エピソード4.5 崗に舞う米
紀元前667年11月9日、サノら天孫一行は、筑紫(つくし。今の九州)の国の岡水門(おかのみなと)に到着した。
台本の一つ「日本書紀」では、滞在が二か月余りとなっているが、もう一つの「古事記」では、一年滞在したと記録されている。
この違いは何なのか、今では判然としないが「古事記」では、ここに岡田宮(おかだ・のみや)という行宮(あんぐう。仮の御所)を作ったとしている。
では、サノたちは、この岡田宮で何をしたのだろうか。
まず、岡田宮の所在地を確認しておこう。
現在の地名にすると、福岡県北九州市八幡西区となる。
今日現在も岡田宮として社が残っており、熊族(くまぞく)が、祖先神を祀っていた社であると伝わる。当時の社は今よりも広大であったらしい。
しかし、今は狭められ、サノが住んだ宮も住宅地となってしまっている。
なお、熊族とは、古代の崗(おか)地方を治めた豪族である。ちなみに、崗地方は、今の遠賀郡(おんが・ぐん)一帯を差す。
すぐ傍の一宮神社(いちのみやじんじゃ)には、サノが祭祀をおこなった磐境(いわさか)も残っている。
ここで、熊族の長である熊鰐命(くまわに・のみこと)が噛みついてきた。
熊鰐(くまわに)「ちょっと待ってほしいっちゃ。ここはわしの治める地やろ?なんでサノ様が祭祀をおこなってるんや?でたん(とても)ビックリしたっちゃ。なし(なんで)?」
サノ「わしが祭祀をおこなったっちゅうんわ、おまえがわしに従ったっちゅうことや。」
熊鰐(くまわに)「なるほど。そういうことか。」
熊族の「熊」は「古事記」によく出てくる「わに」のような言葉で、海の豪族という意味合いがある。
それを示す逸話として、熊鰐らが、船団を率いて天孫一行を迎えたという伝承も残っている。
ここで家来たちが噛みついてきた。
日臣(ひのおみ)「じゃっどん、おかしくなかか?なんでわざわざ北九州に来てるんや?前回の菟狭(うさ。今の大分県宇佐市)から、すぐ中国地方に行った方がよかち思うんやが。」
天種子(あまのたね)「そこなんやが、この地は交通の要衝なんや。そのようなことで、九州北部を押さえるのに必要やったんや。」
日臣(ひのおみ)「まこっちゃ(本当に)?」
天種子(あまのたね)「そうとしか考えられません。」
日臣(ひのおみ)「わい(おまえ)の予測やないか!」
サノ「いや、天種子の言う通りやじ。この地は大切なところ。ここが不安定やと、安心して東には行けんかい(から)、どうしても訪問する必要があったっちゃ。」
熊鰐(くまわに)「ちょっと待ってほしいっちゃ。ここが不安定って、どういうことっちゃ。サノ様は、ここに来るまで、わしらが歯向かうとでも思うちょったとですか?」
長兄イツセ「熊鰐殿。そういうことやない。政治的に不安定っちゅう意味やなくて、生活を安定させたいと思っちょるんや。」
熊鰐(くまわに)「せ・・・生活?」
サノ「熊鰐よ。この地の民は何を食べておる?」
熊鰐(くまわに)「海幸、山幸に恵まれとうけん(恵まれているから)、喰うには困ってないっちゃ。特に海産物はうまかよ。」
サノ「そうか。じゃっどん、不漁の時もあるやろ?」
熊鰐(くまわに)「まあ、そういうこともあるっちゃ。」
サノ「そういう時に助かるのが、これっちゃ。」
そう言うと、サノは白くて小さいものを取り出した。
熊鰐(くまわに)「これはなんね?」
サノ「米っちゃ。」
熊鰐(くまわに)「こめ?」
次兄稲飯(いなひ)「わしらは稲作の技術を伝えてるんや。これで、不漁に悩まされることはない。」
熊鰐(くまわに)「こ・・・こんな小さかもんで、腹一杯になると?」
次兄稲飯(いなひ)「いっ、いや、この一粒だけで喰うんやない。これをぎょうさん(たくさん)一緒に煮てやな・・・。」
サノ「兄上、説明するより、実際にやってみたら、クマワニも分かってくれるんやないですかね。」
次兄稲飯(いなひ)「そうやな。その方が手っ取り早いな。」
こうして崗の人々に稲作技術を伝えたのではないだろうか。そのための一年間だと考えられるのである。
一粒が三百粒となる米は、狩猟生活以上の豊かさをもたらす食物である。不漁にも悩まされず、暮らしは安定する。こういった生活の保障を大々的に掲げながら、大和朝廷は各地を統合していったのであろう。
現在の岡田宮では、中殿にサノを祀り、右殿に熊鰐を祀っている。
熊鰐の名前には、ある役職名が冠されている。「県主(あがたぬし)」である。
県主熊鰐命(あがたぬし・くまわに・のみこと)と呼ばれているのである。
県主とは、地方官の名前である。任地の祭祀をおこない、朝廷への忠誠心も高く、大和朝廷の代表者として地方を治めていたという説がある。
また、同じ地方官の国造(くにのみやつこ)の下に属したと考えられているが、朝廷直轄地の長として独立した存在だったという説もある。
今でいうなら、国造が市長で、県主は本庁より出向してきた国家公務員というところであろうか。
崗の民に稲作技術を伝えた天孫一行は、再び海に出て、安芸国(あき・のくに)を目指した。安芸は現在の広島県西部である。
そこに到着する前、周防灘(すおうなだ)の竹島(たけしま)にサノたちは上陸したらしい。高波に遭った一行が、この島に上陸したという伝承が残っているのである。
サノは船酔いがひどく「かの里に上がらん(あの里に上陸するっちゃ)。」と言って、船を付けたのだという。まだ夜のことであった。
夜中の急な訪問者に、里の人たちは驚いたであろうが、困った時はお互い様の精神であろうか、里の人たちは煎じた薬草を一行に献上した。
飲むと、サノたちの気分はすぐ回復し、感極まったサノはこう言ったという。
サノ「我が心、たいらかなり(わしの心が、平穏になったっちゃ)。」
このことから、里のことを「たいらの里」と呼ぶようになったそうである。現在の山口県周南市平野である。
ちなみに、今の竹島は埋め立てにより、地続きとなっている。
その後、サノは「波音の聞かぬ所に(波音が聞こえんところがいいっちゃ)。」と言って、水際づたいに進み、石に腰掛けているうちに夜が明けたのだという。この地は、海上より微(かす)かな光を見た吉兆の地ということで、微明(みあけ)と呼ばれている。
その後、天孫一行は近くの丘陵に登った。
そこから眺める景色の美しさに惹かれたサノは、ここに行宮(あんぐう。仮の御所)を建てることにした。
ここでサノの妃の一人、興世姫(おきよひめ)が噛みついてきた。
興世(おきよ)「殿。私たちの目的は中つ国に向かうことよ。忘れちゃったの!」
サノ「忘れたわけじゃなか。じゃっどん、こっからは、どう進むか、じっくり検討せにゃならんちゃ。そのための行宮やじ。」
シイネツ「我が君のおっしゃる通り、ここからは、うちも水先案内ができないっちゃ。簡単に言えば、未開の地。道なき道を行くが如し。海図なしに航海するってことやに。」
記紀には竹島に滞在したとは一言も触れられていない。しかし、ここに半年ほど滞在したと伝承は語る。その理由は上記のようなことではないだろうか。
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