pH7

@undersnow

第1話 開幕

 ここはアメリカ――ではなく日本。

 二〇二〇年 四月八日 水曜日。

 虹明高校入学式当日。

 桜の花びらが舞う並木道を通っている俺、黒季節無は100メートルを10秒で走れるぐらいイキイキとしていた。つまりこの並木道が400メートルあるので40秒で抜けられる(すごくどうでもいい上当たり前)。

 ――何故かって?三つぐらいあるけど、まずは可愛い子に会えるかもしれないからだな、うん。


 心が躍る中登校した虹明高校。自分が配属されたのは、二年B組。中学からの知り合いはほぼ皆無である。まあ、これは超難関校を受験したので想定内。早く友達ほしいなぁ。

 だがしかし、しかし、しかし、この学校はさっきから一つの話題で持ちっきりだった。

 と、その時

 ――ガチャッ、ゴーォ――

 タイミング完璧、フラグ回収。

 教室後ろの扉が開いた。

 今まで秋の虫のように騒いでいたクラスメイトが徐々に静まりかえり、視線が一点に注がれる。そこには結んでいない美しい黒の髪をなびかせ、整った面立ちをし、その上モデル顔負けの容姿を持つ女子生徒が立っていた。

 え?誰?めっちゃ可愛いんですけど?今日の目的達成したからもう帰っていいのではないか?と、ふざけまくっていた時、皆が初対面の美女の名前を口々に放った。

 色島彩乃。ほう、超人気女優らしい。テレビには疎い俺でも小耳に挟んだことがあるぐらいだ。

 彼女は、多数の好奇の視線には慣れているのか、物怖じせず堂々と俺の隣に座った。

 ――俺の隣なんだ、ふーん。ラッキーじゃん。

 サボン系の良い香りが鼻孔をくすぐる。それでも何とか平静を装い教師の登場を待つこと5分。

 「席につけ。明日から通常授業となるのでしっかりと準備して忘れ物の無いように。あぁ後、皆も知っての通り有名人だが、普通に振舞うように、特別扱いするなってことだ。ではまた」

 あー、これみんなこっち集まるやつだわ、早く荷物まとめて退散退散

 ……。これだからミーハーたちは。俺も混ぜてもらおっかな(笑)……ヤダ、数人で仲良くするのが至高。

 家に帰ると過ぎていた、17時を。学校は12時に終わっていたが、高校ならではの醍醐味「アルバイト」で青春を謳歌しようと思ってちょっとコンビニに行って面接を受けてみた。すると、店長が若々しいノリで即オーケー出しちゃったからちょっぴり不安――という感じで明日から稼げる。


 勉強机で明日の準備やら予習やらをしているといい匂いが俺の食欲をそそる。

 「兄さん、夕飯できたから食べよう」

「おう」

 彼女、吹雪は小学6年生。黒のポニーテールに美しい碧眼を持つ純粋無垢な美少女。俺の、ゲホッッ、俺の妹である。して、今日の夕飯は一汁三菜を取り入れた定食。流石、大和撫子吹雪。味はというと、超うまい(ドヤ顔)。とにかく可愛いんだよね。


 翌日、登校するとクラス内が騒がしい。喧噪を切り分けて席につこうと思った俺は目前の光景を見た瞬間足が震えた。否、脳が震えて春の朝なのにベテルギウスが見えたかも。

 俺の席に人集りができている。俺の中でフラッシュバックが起きた。

 中学生のある日の朝、俺が登校すると自分の席に人集りができて、『これ笑える』『それはひどいよ(笑)』などと騒がれ、マイデスクに悪質で陰湿な誹謗中傷にカテゴライズされる内容が落書きが施されていた。

『節操の無い腹黒男、黒季節無』

 それからというもの俺は、『セッソナ』の烙印を捺された(授かった)。

 大抵の人は耐え難いことだと思うが、そのときの俺は既に人生の辛辣さを知っていた。ストレス発散に人を使うなど下らない発想極まりない。教師は軽く死ね☆。

 閑話休題。

 種を明かすとそれは単純で誰でも予測ができたのでは、という内容だった。

 超人気女優の色島彩乃への妬み嫉みを彼女の机に書き連ねてあるではないか、なんということでしょう、デジャブゥ。

 これは騒がれる。マスコミが来る前に事件の収拾を図らねば。同時に美少女から好意を持たれ、クラスの人気者にならねば。そして、被いじめを回避せねば。……完璧なシナリオ、ゲームのシナリオライターに呼ばれるぞと思ったら、人生のシナリオかいてなかった。ぴえん。

