理想の罠

少しお酒に助けてもらった私は、主人が先ほど彼女に言っていた事が気になったていたので、尋ねてみた。すると主人は煙草に火つけてこう言った。

「多くの人は自分が何処に立っているのか、わからないんですよ。」

「立ち位置のことですか?」たぶん的はずれみたいだが口からでてしまった。

「お客さんも先ほど自分の幸せを、世間的には幸せと、おっしゃったでしょ?しかし、本当の幸せと言うのは、そんなところには、ありませんよ。」「先ほどご主人がおっしゃった[主観的な幸せ]とは、どういう事でしょうか?」「言葉どおりです。つまり、あなたがあなた自身に[私は今、本当に幸せ]と思えればそれが本当の幸せと言うことです。」私はその言葉の意味は、頭では理解してはいるが、なんか実体の無いもののようで、歯痒い気持ちになっていた。その時、また一人のお客が入ってきた。

私と1席ほど開けて座ってきた。今度は、中肉中背で姿勢が良く礼儀正しそうで、年齢は27、8才ぐらいの男性であった。彼は私に軽く会釈した後、主人に常温のカップ酒とたまご、だいこん、しらたきを注文した。そして、所持していたリュックからタバコを取り出し、それに火を付け、うまそうに吸った。

「ふう、やっぱり仕事の後の一服は最高ですね。大将。」彼は常連らしく主人の事を[大将]と言ったので、私はまた好奇心から尋ねた。「良くこられるんですか?お仕事帰りなんですか?」我ながら図々しく尋ねた。

彼はそれにも関わらず、私の方を向いて答えた。「はい。良く寄らしてもらっています。

ここは、私のオアシスみたいなもんです。」

私もそれには同感した。

話によると、彼は介護士らしく、ここには仕事帰りに一杯やって帰るのが日課になっているらしい。それから少しの間、私達は軽い雑談をかわた。しかし、カップ酒を2本目を飲み終える頃には少し彼の印象が変わってきたのである。肘を付き、目が座って、言葉も少し乱暴になってきた。私が少し心配になっているにも関わらず、主人は自分の酒をちびちびやっている。「きみ、大丈夫?」私はとりあえず尋ねた。

「あのクソ野郎!! いつかぶん殴ってやる!!」彼はいきなり怒鳴った。私は突然の事に声を掛けられなかったが、主人を見ると、いつもの事と気にも止めて無いようだった。

「大将。もう一本くれ。」彼の目は真っ赤だった。

「お兄さん、もうお帰り。」主人は軽くたしなめた。

「まだ、全然酔ってないから、もう一本だけ。」たぶん、いつもの事なのだろう。私は

少し黙って二人の様子を見ていた。

「今度は何があったんですか。」主人はあまり興味も無いように尋ねた。

彼の話によると、利用者様の家族は自分の親なのに、めったに顔出さない癖に、来ると「あの対応だと危ないだとか、お前ら本当に利用者に対する愛情もってんのか」など罵詈雑言の数々を浴びせるらしい。事実、介護現場のこうしたトラブルは日常化していると、私もテレビなどでは聞いたことはあったが、介護士本人から聞かされると、聞いている私の方も腹が立ってきた。

主人はそれでも淡々と煙草を加えてそれを聞いていた。

「お兄さん。私はずっとあなたの話を聞いて来ました。そろそろ、その仕事に決着付けませんか。それが、本当のあなたの幸せに繋がると思ういますよ。」主人はやっと彼と向き合った。

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