第111話 星に願いを 3
飛牛座の物語
遙か昔。
世界の端にある島に一頭の牡牛が生まれました。
断崖絶壁に囲まれた島の上で牡牛は何不自由なく育ちます。
その島は緑に覆われ季候も良く、牛にとっての外敵もいない楽園でした。
しかし牡牛には悩みがありました。
それは毎晩眠る度に見る夢のことです。
夢の中での彼は島の上を飛ぶ鳥たちと一緒に自由に空を駆けていました。
そして決まって最後は遙か空の上に浮ぶ雲を突き抜けた所で目が覚めてしまうのです。
あの場所には何があるのだろう。
ボクはそれを知らないから夢でさえあの場所にたどり着けないんだ。
断崖絶壁で囲まれた島から抜け出すには夢の様に、あの鳥たちと一緒に空を飛ぶしか有りません。
ですがただの牛である彼には空を飛ぶことは不可能。
結局は遙か彼方の地に思いを馳せる日々を過ごすしかなかったのです。
「ボクにもあの鳥の様な翼があれば飛べるのに」
そんな呟きを他の牛たちはあざ笑いました。
「牛が空を飛べる訳が無いだろ」
「羽が生えてたってすぐに落ちて死んでしまうよ」
だけどただ一頭だけ他の牛たちと違う事を言う者がいました。
「やってみなきゃわからないだろう。こいつはずっと空を飛ぶ夢を見続けているんだ。きっとそれには意味があるはずさ」
その牛は彼が唯一自分の夢のことを話した親友でした。
「見てろよ。きっと飛んでみせるから」
親友の言葉に背を押される様に牡牛は断崖絶壁へと向かいます。
下を見ると波しぶきを上げるゴツゴツした岩が見えて、落ちたら死んでしまうことは間違いないでしょう。
それでも牡牛は飛べると信じました。
今まで何度もその崖から飛び立とうとしては諦めてきた牡牛は、親友の言葉を胸に今度こそと助走を付け一気に空へ飛び出したのです。
誰もが牡牛がそのまま崖下に叩き付けられると思いました。
ただ一頭、彼が飛べると信じた親友だけを除いて。
しかし牡牛はそのまま牛たちの視界から消えてしまいます。
誰もが落ちたとそう思った時でした。
崖の下から牡牛がまるで空中を駆ける様に空へ向かって飛び出したのです。
「やったぞ。飛べた。ボクはこれで自由にどこにだっていけるぞ!」
そう叫んで唖然として見上げる牛たちの上を数回回り、親友との別れを済ませると牡牛はそのまま更に上へ上へと駆け上がっていきます。
そして夢にまで見た雲を抜け牡牛はいつしか星の世界にたどり着きました。
自由に空を飛ぶ力を手に入れた彼はそうしていくつかの星を巡り、その軌跡を繋いだものが飛牛座と呼ばれる星座となったのです。
***********************
「牛が空を飛ぶとか考えた人はどんな人なんでしょうね」
「きっと牛が飛ぶ鵜夢でも見たんじゃないかな。でも僕は結構好きなお話なんだよ」
星座の話は不思議と悲劇が多い。
なので飛牛座のような明るい話は貴重で、だからこそ印象に強く残っていた。
「でもそうですよね。誰だって空を自由に飛べたらって一度は思いますもの」
エストリアは少しだけ何かを思い出す様な表情を浮かべてそう呟く。
もしかすると以前聞いた事があるカンコ鳥のことだろうか。
「でも、そんな自由を求めた牛さんも今は星になってずっとあそこにいるんですよね」
エストリアの言葉を聞いて僕はそのことに初めて気がついた。
自由を得たはずの牛は星座として自由を奪われ、ずっとあの場所にいるしかなくなってしまったのだと。
「もう十分に飛んだから休んでいるのかもしれないね」
「じゃあまたいつかどこかへ飛んでいきますね、きっと」
「そうだね。きっとそうだ」
事実星はずっと同じ場所にある訳では無い。
今見える星座も長い月日が経てばそれぞれ場所を変えて形を保てなくなっていくのだろう。
だからその時には牛はまた自由にどこかへ飛んでいくに違いない。