 しかし、ここで初対面の奴らに話を持ちかけるのは少々勇気が必要なのです。というわけでできる限りイケボで

「ちょっといいか?」

 俺の話を聞いてくれた大多数の利口なクラスメイトは理解してくれたようだ、よかった。俺の存在感も出せたし、完璧。

 教師に報告する用途にのみ机の画像を撮りSNSには絶対にあげない、幸い本人は来ていなかったのでこれを話すかどうかは教師の判断に任せるとする、俺らは平静を装う――以上。


 各授業のガイダンスで今日は終わったが遂に来てしまった。

 シャイボーイ最大の修羅場、自己紹介。

 そう、俺は大変シャイなボーイなのだ。元々言うことの案ぐらいは考えてきたのだがどうもしっくり来ない。

 だから、俺は秘策を使った。

 イッツ、ネーム、イズ、テンプレート。

 俺が席をたつと、クラスの数名が声をもらした。それものはず、何を隠そう俺は「イケメン」否、「美少年」なのだ。いわゆる中性。俗に言う中性。pH7。そこらのモブさんたち、ごめんね?

「初めまして、黒季節無です。気軽に、黒季と呼んでください。好きなことは色々あるので皆さんと話せればと思います」

 綺麗な一礼をペコリと。目にかかる前髪を右手ではらい、席に戻る。拍手喝采。

 自己紹介も何人か過ぎ、またも数人声をもらした。

 前に出たのは、背が高めの女子生徒(美)――浅葱春夏。

 三対七で分けられた透き通る水色の前髪の間から、キリッとした茶色の瞳が覗く。なんとも美しい顔立ちの少女。

 彼女も「pH7」なのだ。

 俺は浅葱を知っている。小中と同じ学校に通った幼馴染み。それほど親しくはなかったが、中学の時にいじめに加担しなかったのは彼女だけだ。

 全員の自己紹介が終わり――色島彩乃は欠席した――仮入部が始まった。

 が、俺には関係ない。帰宅部志望バイフトシフト入りの高校生なので、悪いがお先に失礼。

 「あの、黒季君!」 

 耳に甲高い声が響いた。ドア越しに教室を振り返ると低身長で桃色の髪左右で結んで揺らし、どこか儚げな黄色眼で俺を見ていた。

「何かな?」

 爽やかな微笑みを浮かべて訊くと、共に帰らないかと誘われてしまった。早く帰りたいのは山々だがクラスの友達は欲しかったので了承することにした。

 帰路にて。

 彼女は、萌黄仄火。微かな火という名前は弱々しい彼女のイメージに良く合っていると思った。

 話を聞くと、直ぐに教室を出た俺は部活に行かないと察し、声をかけたという。

「黒季君はどこか部活に入るんですか?」

「うーん、バイトしたいから入るつもりは無いかなぁ」

「へ?そうなんですか?てっきり体育系に入るのかと思ってました、バドミントン部とか卓球部とか」

 俺にはラケットがお似合いなのですか?

「いや、そうでもないぞ。強いて入るとするなら、文芸部とか、あと、剣道部もちょっと気になったかなってぐらいだ。竹刀持ってみたいし」

「黒季君が竹刀振ってたら女の子は皆喜びそうです」

「そういえば敬語はやめないか?同級生なんだし」

 照れ隠しに話を逸らす。

「うまく逃げましたね。敬語ですか、わかりま…わかった」

「それで、萌黄は何部にするんだ?」

 古典部かな?奉仕部かな?ま、まさか、極東魔術昼寝結社の夏なのか?

