第3話 どしゃぶりの建築現場にて(2012年6月22日記)

太宰治の「晩年」という作品の中に、以下のような文章が書かれています。


    歩道の上で、こぶしほどの石塊がのろのろ這って歩いているのを見たのだ。

    石が這って歩いているな。

    ただそう思っていた。

    しかし、その石塊は彼の前を歩いている薄汚い子供が、糸で結んで引きずっているのだという  

    ことが直ぐにわかった

    子供に欺かれたのが淋しいのではない。

    そんな天変地異をも平気で受け入れ得た彼自身の自棄が淋しかったのだ


この文章は、生来すぐ深刻になって、ただそればかりを一心不乱に思い悩む私の性格にはピッタリ当てはまる文章で、私が社会人になって38年間、今なおこれと類似したことが起こるたびに思い出す文章であります。

私の場合も、何か悩み事ができるともう頭の中はそればかりで、それが解決しないかぎり、周りのものが何もかも見えなくなってしまうのです。

そして私にはその現象があまりに多いので、私的にはこの現象を「太宰治の石」と名付けております。

先日もまた私は、奈良の地元業者の建築工事現場で、「太宰治の石」現象を体験したばかりなのです。


今年の五月はよく雨が降りました。

その日も、朝から梅雨時みたいに雨が朝からシトシトです。


実は、昨日の20時頃に、私は晩酌を終え自宅でテレビを見ていたら、奈良の地元建築業者の現場監督さんから私の携帯に電話が入ってまいりました。

以下のお怒り電話です。

 その現場の軽量気泡コンクリート版の改装工事の仕事を私が請け負って、二日前に私の会社の職人が気泡コンクリート版の開口部分を10ケ所ばかりあけたのですが、今日いずれの開口部にもサッシュが収まらなくて、サッシュ屋さんが怒って帰っていったとのクレーム電話です。

 監督さん、相当お怒りのようで、私への罵声が大きくて思わず携帯電話を耳から遠ざけるほどのお怒りです。

ですから、その日は朝5時に私の会社の奈良事務所に入って、その工事現場の図面を見て開口部の寸法

の確認をしたのですが、どうも私が足し算を間違えたようで、その数字で職人に指示してしまったこと

が原因であることが分かってまいりました。

とにかくすぐ監督さんに連絡をとらなくてはと、この時間では失礼と思いつつ、6時半頃から何回も監督さんの携帯に電話するのですが、まだ監督さんは相当怒っているのか電話に出てくれません。

