覚悟はありますか
「まず先にお伝えしておきます。」
「はい。なんでしょう。」
「私は本当に幸せです。」主人は唐突にそして、実に誠実な表情で言った。私は意表を突かれた。
「因みに、あなたは今幸せですか?」主人が私に聞いてきた。
「まあ、そうですね、世間的には幸せかな。」私は気楽にそう言った。
「ひとつ断言できる事があります。それは、本当の[幸せ]に世間的とか、一般的とかは、存在しませんよ、お客さん。あるのは、あなた自身の主観的[幸せ]だけですよ。」私は主人の言っている本当の意味がまだその時はわかっていなかった。その時、お客が一人入ってきたので、私は長椅子の真ん中から左端に移動してそのお客に席を譲った。それは若い女性で年齢は25、6才で上下のスーツ姿からいわゆる会社のOLさんのようであった。
彼女はこの屋台の常連なのか、主人は黙ってお酒と、はんぺんとちくわぶを彼女に手渡した。「よくこられるんですか?」私は営業の癖なのか好奇心なのか、女性に尋ねた。
「いえ。はじめてです。」
「え?」私は思わず声をだした。
「ご主人はなんで彼女の注文がわかったんですか。」今度は主人の方に質問した。
「なんとなく、そんな気がしたんですよ。」
私はこの主人が更にわからなくなってきた。
「あのう、ちょっと話してもいいですか?」彼女は私の会話がなかったかの様に、深刻な顔で主人に聞いてきた。主人は黙って彼女の方を向くと煙草を空き缶の上に器用にそっと置いた。
「私は今、26才で広告代理店で営業のアシスタントをしています。収入もそれなりにあります。彼氏もいます。見た目もそんなに悪
くないと思います。でも、何故か幸せに思えません。どうしてなんでしょうか。」彼女の目には涙が溢れ、今にもこぼれ落ちそうそだった。それに対して主人は淡々と答えた。
「お嬢さん。それは、あなた自身がそれを幸せに思えてないからですよ。」主人はそう言いながら自らカップ酒を一口飲んだ。
「じゃあどうしたらそう思えるのですか。」
彼女は、主人にすがりつかんばかりに食い付いた。
「では、お聞きしますが、お嬢さん。あなたの幸せとはなんですか。」
「そ、それは、みんなに愛され、みんなに認められる生き方じゃないですか。」彼女は本当にそう思っていた。
「お嬢さん。あなたがそう思っている間は
永久に本当の幸せは、訪れないと思いますよ。」主人は吸いかけの煙草を口に加えた。
「そんな、今さらそんな事言われても困ります。じゃあどうしたらいいんですか?」彼女は目に涙を浮かべていた。
「あなたは本当の幸せを味わう覚悟はありますか?もし、無いならこのままお帰りなさい。
そうすれば、あなたはには、これまで同様に無難な幸せ、言い換えれば[虚構の幸せ]が待っていますよ。」私は主人の言葉が自分自身に言われているように思えた。彼女はというと、困惑の淵に追い込まれて身動きが取れないようであった。そして、少し考えて口を開いた。
「私、なんか怖いです。今まで生きてきたすべての事が否定されるようで。私には無理のようです。帰ります。」彼女は主人に頭を下げ足早に帰って行った。また私と主人だけになった。私はというと、もはや後戻りできない状況に陥りそうで少し身震いしていた。
すると主人はそんな私を気遣ってか、私のテーブルの前にぬるめに温めたカップ酒をそっと置いてくれた。「よかったらどうぞ。」
私は会釈してそのカップ酒に口をつけた。
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