人間の写し身

『あれ…? そう言えばあいつって誰だっけ……?』

 麗亜れいあの枕元に座り込んだ璃音りおんはそんなことを思った。『あいつもそれで死んだんだから』とか言っておきながらその『あいつ』のことが思い出せない。

『…? ……?』

 璃音は自分の記憶が一部曖昧になっていることに改めて気付き、愕然となった。

『そうだよ…私、なんで生きてるんだっけ……?』

 そう。璃音は自分がどうして生きた人形になったのかの説明をしなかったけれど、それは他ならない璃音自身がその理由を知らなかったからだった。

 だから今回、こんな風にカッターナイフを取り出して麗亜に切りつけようとする行動の元々の理由を、璃音自身が理解していなかった。

 ただ…ただとにかく、どうしようもなく苛立ってしまったのだ。自分を無条件に受け入れて信頼しきって呑気に眠る麗亜のことが恨めしく思ってしまったのだった。

 でもなぜ……?

 どうして自分はこんなにも苛立っているのだろう。その理由そのものが璃音にも分からなかった。

 他人を信じること、許すことを『甘い』とか『お花畑だ』という人がいる。けれどそれは、結果が出てみなければそれが適切だったのかどうか分からない筈だ。信じたことで、許したことで良い結果が出ることもあれば、悪い結果が出ることもある。そのどちらが出るのか分からないうちから『間違ってる』と何故分かるのか。

 良い結果が出たらそれは無視して、悪い結果が出ることばかり考えて『甘い』とか『お花畑だ』とか、自分の判断はいつだって正しいとでも思っているのだろうか。そんないつでも正しい判断ができる人間が、どうしていちいち他人に噛み付くのか。そんなに心に余裕がないのか。正しい判断ができるなら、もっと余裕があってもいいのではないのか。

 結果として、これ以降、璃音は麗亜を直接傷付けようとすることはなかった。璃音を信頼し、安心しきって眠る麗亜に対して何故苛立たないといけないのかというのが璃音自身にも分からないということを、他ならぬ璃音自身が自覚してしまったからだった。

 これまでの主人は、璃音に対して常に懐疑的だった。だから璃音もそんな主人達のことを信頼しなかった。主人達の心理が、璃音に投射されていたからだ。

 璃音は人形である。人形とは、人間の写し身なのだ。持ち主の在り様が投射される。雑に扱われればすぐに痛み、大切にされれば良い表情も見せる。

 誰かを恨む念を込めれば、人形もその穢れを受けて呪われる。

 璃音が横柄で身勝手で我侭なのは、要するにこれまでの彼女の主人達の性根が投射されたが故のものなのだった。


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