第2話 春の日の来訪者


 よく晴れた春になったばかりのある日。


 久しぶりの陽気に誘われたキャロラディッシュは魔術の探究の手を止めて、屋敷の裏手にある、リンゴの木に囲われた庭園へと足を運んでいた。


 その庭園はヘンリーの祖母猫である灰猫グレースが管理しているもので、燕麦やエノコログサ、キャットミントやキャットタイムという、猫達が好むものばかりがこれでもかと植えられており……人の手による整えられた美しさや、季節の花々による華やかさの無い、おおよそ庭園らしからぬ粗雑な仕上がりとなっていた。


 多くの人々が最低の庭園だと評すだろうそこには、仕事を終えて寝転んでいる猫や、休憩の為に寝転んでいる猫や、元気に駆け回っている猫達の姿があり……キャロラディッシュはそうした猫達の姿を存分に眺められるこの庭園のことを、常々『世界で最も美しい庭園』であると讃えていた。


 かつて、宮殿に仕える庭師達が手掛けた世界一と評される庭園を見たこともあったキャロラディッシュだったが、そんなものとは比べ物にならない、生命と幸福に満ち溢れた美しさがこの庭園にはあると、心底からそう考えていたのだ。


 愛すべき猫達の織り成すそうした光景を眺めながらゆっくりとキャロラディッシュが歩を進めていると、彼の来訪に気付いた庭師姿のグレースが駆けて来て、庭園の隅に置いてあるテーブルと椅子の上に積もった枯れた草葉の破片をその手で払い始める。


 そうして綺麗になった椅子をグレースが無言の仕草でもって薦めてきて、無言で目礼を返したキャロラディッシュは、その身に染み付いた優雅な仕草でその椅子に腰を下ろす。


 もう老猫と言って良い年齢のグレースとキャロラディッシュは、そんな風に言葉の無い会話をすることがままあった。


 お互いのことをよく分かり合っているというか、それだけの長い時を一緒に過ごしてきたというか……何も言わずとも通じ合える確かな絆が二人の間にはあったのだ。


 そうしてグレースは、テーブルの上にぴょんと飛び上がり、エプロンを脱いで、服を脱いで、猫らしい姿となってから丸くなってその喉を太く響かせる。


 その猫なで声を受けてキャロラディッシュは、グレースの体をゆっくりと撫で……そうしながら庭園の様子をゆったりと眺める。


 すると庭園の各種で寝ていた猫達は、その光景を一目見るなり総毛立って自分達もそうして欲しいとの嫉妬心をあらわにするが……相手がこの地の重鎮であるグレースでは仕方なしとすぐに諦め、その思考と態度を驚く程にあっさりと切り替えて、春の日差しと素敵な庭園を楽しむことだけに意識を向け始める。


 そうしたなんとも猫らしい猫達の様子を眺めながらの、ゆったりと時間が過ぎていって……そのまま一日が終わっていくかと思われた―――その時、庭園の猫達が一斉に起き上がり、その耳を力強く立てて、長くしっとりとしたその髭を忙しなく動かし始める。


 それが何者かの接近を、来訪者を感知した時の反応であると知っていたキャロラディッシュは、一体何者が来たのかと訝しがり、その顔をしかめる。


 もしや望まぬ来訪者が来たのかと、そんな不穏なことをキャロラディッシュが考えていると……屋敷の方から慌ただしくヘンリーが駆けて来て、大きな声を上げてくる。


「キャロット様~!

 ビルさんです、ビルさんがいらっしゃいましたー!」


 ビルとは外界の些事の全てを任せている代理人の名前で、その名を耳にしたキャロラディッシュは怪訝そうな表情となって声を返す。


「ビルだと? あやつめ……こんな時期に一体何をしに来た?

 常であれば後ひと月は顔を見せんはずだぞ」


 そう言って顎髭を撫で、遠くを見るキャロラディッシュの足元に到着したヘンリーは、念の為にとキャロラディッシュの自室から取ってきた小振りなヤドリギの杖を手渡し、そうしてから声を上げる。


「さぁ~~~? 

 事前連絡も特に無かったはずですし、一体何をしに来たんでしょうねぇ。

 ……どうします? 追い返しちゃいますか?」


「……いや、アレはアレでもう随分長いこと儂に仕えてくれている。

 儂が突然の来訪を嫌っていることも当然知っているはずだ。

 それでも尚そうしてやって来たということは、相応の何かがあったのだろう。

 歓迎してやる必要は無いが……念の為だ、会ってやるとしよう」

 

 そう言ってヤドリギの杖を膝の上に置くキャロラディッシュ。

 相手が信頼の置けるビルであっても、そうしていつでも杖を振れるようにしておく辺りが彼の彼らしい性格を示していた。


 そうしてそんなキャロラディッシュの言葉を受けてヘンリーは、ビルを出迎えるべく庭園の外へと駆け出ていくのだった。




 ややあって、ヘンリーが一人の冴えない男を連れて庭園に戻ってくる。


 長身痩躯で、その灰髪をきっちりと固めていて、年の頃は四十か五十か……上等な造りの革製の鞄を手にして、上等な造りのズボンとシャツとウェストコートを身に纏っており、何故か両耳に引っ掛けた眼鏡だけが質素な造りの安物となっている。


 このビルという男は、人嫌いのキャロラディッシュの下に長年を仕えてみせただけでなく、篤い信頼を得ることにも成功したという、稀に見る有能な男なのだが……その見た目からどうしても冴えない男という印象を抱いてしまうというような、そういう類の男であった。


 主人に忠実で、虚言を用いず、その人品も確かで、宮殿に仕えたとしても不足の無いだろうこの男が、それでもこうしてキャロラディッシュに仕え続けているのは、もしかしたらその見た目が理由なのかもしれない。


