第26話


 握手会は、三十分後には再開する運びとなった。

 会場内では再開するための準備を行っている。俺は、イベントスタッフの仕事を手伝っていた。

 マネージャーやイベントスタッフは握手会の時間調整を行っているようだ。


 会場を借りている時間はもちろん、雇っているスタッフたちの時間の調整が必要なのだろう。

 そもそも、友梨佳本人も握手会の後に色々と仕事が入っていたからな。

 

 俺は別にそういう細かい仕事は特にない。

 会場に戻った俺は、イベント開始についての広報を始めた。


 とりあえず、握手会が再開されるまではこの手伝いである。

 できる限り声をあげる。ただ、今は声を高くしているため、そこまで張りあげるのはできなかった。


 広報の手伝いを行っているときだった。友梨佳のファンと思われる人がこちらへとやってきた。


「あ、あの……さっき友梨佳さんを守ってくれたマネージャーさんですよね?」

「え? はい、そうですが……」


 友梨佳の顔写真が入ったシャツを着ている三人組だ。ガチ勢ってやつか。

 俺がにこりと微笑みながら見ていると、彼らは嬉しそうに微笑んでいた。

 

「さ、さっき見てました……っ! 僕らの天使を助けてくれてありがとうございます!」

「いえいえ……マネージャーとしての仕事ですから」


 友梨佳が握手会を再開するといったのは、きっとこんなファンの笑顔を見たいからなんだろう。


「マネージャーって滅茶苦茶凄いんですね!」

「ええ、まあそうですね。あっ、そうだ。もしもお友達さんがいたら、遅延している理由とか簡単にでいいので説明してあげてください」

「わかりました! ファンのグループラインがありますから、そっちに伝えておきます!」

「ありがとうございます」


 俺がにこりと微笑みながら言うと、三人組は何だか幸せそうな顔とともに去っていった。

 これでちっとは仕事が減ればいいんだがな。

 開始十分前まで広報をしたあと、再び会場へと戻り、握手会が再開された。



 〇



 それから、特に問題は起きなかった。

 友梨佳も始めこそ少しだけ緊張していたようだったが、すぐにいつもの調子に戻っていた。

 結果的に、今回の友梨佳の強行は俺は正解だと思っている。


 PTSD、という言葉がある。

 簡単にいえば、心的なストレス障害だ。強い、トラウマ、とでも言おうか。


 それを引き起こさないためにも、悪い握手会の記憶を、良い握手会の記憶に塗り替えられた。


 ……もしも、友梨佳があそこで中断していたら、二度と握手会ができないほどの強い障害として残っていた可能性もある。

 帰りの車に乗っていた友梨佳は大層満足そうな顔をしていた。


「うん、なんだかんだうまくいった」

「なんだかんだでまとめられるおまえの度胸はさすがだな」

「そう?」

「そりゃあな。あれだけの出来事のあとにいつもの調子に戻れるのは中々ないぞ?」


 帰りのコンビニで買ったグレープ味のアイスを幸せそうに食べていた友梨佳は自慢げに胸を張る。


「昨日、雄一と寝て良かった」

「ちょっと誤解のある言い方をするな。それがどうした?」

「……滅茶苦茶、緊張していた。それに比べたら、大したことない」

「本当に緊張していたのかよ? 表情に出ていなかったが」

「わりと、色々と感じている。……恥ずかしさとか緊張とか……でも、積極的にやらないと、美月にとられちゃう」

「俺は誰のものでもないぞ?」

「美月、おっぱい大きいし、声可愛いし、どちらかというとオタクの雄一とは話があうし、胸大きいし……」

「……わりと胸のサイズ気にしていらっしゃる?」

「気にしていらっしゃる。母も小さいから困っている。父はひんぬー好きみたいだったけど……」

「……」


 ……友梨佳の父はとてもダンディな声で歌う歌手だ。その声で、『ひんぬー好き』と言っている姿を想像して、笑ってしまった。


 俺は時計へと視線を向けた。


 時刻は二十時を過ぎている。

 これからすぐに家に戻り、明日の準備をしなければならない。芸能人ってのは忙しいんだな。


「友梨佳、疲れてはいませんか?」


 マネージャーが声をかける。友梨佳はふりふりと首を横に振った。


「大丈夫」

「そうですか」


 イベントの遅れを取り戻すため、友梨佳は休憩を削って握手会を行った。結果的に当初の予定通りに終わったのだが、友梨佳への負担は大きかっただろう。


「……でも、少し、眠い。膝かして」

「……おう」


 友梨佳は俺のほうに倒れてきて、それから目を閉じた。


「寝付くまで頭撫でて」

「……子どもかよ」

「子どもでいいからー」


 友梨佳は間延びした声で俺の腕をつかんでくる。仕方なく、彼女の頭を撫でていると、すぐに寝息が聞こえてきた。


「まあ、今日はよく頑張ったしな」


 俺はそう思って、彼女が家に着くまで頭を撫で続けた。

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