魔術の探求者 キャロラディッシュ公爵
風楼
第1話 魔術の探求者
親しかったはずの……信頼を寄せていた人々から理不尽で手酷い裏切りを受けた際、人はどういった行動を取るのか。
激しく憤り裏切りの代償を支払わせようと復讐を試みるのか、あるいは何かの間違いに違いないと裏切った人々を尚も信じようとするのか。
……その男ハルモア・キャロラディッシュは裏切りに加担した人々全てとの関わりを断つという道を選択し、そしてそれを実際に実行してみせた。
有り余る先祖代々の資産を使って広大な土地を買い取り、そこに住むに不便の無い程度の屋敷を建て、その上で公的、物理的、魔術的手段でもって必要外の来訪者を拒む措置を講じたのだ。
それらの措置により外界から遮断された己だけの世界を作り出したキャロラディッシュは、生活に必要な物資を運んでくるお抱え商人や、公的な手続きを代行させている代理人や、王立魔術協会の連絡員などの最低限の人物以外には決して会おうとせず……何があろうとも己の世界に引きこもり続けたのだった。
そんな前代未聞と言って良い彼の生活を支えたのが、その膨大な資産力だ。
国内最大級の運河を所有し、数百隻の船という海運力を所有し、彼が所有する公債の額は他者のそれとは桁が二つも違うといった有様で……圧倒的とも言えるその資産力は、彼の生活だけでなく彼自身をも守ることになる。
キャロラディッシュをこれ以上刺激してしまえば、その資産ごと国外に移住してしまうかもしれず、その資産を使って何かとんでもない、国を巻き込むような規模での破滅的なことをしてしまうかもしれず……国家の主たる国王ですら彼に対しては慎重な態度を取らざるを得なかったのだ。
そもそも件の裏切りに、よりにもよってその国王自身が加担してしまったという事実がキャロラディッシュをそこまで追い詰めてしまったと言っても過言では無く、そのことが何よりも国王の態度を慎重なものにしていた。
国王と多くの貴族達が加担してしまっていたその裏切り行為によって、キャロラディッシュはその人生の中で紡いでいたほとんどの縁を失うことになり……縁を失ってしまったからこそ彼は、何の躊躇も無く他者との関わりを断って生きる道を選んだのだ。
……そんな彼を一体誰が咎められるというのか。
世界を創造した精霊と神々ですらキャロラディッシュを咎められまいと、事情を知る人々は口々に言い立てていた。
更にキャロラディッシュにはその資産力以外にも公爵という爵位と、国立魔術協会に所属する国内屈指の魔術師という立場があり……そうした地位の高さも彼のあり方の支えとなっていた。
ただ高い地位を有しているというだけでなく、彼は国立魔術協会に義務とされている年に一本の論文を提出することで、国家の柱となっている魔術の発展に少なくない寄与をしており……そうした国家への貢献が彼への批判を大きく減らしていたのだ。
また彼にとっても一人きりの、しがらみに縛られることのない生活は、彼の趣味である魔術の探究に没頭することの出来る最高の環境だと言えて……そんな風に没頭できる趣味があるからこそ彼はそのあり方を苦としていなかったのだ。
……むしろこのあり方こそが彼にとっての理想のあり方だったのかもしれない。
そうして……そんな孤独な生活を続けること五十年。
七十歳となったキャロラディッシュはその肌の張りとその髪の色を失った、年相応の姿と成り果てていたのだった。
長く豊かなさらりとした白髪に、口全体を覆い隠す長い白ひげに、厚手のパジャマとナイトキャップという姿のキャロラディッシュが、質素ながらよく手入れのされたベッドの上で静かに眠っている。
質素な作りのその寝室には、本棚やクローゼットなどのキャロラディッシュが必要とする最低限の物しか置かれておらず……そうした物の少ない部屋で老人が一人で寝ているという光景は、なんとも寂しい光景と言えた。
いびきをかくこともなく寝返りを打つこともなく静かに眠るこの物寂しい老人が、実は公爵なのだと言ったところで一体誰が信じるのか……貴族であるということすら怪しく思えてしまうことだろう。
朝となり、昇った太陽の光がこれでもかと窓から入り込んできているのだが、それでもキャロラディッシュは目を覚ますこと無く、とにかく静かにすやすやと眠り続けていた。