こういう時って、もう私の頭の中は一心不乱に「グウワ~」という状態です。

もう机の上にあるものすべて、パソコンも電話機もファックス機も、みんなグチャグチャにして飛んでいけ~っていう感覚です。

本当は誰かのせいにしたいのですが、自分が原因では最悪です。


とにもかくにも事務所でじっとしておれなくて、私は7時頃にそのクレームの発生した現場に行きました。

現場に着くとますます雨脚が強くなってきて、この状態が続くようでは、今日の現場作業は中止模様です。

ただ気配的に、誰か一人ぐらいの職人さんがこの現場にいるようで、雨音に混じってかすかな作業音が聞こえてまいります。

一方、現場事務所の方は明かりがついておらず、鍵も閉まったままです。

私はこのままでは帰れず、いずれ来るであろう監督さんを待つために、現場事務所の前で雨宿りです。

雨で少々濡れて寒かったので、現場にある自動販売機の温かい缶コーヒーを飲みながら雨宿りしていても、考えるのは後悔と監督さんへの言い訳ばかりです。


それから十数分経った頃でしょうか、工事現場の二階で先ほどから作業をしていた職人の足音が、こちらに近づいてまいります。

二階から顔をのぞかせてこちらの方をうかがっている職人さんの顔は、何度も他の現場で見たことのある職人さんです。

確か、水道屋さんのN工業の職人さんのはずです。

そして突然、その職人さんは道具を地上目がけて投げ落とします。

こんな行為は現場では絶対禁じられているのですが、職人さんは何かとても急いでいるようなのです。

たぶん、監督さんに言えないミスでもして、朝早くから今まで、誰も来ないうちにと、手直し作業でもしていたのでしょう。

そして、職人さん自らも、現場の足場の階段を使わず、二階から地上目がけて飛び降ります。

案の定、この土砂降りの雨のぬかるみで足を滑らせて、職人は転倒します。

本来なら、私はその職人さんにかけ寄って、「大丈夫ですか?」ぐらいの声をかけたでしょうが、今の私はそれどころではなく、頭の中はクレーム処理の事で一杯です。

ボーっと職人さんの方を見ていると、その職人さんは立ち上がって、私の方を見やって「黙っていて!」というように、指を唇に当てます。

そして職人さんはその後、雨の中に道具を置いたままで、足を引きずりながら車に乗りこみ、急発進で現場を去っていきました。

普段なら気付いていたはずなのですが・・

激しい雨が降りしきる中、私は今、「太宰治の石」現象をまのあたりに体験しているのに、さっきから私の頭の中は、後悔と監督さんへの言い訳ばかりだったのです。


その後、その日の9時半を過ぎたころに、監督さんはやっと現場にお見えになりました。

私のような齢60を越えた人間が、雨宿りをして待ち受けていたのを気の毒に思ったのでしょうか、監督さんは昨夜のような感情を私に見せることなく、クレームの件の処理についての打ち合わせをスムーズに終わらせる事ができて、私の方はまずは一安心です。

ただ、監督さんが先ほどから気にしているのは、現場の前で雨ざらしとなって散乱している水道屋さんの道具の事なのですが、私の方といえば、そんな事はすっかり忘れてしまって、心の中は「早くこの現場から去って、どこかでタバコを一服吸いた~い」の一心です。


その日から約1ケ月後です。

6月に入りますと、建設業界の年一回のイベントとして、各地で建築業者主体の安全大会が行われます。

当然前述の建設業者の安全大会も開かれ、奈良市のRホテルで開催されました。

私は会場の受付で、その日の安全大会のパンフレットを受け取ります。

パンフレットにはどこの業者の安全大会でも同様で、安全面での前年一年の経過報告と今後一年の行事計画が記されてあります。

ところで私は、ここの建設業者の安全大会のパンフレットを見ていて、大和高田市の建設現場で昨年の年末に、現場の下請け工事業者の職人が3ケ月入院の重大事故を起こしていることに気付きます。

当会場で、横にすわっている顔見知りの下請け業者さんに私は聞きます

「ここに記載してある事故って、どこの会社が起こしたのですか?」

相手は

「あんた知らんかったんけ。水道屋のN工業さんやの!」


もう、私の頭の中は、フル回転です。

ここ1ケ月、何かのどに引っかかっていたものが、すべて吐き出されます。

N工業の水道屋さんといえば、1ケ月前の雨降りの現場でころんだ職人さんの会社です。


そして私はあの日の状況を、くっきりと思い出します・・

あの日、雨の中で足を引きずりながら車まで行った職人さんのジカタビは、左足の方は前方を向いていたが、右足の方は・・逆側で・・確かこちらを向いていた・・ということを私は思い出したのです。

水道屋さんの職人さんは、飛び降りて雨のぬかるみで足を滑らせた時に、骨折か捻挫で自分の右足首がひねられて、百八十度回転していたのです。

私の記憶のワンシーンが、突然呼び起こされたのです。


普通の痛さどころか、気絶するぐらい痛かったであろうに、その職人さんは私に「誰にも言うな!」という合図を送って、とにかく事故隠しのために現場を去ったのです。

現場の近くで車を止めて、職人さんは気絶していたかもしれないというのに、この私は、監督さんへの言い訳などというおのれの事ばかりに夢中になっていて、事務所の下で雨宿りしていたのです。

多分、昨年年末の大事故で、半年後も同じ水道屋の会社の事故となれば、自分の会社がこの建設工事業者との取引を停止にさせられる可能性が大きいと、その職人さんは瞬時に判断したに違いないのです。

右足で車のアクセルを踏んだ時、多分その職人さんは悲鳴を上げて気絶を耐えたに違いないのです。

なんという職人気質!


その日の安全大会後の親睦会で、ほろ酔い気分になった私は、帰路の近鉄電車の中で「しかし」と考えます。

その件は当然、その水道屋さんの代表者の知るところになったと思うのですが、その事実を知った時、その代表者は本人に「良く耐えてくれた」とほめるのでしょうか

「おのれの体が一番や」と怒るのでしょうか

それとも複雑な顔で「ゆっくり休みな」とでも申すのでしょうか。

しかし、これほどの職人です、会社には金輪際だましとおして、家の階段から滑り落ちてしまって申し訳ない、というのが一番合っているような気もします。


ただ、いつか、退院後のその職人さんにまた出くわしたら、私はなんと声をかけたらいいのでしょうか・・

今からドキドキです。

どうも、その職人さんの気質から考えて、

私がお詫びのことばとして、「太宰治の石」なんてことを持ちだしたら、

間違いなくぶん殴られるでしょうから・・

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現役のころの営業日報から・どうでもよいはなしを3話 h-nakai @kurage310

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