「うーん、私は文芸部とか気になるな。本読むの好きだし、黒季君も入らない?」

 萌黄に言われたら無下にはできないなぁ。

「平日はほとんどバイトだから来れて週一ぐらいだけど」

「う、うん!ありがとう」

 ほう、さては俺に好意を、デュフ。

「じゃあ俺ここ曲がるから、また」

「うん、また明日」


 「今日からよろしくお願いします」

 綺麗な一礼をペコリと。コンビニのアルバイトが始まった。

 俺の仕事は商品棚の整理と在庫確認。これだけで時給1600円も貰える。店ではなるべく柔らかい表情って教わったけど、どうしよう。作り笑いキツいって。

 「いらっしゃいませー」

 店に入ってきたのは見覚えのある顔。茶色の髪にダンディな服を着こなし、整った容姿をした高校生。

 朱鷺秋冬と言っていたな。

 たいして仲良くないクラスメイトと仕事先で会うのは嫌なので商品棚にでも隠れようか。

 朱鷺は炭酸飲料とスナックを買って店を出ていった。

 ありがとうございましたって言うの忘れた。

 バイト初日はなんなく乗り越えたからこのまま行けば収入は安定するかな。そんなことを思っていると、

「ねぇ、新人君。明日は女性用の制服でやってみない?」

 先輩にそんな提案をされた。

 は?お前なめてんのか?と言いたかったが我慢して問う

「え?なんでですか?」

「そんなの簡単なことさ、君が可愛いからだよ」

 劇の名ゼリフ言ってる感満載で変なことを言ったのは、紫田霞蓮先輩。仕事では頼りになるのだが、オフだとただの意地悪な姉っぽい感じの人。とても綺麗な大学生。

 そんな素敵な女性から出たクズ以下の、否、クズ未満の提案には即答が効くって先生が言ってたー。知らんけど。

「イヤです」

「つれないなぁ。時給2倍っていうのを先に教えてあげればよかったのかなぁ」

「ム」

 そこの人は何をボソッと?

「はぁあ残念な限りだよ」

「先輩、やりましょうよ」

「そう?」

 ニヒルな笑みを浮かべてまた明日と言われた。緊張するけどつい、にやけてしまう。2倍よ、2倍。

 明くる日事件は起きた。

「いらっしゃいませー」

 店に入ったのは、私服姿の色島彩乃。サングラスとかで変装してるけど俺にはわかる。醸してる雰囲気が違う、だってマネージャー隣にいるもん。

 すれ違い様、何か見られた気がする。彼女ではなくマネージャーに。何故だ?天才的な思考力を持つ頭を使って考える。

 結論。俺が男だとバレた。

 うあ、超恥ずかし。色島に言われたら……。と考えてたら、ふと違和感が。俺、色島と顔合わせたことあるのに気付かれなかった。サングラスのせいかな。それでも普通にスルーされると傷付くのだが。まぁいい、俺、超ラッキーボーイ

 いや待て、呆れられて最早無視されたのでは?