そんな折、寝室のドアが音を立てながら開きはじめて……そのドアの向こうから小さな黒い影が駆け込んでくる。
かしこまった執事服の上に白いレースのエプロンをかけたという格好をしたその影は、長革靴を履いた二本の足で器用に歩く黒白毛の猫であり……キャロラディッシュの下へと駆け寄るなりくわりと口を開いたかと思えば、猫であるくせにまさかの人語を口にし始める。
「キャロット様~、朝ですよ~。
朝ご飯がそろそろ出来上がりますよ~、今日はキャロット様の大好きな羊肉のハムエッグですよ~。
パンも焼き立てほかほかですよ~、空のご機嫌も抜群に良いですし、いい加減起きてく~ださいっ」
少し高めの青年のような声でそう言って、キャロラディッシュの体を覆っていた布団を器用につかみ、一気に剥ぎ取る黒白猫。
器用に動くその手はまるで人間の手かと思うような形をしていて……その動き方も人間の手のそれによく似ていた。
指の数が四本で、白い毛で覆われていて、その先端に肉球がついている……と、猫の手らしい特徴も持っているのだが……その変容ぶりは凄まじく、猫の手とは全くの別物となっている。
そんな猫のような何かの言葉に対し、煩そうに唸り声を上げて寝返りを打ったキャロラディッシュが、年相応に嗄れた声を返す。
「……誰が
儂はキャロラディッシュだ」
「はいはい、分かってます、分かってますよー。そのお言葉、もう何千回も聞かされてますからねー。
でもしょーがないじゃないですか! 何たってボクは猫なんですから! 人間みたいに器用に口が回らないんですよ!
きゃ、きゃ、きゃろられでぃっしゅ……とか、無駄に言いにくいお名前じゃなくてキャロット様で良いってことにしてくださいよ!
それかボクの口と喉をもっともっと改良して、人間と同じ構造にしてくーださい!」
その言葉とは裏腹に、名前の部分以外をなんとも器用に、滑らかに喋ってみせる猫に、キャロラディッシュは大きな溜め息を吐き出す。
「馬鹿を言うな……それ以上お前を魔術でいじくり回してしまったら、猫という存在からかけ離れた
ヘンリー、お前も儂に仕えてもう長いのだから、そのくらいのことは言わずとも分かって良さそうなものだがな」
「知ーりませんよ、そんなことー。
ボクは魔術師じゃなくてただの猫なんですからー、猫がそんな小難しいことを理解できる訳ないじゃないですかー。
さぁさぁさぁさぁ、目覚められたならさっさとお顔を洗って、食堂の方にお越しくださいな。
せっかくのハムエッグが冷めきって美味しくなくなっちゃってもボクは知りませんからねー」
ヘンリーと呼ばれた猫はそう言ったかと思えば猫らしい軽快な足取りで寝室から出ていき、食堂の方へと駆け去っていく。
そんなヘンリーの背中をじとっとした視線で見送ったキャロラディッシュは、全身に力を込めてやれやれと起き上がり、ヘンリーが用意しておいてくれた白いローブへと着替えてから、洗面室へと向かってその顔を洗って髭を洗って……櫛と魔術を駆使して身支度を整えていく。
そうして寝ぼけ顔の老人から、一端の紳士と言って良い風貌となったキャロラディッシュは、その身分に相応しい優雅な身振りでもって食堂へと向かって歩いていく。
キャロラディッシュの屋敷はとても質素で落ち着いた外見をしていたが、安っぽいという訳ではなく、一流の職人達をこれでもかと集めて、高級資材をこれでもかと使って作らせた……身分に相応しい上等な造りとなっていた。
そんな屋敷は外見だけでなく、その中身も質素で……床も壁も天井も、何処を見ても全くと言って良い程に飾り気が無かったのだが、むしろそうした風景が上品さを醸し出していると言えた。
家具の一つ一つも長く使うことを考慮してなのか、熟練の職人達の手によって作られた高級家具がばかり使用されていて……傷一つないその様子からとても大事に、丁寧に使われていることが良く分かる。
そして今キャロラディッシュが足を踏み入れた食堂もまた、彼の屋敷らしい上品さを感じる造りとなっていた。
天井や床には一切の装飾が無く、壁を見ればいくつもの大きな窓が作られていて……そこから光と風がこれでもかと入り込んでくるからか、とても爽やかで清々しい空間となっている。