「……一体何があった。

 ただでさえお前は冴えない顔に生まれてしまったというのに、そうまで顔色を悪くしてしまっては、見るに堪えん有様だぞ」


 ヘンリーに案内されるがまま、目の前へとやって来たビルに対し、そんな言葉を投げかけるキャロラディッシュ。


 いつものことなのか、そんなキャロラディッシュの言葉をさらりと聞き流したビルは、ゆっくりと口を開けて、いつも以上に重く響く、暗い声を口にする。


「……キャロラディッシュ様。

 先々代の陛下と約束を交わされたという『一度限りの命令権』のことを覚えていらっしゃいますか?」


 貴族に仕えるものであれば欠かすことの出来ない時節の挨拶もなく、ご機嫌取りの言葉もなくそう言ってくるビルに、キャロラディッシュは気にした様子もなく、ただこくりと頷いて言葉を返す。


「ああ……勿論覚えているとも。

 ここでのこの生活を王家が保障してくれる代わりに、たとえそれがどんな内容であっても従えという、一度限りの命令権のことだろう?

 それが一体どうしたと言うのだ」


「女王陛下からその一度限りの命令を正式に発するとの連絡が届きました。

 この命令に従わないのであれば、全ての保障を取り消すとのことで……詳細を記したお手紙をお預かりしております」


「……ほう。それはまた……驚かされたな」


 王家とキャロラディッシュを繋いでいる最後の糸であるその命令権は、使わないでいることにこそ意味があるとされていた。


 キャロラディッシュの持っている力を……その財力をいつでも振るうことが出来るという、国内外に向けた抑止力の一種であり、キャロラディッシュとの最後の絆であり、使ってしまえば即座に失われてしまうその絆を、先々代の王も先代の王も何があろうとも決して使おうとはしなかったのだが……それをまさか、即位したばかりの若き女王が使ってしまうとは。


 キャロラディッシュとしては、使ってもらったほうが清々するものであり、命令が発されたこと自体は歓迎すべきことなのだが、同時にこの件は新たな女王の浅慮さを示しているとも言えて、なんとも言えない暗澹たる気分にさせられたキャロラディッシュは、なんとも渋く苦い声を上げる。


「……で、それは一体どのような命令なのだ?」


 そんなキャロラディッシュに対し、今までに見せたことのないような苦い表情となったビルは、キャロラディッシュ以上の苦い声で答えを返す。


「はい……命令の内容は『魔術と財産を継がせるための子を成すか、養子を取れ』というものになります。

 ……キャロラディッシュ様は先月に、自分に何かあった場合はお従兄弟様のお孫様であるジョージア様に遺産を相続させるとの遺言を発表されましたが……女王陛下はその内容に思う所があったらしく、それでこの命令を発されたようなのです。

 内容的にはかなり穏当な部類ですし……研究成果の全てを明け渡せでも、大陸での戦争に参陣せよでもなく、こういう命令で良かったのだと前向きに受け止めて、素直に従うべきかと愚考いたします」


 事前にあらゆる可能性の、選択肢の検討を徹底的に行うことを信条としているビルのその言葉を受けて、キャロラディッシュは「ぐぅむ」と唸る。


 ビルがそうした方が良いというのであれば、それはその通りなのだろう。


 命令に逆らう道や、命令を無効化する道、あるいは女王と交渉する道などあらゆる選択肢を検討し、十分に検討した上でそれらを提示してこなかったということは、他の道なんてものは存在していないと、そういうことなのだ。


「……今回、一度限りの命令権を使ったのは女王陛下なりの誠意の表れなのでしょう。

 この程度の内容であるなら通常の『王命』として発しても良かった訳ですから……。

 そうなるとこちらとしても相応の誠意を返す必要がありますし、今回ばかりは受け入れるしかありません。

 ……幸い養子という形であれば、何処ぞの学院や、親戚筋に預けるという道もございますし、キャロラディッシュ様の生活が乱されることは無いかと……」


 そう言ってビルは、手にしていた鞄から何枚かの書類の束を取り出し、キャロラディッシュへと差し出してくる。


 話の流れから察するにそれは養子候補のリストなのだろう。


 何かに付けて準備の良いビルのことだ。ケチのつけようのない、キャロラディッシュ好みの候補を揃えてきたに違いないと、そんなことを考えて大きなため息を吐いたキャロラディッシュはその束を渋々受け取って、目を通し始める。


 テーブルの上に立ったグレースとヘンリーが、キャロラディッシュの肩越しに覗き込んでくる中、その一枚一枚に丁寧に目を通していくキャロラディッシュ。


 そこには候補の名前や年齢などの情報は勿論のこと、どれ程の魔術の才能を秘めているか、何処の家の血筋のものなのか、今どんな状況に居て、どうして養子候補となったのかなどの仔細な情報が記されていて、挙句の果てには、かなりの腕の画家に依頼したらしい小さな肖像画までもが添えられていた。


 そこに書かれていた子供達は、いかにもキャロラディッシュが受け入れたくなってしまうような、不幸な生い立ちの子供達ばかりで……キャロラディッシュはもう一度、先程よりもかなり大きなため息を吐き出してしまう。


「……ご安心ください。

 今回選ばれなかった子供達には、キャロラディッシュ様名義での相応の支援をするか、キャロラディッシュ様名義で経営している養護院への入院権を送ることになっておりますので」


 キャロラディッシュのため息を受けてか、そんなことを言ってくるビルに対し、キャロラディッシュは、先程のそれとは全く違う……呆れの感情をたっぷりと込めた大きな、それはもう大きなため息を吐き出すのだった。

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