九の宝〜神の巻
皆生活の場を失い放心の
首や胴体など身体の一部が切断された死体が路上に散乱していた。
剣や弓を握り締めている事から兵士だと分かる。
少し離れた小山の上にその光景を眺める人影があった。
荒い呼吸で睨み付ける様はまさに鬼神のそれだった。
「生き残りの兵はおりません……
彦火火出見と呼ばれたその若者は、小さく頷くと目を閉じて呼吸を整えた。
「そうか……これで世を乱す
吐き出すように彦火火出見が呟く。
「
そう言って若者は、背後の家来を
何百という兵士が
「御神の
側近らしき兵士が、片膝をついた姿勢で労を
「そうだな。御神の命に従い此処に居を構えるとしよう。祭殿にて饒速日の御神を
そう言い放つと、彦火火出見は
「ははっ、
「本当にこれで宜しかったのですね……御神よ」
絞り出すようなその言葉を聴き取れた者はいなかった。
「どういう事か説明してもらいましょうか……
凛とした声は、心身が凍りつく程の威厳に満ちていた。
「説明と申しますと……?」
一段下がった床に
痩身の体からは
「私は民心を平定せよと指示したはず。ですがあなたの代行を務める彦火火出見は、力に任せて国を制圧してまわっている。そのため兵士はおろか農夫や女子供まで命を落とす結果に……あなたのやっているのは単なる
女神は強い口調で言い放った。
「貴方に
男神をまっすぐ見下ろしながら女神は続けた。
落ち着いた中にも、言い逃れを許さぬ響きがあった。
「これは心外。私めはお言い付け通り騒乱を収めただけ。現に彦火火出見が統治した国は、いずれも一糸乱れぬ秩序が維持されております」
わざとらしく目を丸めて饒速日は言った。
「それは武力により民を支配しただけ。そのために幾千もの人命が奪われました。人の命を犠牲にして良いなどと言った覚えはありません」
「では一体どうせよと……」
「国々に優れた統治者を置き民を導くのです。親和と友愛から共に助け合う事の大切さを学ばせる。彦火火出見もそのために選びし者のはず……」
「あまいっ!」
饒速日は女神の言葉を遮り顔を上げた。
「恐れながら、貴女は人間というものをあまりに知らなさ過ぎる。怠惰と暴虐を好み、己れの欲の為なら身内はおろか神さえも
男神は立ち上がると目に狂気を宿して激白した。
自らの言葉に陶酔し
その様子を黙って見ていた女神は、やがて静かに目を伏せた。
「……饒速日、貴方こそ人間の本性を宿した存在そのものに見えます……全ては任命した私の責任ですね」
そう言うと女神は神殿の奥に向かって手を上げた。
ほどなく剣を
「貴方を拘束します」
女神の言葉に、饒速日は一瞬鋭い眼光を返した。
もの言いたげな表情だが、結局一言も発しなかった。
男神たちが促すと、特に逆らう事無く素直に応じた。
そのまま神殿奥へと引き立てられて行く。
途中、一度だけ歩を止め振り向いた。
「今に覚えていろ……
その台詞と共に浮かんだ不気味な笑みに、気付いた者はいなかった。
誰もいなくなった神殿で女神……
「天照様、大変です!饒速日が姿を消しました!」
槍を手にした男神が駆け込んで来た。
「それで、
報を受けた天照大神が厳しい口調で確認する。
「そ、それが……奪われてしまいました」
その一言で女神の表情が一気に曇る。
神武天皇に事の次第を説明し回収した神器は、
仮の姿を与える事で力を封印したのだ。
事実を知らされた神武天皇は
天照大神は自決しかけた天皇を思い
その命に従い、天皇はその後身命を投げ打って民に尽くしたのだった。
天皇の清く純粋な心を知った天照は、天皇崩御の後八握剣に更なる封印を
神鏡を元の姿に戻せる者を神武天皇のみとしたのだ。
こうすれば仮に神鏡が他者の手に渡っても、誰も八握剣を手にする事はできない。
それがたとえ神であっても……である。
「さらにもう一つ……悪い知らせがございます」
報告に来た男神が、より険しい表情で続けた。
「今しがた占術師より報告がありました。それによると神武天皇の
女神は言葉を失った。
それはある意味、神器を奪われる事以上に深刻な問題であった。
神武天皇亡き後、封印により八握剣は永遠に日の目を見る事は無い筈だった。
だが今の報告では、未来において天皇の転生人が現れてしまうという。
それはつまり、神鏡を元の姿に戻せる
「まさか、饒速日はそのために……!?」
ハッとした顔の天照大神に対し、男神は苦悶の表情を浮かべた。
「はい、それが……奴めが【転生の儀】を行なった形跡がございました。恐らくはご推察の通りかと」
男神の返答を女神は遠くに聴いていた。
【転生の儀】……
自らを後の世に転生させる秘術である。
人間が輪廻転生する確率は極めて低い。
万に一つ発生したとしても、転生人に前世の記憶は無く、新たな人格として生きる事になる。
だがこの秘術を使えば、前世の記憶を保ったまま生まれ変わる事ができるのだ。
あやつとて
神武天皇の転生の件が耳に入ったとしても不思議ではない。
今、八握剣は饒速日の手にある。
仮の姿である神鏡を元に戻すため、神武天皇の転生人を利用しようとするに違いない。
あやつが【転生の儀】を行なったのが何よりの
恐らく神武天皇の転生人と同じ時代に転生するつもりなのだろう。
もし、それが成功したとしたなら……
異常なほど人間を嫌悪しているあやつのこと。
八握剣を用いて、また無益な殺生を始めるのは
転生人のいる時代で、罪も無き多くの命が奪われてしまう。
それだけは何としても防がねばならない。
何としても……
暫しの黙考の後、天照は静かに顔を上げた。
「占術師に伝えよ。これから【転生の儀】をとり行うので準備せよと……」
女神の言葉に、控えていた男神の目が大きく見開く。
「……天照様……それは一体……!?」
絶句する男神を前に、女神はゆっくりと立ち上がり頷いた。
「饒速日の後を追い、私も転生人となる」
「し、しかし……それでは……」
男神の狼狽ぶりは目に余るほどであった。
無理も無い。
つまり天照大神という女神は、その瞬間からいなくなってしまうのだ。
さらに転生した時代では、自らがどのような姿で生まれ変わるかも予測できない。
男か女か、若者か年寄りか、まかり間違えば年端のいかぬ幼児かもしれない。
【転生の儀】で指定できるのは時期と場所のみ。
後は神と言えど運に任せるしかなかった。
そのリスクを冒してまでも女神は強行するつもりなのだ。
「後は任せましたよ」
そう言い残し、天照大神は神殿の奥に消えて行った。
あまりに荒唐無稽過ぎて、思考が追い付いていないのが分かる。
「……そ、それって……つまり……」
辛うじて口を開いたのは
さすがに動揺を隠し切れないのか、うまく言葉が出てこない。
その様子を半ば面白がるかのように、仄は片目を
「そ。私の前世は天照大神……今の私は神様の生まれ変わりってわけ」
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