 二つの推論からして明日学校に行くの無理かも。

 何がともあれ今は仕事だ仕事。首を振って頭を切り換える。

 「お、嬢ちゃん可愛いねぇ。仕事終わるまで待つから俺と遊ばない?」

 いきなり声をかけられた。ナンパかよ、キモすぎぃ。断ろうと振り返ると中年のジジィがいた。

「結構です、というかイヤです。では、お買い物をお楽しみください。」

 コンビニの買い物が楽しいかは知らん。

「そんなこと言うなよ、金まやっからよ」

「お金で釣られるほど私は馬鹿ではないのですが。目的が済んだなら、手早くお引き取り願えますか?それとも、出口までの経路をご案内いたしましょうか?」

 迷惑客は適当に煽って警察呼べばいいんだよ、うん。

「あ?てめぇなめてんのか?あ?」

 店内全体に響く怒鳴り声。それを聞いて先輩が控室から顔を出したのが見えた。

 「あ?」って二回も言ったよこいつ、きしょ。

 すると男は近くの缶ビールを手に取り投げつけてきた。俺はわざと躱さずに体で受けると、男は耳障りな高笑いする。

 が、その刹那。静寂が戻り、鈍い缶が転がる音だけが聞こえる。顔を上げると男ではなく先輩が立っていた、驚いた。

 男が缶を投げたのを見て駆け付け、上段回し蹴りをくらわせたらしい。

「大丈夫だった?私が女装なんてふざけたから、ごめんね」

 先輩にそう言われると辛い。こんな泣きそうな声をされるなんて、俺って罪な男。

「大丈夫です。躱す気なかっただけなので自己責任ですよ、それに女に見える俺も悪いんです。それよか早く警察を」


「そ、そうね。ありがと」

 犯人は無事逮捕されたが、まあた視線を感じた。気がする。

 「お疲れ様」

 ねぎらいの言葉をありがたくいただくと、当然の疑問が浮かぶ。

「何であんな強いんすか?」

「酒よ、酒。アイツ酒を投げやがった」

「そうじゃなくて、あんなに強いわけは?」

「あー、私、空手4段、合気道5段なの。どう?すごいでしょ。惚れちゃった?」

 茶々を入れてくるときに寄せる顔が近い。紫色の髪もシトラスの良い香り。思春期の男の子にはきついです。

「後者はともかく、前者はそうですね。マジですごいっすよ。でも自惚れるのはだめですよ?」

「可愛いなー、弟か妹にしたいよ。これからもよろしくね」

 改めてそう言われると、なんか照れますねぇ。「これからも」ってなんか響くわ。

「こちらこそ。うちには最高にかわいい妹がいるんですよ、いいでしょう」

 なんか紫田先輩はしょげていた。


 翌日の昼休み、の前。体育でテニスをしていると校門の前に黒い高そうな車が停められていた。ムム?見覚えが、

 出てきたスーツの麗人は許可を取って中へ入るとすぐにこちらへ駆け寄ってきた。見覚えがあると思ったら昨日見かけたマネージャーだった。つまり、色島に用があると。

 5分も経たないうちに俺らの前を通り過ぎ、車に乗った。急ぎの撮影でもあるのだろう。芸能人は忙しいなと思う節無であった。

 因みに、色島に昨日のことは何も言われなかったのでホッとした。超どうでもいいね。

 にしてもあのマネージャーのおれへの視線がスゴい。車からも見られたし。

 その後クラスはまたも色島の話題で持ちっきりだった。冷めるまで時間がかかりそうだな。

 今日はバイトが無い。つまり、アイアムフリー。何をしようか迷っていると、萌黄仄火に文芸部に誘われた。どうせ暇だし付き合うか。

 ドキドキなどすることもなくひどく退屈な時間を過ごしてしまった。来週は剣道部に行ってこっちからはフェードアウトしよう。うん、それが英断だな。

 学校生活の方も中学の時と比べればよい方だ。鋼の精神を用いずに済む。よーし、もっと友を作ろう。


 そんな俺の心を知ってか知らないでか、は知らないが、色島彩乃が俺に声をかけてきた。

『放課後、校門の近くで待っていてほしい』

 一瞬告白かと期待したが、フラグなど立っているはずないし、目立つところですることでもないので即否定できた。悲しい。

 それでも、いきなり美少女に呼び出されると男の子はドキドキするものなのです。

 約束の時間、約束の場所、到着。来るかな?

 待たない内に、彼女はやってきた。マネージャーを連れて。

 ――ちぇっ、二人きりにはさせねえってか。

「こんにちわ、待たせてしまったかしら」

「いや、ほぼ同時だよ。それで、何かな?」

すると彼女本人ではなく、隣のマネージャーが切り出してきた。

「初めまして、色島彩乃のマネージャーの翠川麗子です。本日は女優デビューの提案をと思い、お呼びいたしました。コンビニや学校で見かけるたびにぜひスカウトしたいと思ってたんですが」

一通り要件を述べ、名刺を渡してきた。どうやら本物らしい。

 リアクションに困る。本来なら即オーケーを出して事務所にでも凸りたいものだが、この人は俺の制服を見てもなお「女優」と言ったのだ。意味不明。

「え?えぇ。コンビニで見られていたと思ってましたが、まさか本当とは。じ、じゃなくてなんで女優なんですか、俺は男なんですけど」

「はい、存じ上げておりますよ。そこは敢えて女優で行くんですよ。バレたらバレたで話題になるでしょう?それに同じクラスの浅葱さんっていう娘にも声をかけようと思ってまして。性別不詳の二人。グッドアイデアでしょう。そうなんですよ、はい」