「……良かった……」
「そんなに牛が心配?」
「違いますよ」
どうやら僕の質問は的外れだった様で。
エストリアは可愛らしく頬を膨らませると耳を揺らして僕の方を向き。
「レスト様のことです」
と言った。
「え? 僕?」
「そうです。最近レスト様の様子がおかしくて……皆にはいつもと変らないのに私にだけ……」
エストリアの瞳が揺らぐ。
「私、何かレスト様に嫌われる様なことをしてしまったのかとずっと……」
「僕が君のことを嫌う訳ないじゃないか」
彼女の瞳に薄らと涙が浮びかけるのを遮る様に僕は強く彼女の言葉を否定する。
だけどどう答えれば良い。
「それじゃあどうして」
身を乗り出し問い掛けてくるエストリアの顔に不安が見て取れる。
このまま適当に誤魔化すのは彼女のためにも。
そして僕のためにも良くない未来しか生み出さない。
「ちょっと前にヴァンがフェイルにプロポーズした時にさ」
僕はエストリアを篇に意識し始めたあの日のことを語り始める。
「君が『自分より弱い男には惹かれない』って言ってたのを覚えているかい?」
「私がですか?」
「ああ。フェイルにプロポーズを断られたヴァンに、君はそう言ったんだ」
だから僕は不安になった。
エストリアから見て、僕は強い男では無いことを自覚していたから。
元とはいえ一国の姫の目から見て僕は為政者としても男としても頼りなく見えているのではないかと。
「そんなことは……」
「それだけじゃないんだ。あの後ヴァンが僕の所にやって来ただろ?」
「何か話していたのは覚えてます」
「あの時にヴァンに言われたんだよ。僕が君を好きなんじゃないかって」
「えっ!?」
僕はあの日、ヴァンと話したことをエストリアに語った。
ヴァンに言われて彼女のことを篇に意識する様になったこと。
強いものに惹かれると言った彼女に自分の弱さを見せたくなくて避けてしまったこと。
そしてそれが恋かどうかまだ僕にはわからないということも全てだ。
「あ……えっと……その……あの……」
話の最中、エストリアは顔を赤くしたり青くしたり。
手を忙しなく動かし、それ以上に激しく頭の上の耳を動かしたり。
星を見て星座の話を語ったおかげで落ち着いた僕とは正反対にエストリアは落ち着きをなくしていった。
「だから今日もエストリアから星見の塔に誘われてどうしたら良いかわからなくて」
「そうだったんですね」
「迷ってる内に君にあんな哀しい顔をさせちゃったから……だから決心したんだ」
僕は椅子から立ち上がると、いつの間にか天高く昇った飛牛座を見上げて。
「僕が悩んでたことを。それが僕の弱さを見せることだとしても君に正直に伝えようって」
「……」
今、エストリアがどんな表情をしているのか確かめるのが怖い。
自分より弱い人には惹かれないと言った彼女の言葉は嘘では無いと思う。
「といっても星を見るまでは迷ってたんだけどね。でも今は不思議と落ち着いて話すことが出来ているよ」
だけどヴァンはそれだけじゃ無いと、僕は強いと言ってくれた。
自分自身にはわからない何かに僕は掛けよう。
空なんて飛べるはずが無いと諦め書けていた牛が、勇気を振り絞って空と自由を手に入れた様に。
「はぁ……」
だけど背後から聞こえたエストリアの大きな溜息に、僕の心は一瞬で凍り付いた。
やっぱり駄目だったのか。
僕はきっと彼女に見限られてしまったのかも知れない。
「そんなことで悩んで居たのですね」
呆れた様な声に僕は振り向けない。
だけど――
「えっ」
優しく温かな体温が僕の背中に伝わる。
そして僕の体を包み込む様に二本の腕が前に回され優しく抱きしめられた。
「レスト様。貴方は自分の弱さばかり気にして強さには気がついていらっしゃらなかったのですね」
「僕の……強さ?」
「はい。貴方の強さです」
