瞬間、ソフィアの中で何かが弾けて、灰色だった世界が色彩を取り戻していく。


「……わぁ、わぁ~~~!!」


 目の前のまさかの光景に、何を言ったら良いのか分からなくて、今の気持ちを言葉に出来なくてそんな声を漏らしてしまうソフィア。


 両親から厳しく言いつけられていたはずの、貴族としての振る舞いを、淑女としての振る舞いを忘れて、ただの少女と成り果てたソフィアは、バスケットを抱えたまま猫の方へと駆け出してしまう。


 そうして何か考えがあった訳ではなく、ただそうしたいと思ったからという理由で、バスケットごと猫を抱きしめるソフィア。


 すると、そこら中から次々と歩く猫達が姿を見せて、そんなソフィアの下へと駆け寄ってくる。


「まぁまぁ、とっても可愛らしい女の子ね」

「なんだいなんだい、ヘンリーなんかに抱きついて! 俺の毛並みのほうが美しいぜ?」

「とってもきれいな赤い瞳と赤髪ねぇ、三編みにしてから後ろでまとめているのね、悪くないわ」

「なんだい、この子、猫が好きなのかい? なら僕も抱きついちゃうよ」


 そんなことを口々に言いながら駆け寄って来た猫達は、今日から自分達も家族だとそう言って、ソフィアのことをその全身を使って抱きしめてくれる。


 暖かくて柔らかくて、そしてとっても優しくて。


 そんな愛情いっぱいのハグを受けて、先程までの陰鬱な気分は何処へ行ったのやら、満面の笑みとなったソフィアが、ふと老人の方を見ると、老人は先程と変わらない表情と態度のまま……暖かく優しい目をソフィアに向けてくれていた。


 もしかしたら先程も、老人はそんな目をしていたのかも知れないなと、そんなことを考えるソフィア。

 世界が、老人が灰色だったのではなく、ソフィアの心が灰色に染まっていたのではないか。


 そんなことを、感覚的に直感的に感じ取って……先程までの自分の態度を深く反省する。


「キャロット様~~、良かったですね! ソフィアちゃんが猫好きで!

 一緒に暮らす以上、好きになって貰わないと困っちゃいますもんね~~」


 と、ソフィアが反省している中、そんな声を上げる執事服の白黒猫。

 その言葉を耳にしたソフィアは小首を傾げながら疑問の声を上げる。


「キャロット……様?」


 そんなソフィアの声に対し、猫達は好き勝手な答えを返す。


「そうよ、キャロット様よ」

「キャロット様の魔術が俺達にこの姿と知恵と言葉を話す口を与えてくれたんだ」

「キャロット様はとっても素敵なお方よ、きっと貴方にもいっぱいの愛を注いでくださるわ」

「キャロット様のお屋敷へようこそ~~」


 キャロットにんじん様、キャロットにんじん様、キャロットにんじん様と、そう言われてソフィアはとってもおかしくなってしまって、破顔しながら大きな声を上げてしまう。


「キャロット様って……ふふっ、うふふふふふ! おかしなお名前ね! キャロット様!」


 何がそこまでおかしいのか、そう言って笑いが止まらなくなってしまったソフィアを見て、猫達もまた一緒になって笑い……ソフィアと猫達の塊は大きな笑い声に包まれていく。


 そしてそんな塊の下へと、老人が静かに近付いてきて……すぐ側にやってくるなり地面に跪いて、ソフィアに目線を合わせてそっと手を差し伸べてくる。


 相変わらずの困ったような顔のまま、何も言わない老人だったが、そのことが今のソフィアにはとても優しく、暖かく感じられて……その手をそっと取ったソフィアは、今の気持ちをたっぷりと込めた言葉を返す。


「本日よりお世話になります、ソフィアと申します。

 ……どうぞよろしくお願い致します、キャロット様」


「……儂はキャロラディッシュ、ハルモア・キャロラディッシュだ」


 ソフィアの言葉を受けて、そんな言葉を返したキャロラディッシュは、苦く硬い表情のまま、髭の中で小さな笑みを浮かべるのだった。

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