やさしいキリギリス
阿佐ヶ谷ピエロ
プロローグ
これは、私が体験した、ある不思議な出来事を書き留めたものである。別に信じてもらわなくてもいいが、ただ私は、この記憶をどうしても残して置きたかっただけである。
あれは、私が50才を過ぎ、これからの自分の人生を考えはじめてた頃の事だった。
営業マンの私は新規開拓で地方の町をいくつも周り、その日の最後に訪れた街で何故か街の名前は未だに思い出せないのであるが、あの出来事だけははっきり記憶に残っている。
あれは、8月も後半に差し掛かり、猛暑だったその年の夏も、やっと終わりが見えてきた時だった。腕時計は夕方6時を少し過ぎていた。歩き過ぎたのか、どこかで一休みしようと喫茶店か、もしくは公園のベンチでもと思ったが、これがなかなか見つからず、しばらく歩いていると、なにか懐かしく、そして、やさしい香りが私を路地裏に誘った。
私はその香りに誘われるままに、奥へ奥へと入っていった。そして、十字路を右に曲がった時、右手の電信柱の手前に、一軒のおでんの屋台が見えた。私は疲労感と空腹感、そして喉の渇きでそれが砂漠の中のオアシスに見えたのを覚えている。
私は店の主人に挨拶もほどほどに、カップ酒とおでんを注文した。最初はビールが欲しかったが、ビールは無いと言われ、素直にそれに従った。先に酒が出てきたので、一気に半分ほど飲んでしまい、空きっ腹の胃袋が一瞬ぎゅるっと鳴った。その後直ぐに主人は、黙って、たまごに、こんにゃく、そしてあめ色に染まった大根を出してくれた。
私は半分あったカップ酒を一気に飲み干し、二本目を注文した。たまごとこんにゃくを一気に食べ終え、おでんも最後に残して置いたあめ色の大根だけになっていた。そこでやっと、おなかも気持ちも落ち着き、改めて店の主人に声をかけた。
「いやあ、助かりました。今日は昼から何も食べてなくて。」私は少し酔ってたのだろう
今日の営業先の事、最近の仕事の事、そして家族の事までいろいろ話していた。その間、主人は黙って私の話しを聞いていた。
私は、そんな主人の静かな対応に甘えて聞いてみた。
「ご主人もいろいろあったんでしょ?」
主人は、灰が今にも足元に落ちそうな煙草を灰皿がわりにしているビールの空き缶に落とした。
一瞬中でじゅっと音がした。
「あなたにはどう見えますか? わたしが。」私はその質問を逆に返されて答えに困った。どう見ても、いろいろご苦労してここにたどり着いた様に見える。
「いいんですよ。思ったまま言って下さい。」主人は実に自然体であった。
「そ、そうですね、やっぱり屋台を引いてらっしゃる人は、なんかこう、例えば、大きな借金とか、会社をリストラされた、とか。」
私は酔ってる事をいいことに、失礼な事をつらつらしゃべっていた。
主人は黙って私の話しを笑顔で頷きながら聞いていた。そして「お兄さん。さすが営業をやってらっしゃる人だ。そのとおりですよ。
私は自分の会社を持ってましたが。多額の借金をかかえ倒産しました、小さな町工場に就職しましたが、不況によりリストラされ、その工場ものちに倒産しました。」私は何も言い出せず、黙って聞いていた。すると、主人はその後の事も話してくれた。
「私は、その後の人生の事を考えて、妻に離婚してくれと頼みましたが、妻は結局最後まで私のそばに居てくれました。去年の暮れに
胸の方のガンで亡くなりましたが、妻はいつも私のそばに居てくれてると思っています。」私は、少しだけ残っいた酒を口に運び失礼を詫びた。すると主人はけろっとした顔でこう言った。
「お兄さん。今の話しすべて嘘ですよ。」
「え?」私は、気持ちの置き場に困った、と同時に怒りさえ沸いてきたのである。
主人はそれでも淡々と語り続けた。
「真に受けたなら、すいません。ついあなたの様な人が私に対するイメージはたぶんこうだろうという物語を創作してみました。
どうでした?あってましたか?」あまりに主人がさっぱり話すので、いつの間にか私の怒りは消え去っていた。
「でも、何でこんな事をするんですか。私はてっきりそうなんだ。やっぱりいろいろご苦労されて屋台を引いてらっしゃるんだ。と」
「私に同情しましたか?」
「まあ、そんなかんじです。」
主人は私の言葉を聞き、煙草を口に加え、100円ライターでそれに火をつけた。そして、肺に溜まった煙を一気に口と鼻から吐き出すと、私にゆっくり語りはじめた。
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