回された腕に僅かに力がこもる。
「クラフトスキルのことを言ってるなら、それは僕自身の力じゃなく神様から授かった力だよ。だから僕はそれを僕の力だって誇れない」
「違います」
「えっ」
てっきり僕はエストリアやヴァンの言う僕の強さというのはクラフトスキルのことだと思っていた。
現にヴァンも秘密の入り江で大波を防いだ時の話をしていたじゃ無いか。
だけど彼女はそうじゃないときっぱり言い切った。
「貴方の本当の強さは誰もを許し、幸せにしようとする心の強さですわ」
「……僕の心は弱いよ。だってあの日からずっと君を避ける様なことをして傷つけて」
「それはヴァンが悪いのです。あの子は人の心の
エストリアはそう言って笑った。
「レスト様の心の強さというのは私たち全てを守ろうとしてくれている強さのことです」
彼女は語る。
「ガウラウ帝国という大国から逃げてきた私たちも、エルフたちに追われているレッサーエルフたちも、ドワーフという枠から抜け出そうとしているギルガスさんたちも。誰もを貴方は守ると言ってくれました」
「……逃げてきたのは僕も一緒だからね。貴族社会から、大貴族の跡取りという立場から逃げて。もうこれ以上逃げることが出来なくなったというだけさ」
「それも嘘ですよね」
「えっ」
「貴方は貴族が嫌で逃げてきたといつも口では言ってますけど、同じように貴族として民を導き守ろうとしてきた。私たち全てを領民として受け入れて貴族の責務として守ると」
「それは。一応この島の領主は僕だから」
「自由気ままに貴族社会から逃れて生きるだけなら貴方の
何も言えなくなった僕に構わずエストリアは続ける。
「貴方を追放した人のことだって、貴方は許したのでしょう?」
「……許してなんかいないよ……レリーザは僕の母を苦しめた人なんだから」
「嘘。貴方はとっくに許してる」
「許してなんかっ」
ぎゅっと更にエストリアの力が強くなった。
それは僕がこれ以上嘘で自分を苦しめることを止めさせようとしているように感じて。
「その人を破滅させることが出来るだけの証拠を貴方は既に幾つも持っている。なのに今までも、たぶんこれからもその力を貴方は使わない」
「弟に悪いからだよ。僕の責任を全部押しつけてきてしまったから」
それは本当だ。
もし僕がレリーザのやって来た悪事の証拠を父や王国に暴露してしまえば何の罪も無いバーグスにまで害が及んでしまうだろう。
僕のことを兄と慕ってくれた僕より優秀な弟を僕は守らないといけない。
「本当に優しい人ですねレスト様は」
ぐるりと俺の体が180度後ろに向けさせられた。
エストリアの力には僕はあらがえない。
「大丈夫です。レスト様の優しさと強さは貴方に着いていこうと決めた皆が知っていますから」
エストリアは僕の顔を見上げながら優しくその手で頬に触れる。
「だからそんな顔は皆には見せないで下さいね」
「僕はどんな顔をしてるのかな?」
「百年の恋も冷める様なお顔ですよ」
「それは酷い」
自分ですら気がついていなかった自分の心。
それに気付かされてしまった。
だから僕はどんな表情を浮かべたら良いのかわからなくて。
無理矢理笑顔を浮かべようと表情筋に意識を向けたとき。
「でも私はどんな顔だろうと好きです」
「えっ」
エストリアの囁きにも似た言葉に驚いた僕は、その真意を確かめようと口を開きかけ。
だけどその前に強い力で引き寄せられ、何か柔らかなものを押しつけられる。
それがエストリアの唇だと気がついたとき僕はやっとわかった。
僕が彼女に感じていた思いこそが恋だったのだと。
そして僕は天を埋め尽くす星に願う。
この幸せな場所でこの幸せな時間が続きます様にと。
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