すごい発想力だな、この人。目を見張るものが君にはあるゾ。まぁギャラがもらえそうだし良っかな。

『これからもよろしくね。』『こちらこそ。』――紫田先輩と約束したけどどうしようか、あれは無視できない。

「そんなに忙しくならないならいいですよ?」

「構いませんよ、では早速事務所へ行きましょー」

20代後半とは思えないぐらいに目をキラキラさせる翠川さん。

 一方で色島は俺をジトっと睨んでいた。何?俺何か悪いことしましたですか?怖いって。

「あのー、浅葱の方は……?」

すっかりてっきり忘れちゃっていた翠川さんは軽く頭を下げると「そこに居て!」と言って走っていった

 「ねぇ、黒季君」

いきなりなんやねん。

「は、はい?」

上ずりそうな声を静めて返事をする。

「女優って何だと思う?」

「え?なにって、テレビで演技したりトークしたり、写真撮られたりして、英語で言うアクタレスのこと?」

意味不明の質問に精一杯答えてみたら、やっぱりどこかおかしかったのか、微笑を浮かべられた。

――人気女優だけあって笑顔も可愛いなぁ。

「黒季君って面白いね」

「はぁ」

照れますね。

「私は女優っていう仕事が自分の天職みたいなのだと思うの。演じているわけじゃなくてただ生きてるだけ。驕っているように見えるけどホントなんだ。疲れもしないし、楽しくないときだってある」

黒髪をなびかせ微笑む彼女は非常に画になる。

「な、なるほど。奥が深そうで浅いというか、深そうで浅いというか。なんかすごいなぁ。ちょっとたのしみだわ」

「オイ、お前達」

何かと思えば翠川さんではないか。しっかり浅葱を連れている。

「なにイチャコラしてんだよ、離れろ離れろ。週刊誌来るだろが」

「はぁ!してないっすよぉ。何言ってんすか?」

この人子供過ぎるよ、大人じゃないよ精神が。

「あのー、この人も何ですか?」

一緒についてきた浅葱春夏が助け船を出してくれた、おそらく意図はないけど。ていうか俺の名前知らないのでふか?一応小中高同じなのです。

 ま、まぁ俺は陰キャだったから不問にしようか。

 因みに、今日はアルバイト休ませていただきました。


 事務所、社長室にて。

 「社長、お待たせいたしました。こちら私がスカウトさせていただいたお二人です」

「どうも、初めまして。黒季節無です」

「浅葱春夏です。よろしくお願いします」

社長は数秒間俺らのことを上から下へ、下から上えじろじろ眺め金縛りを起こさせた。審査されているのだろうか、歯痒い。そんな俺に対して横目で見た浅葱は怯むことなく悠然と立っていた、この人に緊張感はないのな?

「はい、採用。契約書サインしてね」

いきなりすごいこと言ったなこの人。社長はテキトーな人だと覚えておこう。

「いいんですか?」

問うと、

「無論だ。早くて来月には撮影だな。ところで、君に関してだが名前を変えようか。『節無』じゃイメージを崩しかねないからねぇ。そのうえ男に見えてしまう」

「ぜひぜひ」

シンプルにありがたい話だ。この名前で世に出ることにはいささか抵抗があったが杞憂だったようだ。

「どんなのがよろしいでしょうか?」

「流石に『せつな』には近づけたいね。単純だけど『夏瀬』とかいいんじゃないかい?」

「『黒季夏瀬』ですか、めっちゃ爽やかそうでいいっすね。これからよろしくお願いします。」

先日も言ったなぁ、この言葉。紫田先輩になんて言おうか。

 それより女子過ぎる名前じゃなくてよかった、中性的にオッケー。

 先に契約書にサインしていた浅葱は早くしろと言わんばかりに鋭い眼光で俺を射抜いていた。怖いよぉ、主に目が。

 外に出るともう既に日が沈んでいた。時刻にして十八時。帰ると十九時ぐらいか、と思っていると

「送るよ、二人とも。今日は遅くまでありがとう。彩乃君にも感謝してるよ」

そういえ色島は何をしてたんだろうか。まったく気配を感じなかったな、挨拶にでも回ってたのかな。なんか申し訳ないことしちゃったな。

 「ねぇ」

車の座席から声がしたと思ったら浅葱春夏ではないか。

「黒季君は女優でいいの?バレた時のリスクとか男子からしたら嫌なんじゃないの?」

俺の名前覚えてるんかい。てか、ほぼ喋らない俺のこと心配してくれんのか?優しいなぁ。やっぱり――好きだ。

 あれはたしか、小学五年生の秋。課外学習で浅葱とペアを組んだ時のこと。悪戯が大好きだった俺らの担任はすべて男女ペアと知っていて迷わないように手を繋がせた、小五にだよ?もちろん生徒は従うしかなかった。そして浅葱はつなごうと手を出してきた。その時に感じた。