縦に長い造りのその部屋には、一人用にしては随分と大きい一人用の食卓と、異様に背の低い細縦長の食卓が置いてあり、その食卓の周囲にはいくつもの椅子が少しだけ雑に並べられていた。
そんな食堂の中を元気に駆け回っているのは十匹程の、ヘンリーと同じような服を着た二足歩行の猫の使用人達だ。
どうやら彼らはそうやって駆け回りながら朝食の準備を進めているようだ。
一人用の、キャロラディッシュの為の食卓にはキャロラディッシュの為の質の良い大きな食器を並べて、背の低い細長いテーブルにはやや質の悪い小さな猫達の為の小さな食器を並べる。
ハムエッグといくつかのパンと炒めた何種類かの野菜とモルトビネガーをキャロラディッシュの食卓に置いて。
自分達の食卓には焼いた魚と焼いたソーセージと焼いたチーズを置いて。
そうしてキャロラディッシュの大好物である牛乳をたっぷりと入れたドリンクボトルを、キャロラディッシュの食卓には三本、自分達の食卓には椅子一つに付き一本ずつを置いて……そうやって準備が出来上がったのなら、一斉になんとも嬉しそうに「ニャー!」と鳴く猫達。
そんな猫達の様子を眺めながら、食堂の奥へと足を進めていたキャロラディッシュは、その声を受けて静かに頷き……自らの席へと静かに腰を下ろす。
そんなキャロラディッシュのことを見てまたも「ニャー!」と鳴いた猫達は、いそいそとなんとも騒がしくしながらそれぞれの席へと腰を下ろし……キャロラディッシュの自然への感謝の祈りが終わったのを合図として、慌ただしくナイフとフォークに手を伸ばし、食事を始める。
知性を与えてやって、器用に動く手とそれに見合った体を与えてやって、上等な服とエプロンと皮長靴を与えてやったといっても所詮彼らは猫である。
猫達のテーブルマナーは劣悪と言って良いレベルで、そんな彼らの食事風景はなんとも下品で騒がしいものだったのだが、それでもキャロラディッシュは気にした様子もなく、静かに彼らの食事風景を眺めている。
口の周りの毛と、よく動く立派な髭を汚してしまいながらなんとも嬉しそうに、なんとも幸せそうに魚やチーズやソーセージを頬張る猫達。
溶けたチーズを伸ばし食い、ドリンクボトルには直接口を付け、ソーセージは噛まずに丸呑み。
そんな光景をじっくりと眺めたキャロラディッシュは、今日も元気そうで何よりだと髭の中で小さく笑い……そうしてからようやく自らの食事へと取り掛かるのだった。
朝食を終えたキャロラディッシュは、いつも通りの一日を過ごすべく、日課の散歩へと出かける。
散歩しながら屋敷側の農園と牧場に問題が無いかを己の目で見て確認し……そうしてきっちり一時間の散歩をし終えたら、ガラス張りのコンサバトリー式のサンルームから屋敷へと入り、サンルーム内の薬草の世話に取り掛かる。
屋敷内の雑事の全てを猫達に任せているキャロラディッシュだったが、薬草の世話だけは魔術師として己の手でやる必要があるのだ。
水やりや虫除け、雑草抜きなどの薬草の世話が終わったなら次は魔術の探究だ。
サンルームに置いてある机でそうするか、図書室に置いてある机でそうするか、地下実験室に置いてある机でそうするかは、その日のキャロラディッシュの気分と、探求する魔術の内容次第で決まる。
空を眺めて、雲の流れる様子をじっと見つめて……今日は一日良い天気が続きそうだと判断したキャロラディッシュは、今日はサンルームで論文を執筆しようと決めて、サンルームの隅に置かれた机に腰を下ろす。
キャロラディッシュが一度机に向かったなら、日が沈むまでそこでの作業が続くことになる。
昼食もティータイムの紅茶も全てその机で済ませて……机を離れるのは用を足す時だけだ。
そうやって日が沈むまで魔術の探究に没頭したなら、彼の個人的趣味である大地から湧き出る湯にその全身を浸からせて……そうしてから猫達が用意してくれた夕食をゆっくりと楽しみ、猫達一匹一匹におやすみと挨拶をし、ベッドに潜り込み眠りにつく。
これこそが魔術の探求者、ハルモア・キャロラディッシュ公爵の一日の送り方であり……五十年という長い間繰り返されて来た彼にとっての最高の人生の送り方だったのだ。
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