 小学校入学時代から人の温もりを感じることはなかった俺に初めて伝わった温もり。それが浅葱春夏だったのだ。中学で俺がいじめられているときに唯一浅葱だけは加担しなかった。でも、俺はそれがひどく気に障った、「傍観者が一番憎い」と。

 それでもあの時の温もりは冷めない。冷めてくれない。

 「マネージャーさんがそこは逆にオイシイ所とかなんとか言ってたな。話題性があって良いらしい。俺個人としても気にすることはないし。わざわざ心配ありがとう」

「へー、なかなか面白い方なのね。あと、別に心配してないから」

いつから浅葱はこんなに刺々しくなったんだ。

「麗子さんには随分と好かれているのね、黒季君。でも、芸能界は甘くないわよ」

色島の表情が一瞬翳ったように見えたのは気のせいだろう。

「……あぁ」

「頑張りましょう。」

「「おー!」」

コーレス完了。

 因みに浅葱の家に先に行ったから住所がわかったのでいつでも行ける。


 家に帰ると十八時半。おかげ様で夕飯には遅れなかったか。

「おっそーい!!」

吹雪が俺を怒鳴りつけてきた。可愛いなぁ、癒し。

「遅くまで何してたの兄さん?」

言うと思ったぜ。ハッハッハ、予知能力完璧。

「事務所に行ってきた」

ドヤ顔すると、吹雪は「は?」という顔をしている。

「女優に採用されたんだ。この美貌を評価されたってわけよ」

「じょ?女優?おんな?」

「イェス」

「兄さん、スゴい。昔から可愛いもんね。でも、女として世を渡るのめんどくさそう」

輝かしい目で見られると照れるからやめて、やめて。

「可愛いかどうかは置いといて、吹雪が嫌なことは無いか?あったらすぐ取り消すけど」

顎に指を当てて考える仕草をする妹が尊い。

「ない、よ。うん。むしろ応援するよ!!」

「ありがとな」

頭を撫でるとウサギみたいになっていた。

「じゃ、兄さん。ご飯にするぞー」

「おー」

 相変わらずおいしい味噌汁をすすって箸をおく。

「親父にも伝えといてくれ」

俺は自分の名前のせいでいじめられたため名付けた親父――黒季剛治――を嫌っていた。

「兄さん。しっかり自分で報告してください。向き合ってください」

「……っ」

妹よ、見捨てるのか。くっ、致し方ない。

「了解だ、尽力する」

「うん。それでよし」

はい、最高スマイル一本。


 これまで雲量4割ぐらいで晴れていたのだが、一気に台風と化した。

 時を戻そう。

 採用されたあの夜、返ってきた親父に芸能界デビューの件を報告し、承諾をもらい自室に戻ろうとした矢先、熱帯低気圧が発生した。

「再婚しようと思うんだ。予想外の事だがお前も職に就いたことだし、潮時かと思って今話してる。相手の方は高校一年生の――お前と同い年の――娘さんを連れている。お前の意見を聞きたい」

 あの一撃必殺級の破壊力を持った攻撃「再婚」。同い年の娘さんはウェルカムだよ。でも、母さんかぁ。

――俺は6歳の時に母を亡くした。死因は過労死。職場で倒れ、そのまま息を引き取った。

 そして、幼かった俺は心に深い傷を負い暗い人間として生きてきた。

 再婚についてはどうせ事後相談だと思うし賛同したが少し不安ではある。吹雪は知っていたのだろうか。吹雪が良いならいいのだけれど。


 再婚の日は早く来た。あの夜の二日後である、早すぎでは?

 彼女らはそれぞれ柚衣、雪羽と名乗った。

 

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