エピソード3 高千穂の復習
ここで、旅立つ前の狭野尊(さの・のみこと)のことを説明したいと思います。
と言うのも、旅立つ前の伝承もいろいろあったんですね。そこで、急遽、取り上げることにしたわけです。
ここで、三兄の三毛入野命(みけいりの・のみこと。以下、ミケ)がツッコミを入れてきた。
ミケ「ちょっと最近、出番がなかったかい(から)、言わせてもらうっちゃ。そういうのは、最初に書いとかんか!」
主人公のサノも参戦。
サノ「そうやじ。話が飛んで、分かりにくくなるやろ!」
そんなことを言われても、見つかったものは仕方がない。うるさい二人は無視して、話を進めよう。
まず、台本・・・もとい「記紀」に書かれているのは、二つの出来事だけである。
15歳で「日嗣ぎの皇子(ひつぎのみこ)」すなわち皇太子になったことと、吾平津媛(あひらつひめ)を娶り、手研耳命(たぎしみみ・のみこと。以下、タギシ)と岐須美美命(きすみみ・のみこと)が生まれたことである。
タギシ「ちなみに、わしが生まれたことは『記紀』に記されているが、妹は『古事記』にのみ言及されている。可哀そうだが、仕方がない。ま、そういうことだ。」
しかし、宮崎には、他のことも伝わっていた。まず、驚いたのは、サノの誕生地である。なぜ驚いたのかというと、なんと三か所もあるのである。
分かりやすくするために、列挙してみた。
その1、宮崎県宮崎市 佐野原(さのばる)
その2、宮崎県高千穂町 四皇子峰(しおうじがみね)
その3、宮崎県高原(たかはる)町 皇子原(おうじばる)
ほかにも、宮崎県日南市の鵜戸(うど)にも生誕伝説があるそうだが、とりあえず宮崎県の祝典奉賛委員会によって顕彰対象となったのは、上記の三か所である。委員会も、甲乙つけがたく、三か所とも聖蹟伝承地として定めたのであった。
まずは、その1の佐野原について紹介しよう。
ここには、佐野原神社(さのばるじんじゃ)があり、敷地内には佐野原聖地と呼ばれる宮殿跡もある。
この宮殿は、サノの父、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえず・のみこと。以下、ウガヤフキアエズ)の宮殿であり、ここで、サノたち四兄弟が生まれたとされている。
では、小柄で目立たない剣根(つるぎね)さん、お願いします。
剣根(つるぎね)「小柄でわるかったな!では、改めて、気になるアクセス方法ですが、JR佐土原駅から車で25分。駐車場有り。公園にはトイレも有りますぞ。」
次に、その2の四皇子峰について紹介しよう。
こちらには、槵觸神社(くしふるじんじゃ)が有り、天孫降臨後、神々が遥拝(ようはい)した場所と伝わる「高天原遥拝所」も有る。
夜泣き石という、サノたち四兄弟の母、玉依姫(たまよりびめ)のお産にちなむ石というものもある。夜にうごめいて、村の厄災を伝えたことから、夜泣き石と名付けられたのだという。
ちなみに、御神体は、もともと槵觸峰(くしふるのみね)という山で、この山に天孫降臨したという「記紀」の記録があるが、山への信仰は、太古の昔から、おこなわれているものであろう。
では、目のまわりに入れ墨をした大久米命(おおくめ・のみこと)さん、お願いします。
大久米(おおくめ)「はいはい。こちらの気になるアクセス方法ですが、高千穂バスセンターから徒歩10分ですよ。約900メートルです。トイレも駐車場もありますので、御心配なく。」
次に、その3の皇子原について紹介しよう。
こちらは公園になっていて、その名も皇子原公園(おうじばるこうえん)という。
公園内には皇子原神社(おうじばるじんじゃ)が有り、石段横には、サノが坐ったという御腰掛石(おこしかけいし)があり、サノが産湯をつかった場所という産湯石(うべし)もある。
近くの湯之元川(ゆのもとがわ)には、母親の玉依姫(たまよりびめ)が諸物を洗い清めた場所とされる血捨之木(ちしゃのき)もある。
また、皇子原公園の近くには、狭野神社(さのじんじゃ)もある。こちらの神社の社伝によると、サノは15歳まで、この地で育ったという。
神社の南方にある御池(みいけ)という火口湖には、サノたち四兄弟が泳いで遊んだという皇子港(おうじみなと)という伝承地もある。
更におもしろいことに、高原町にも、サノの父、ウガヤフキアエズの皇居跡がある。
「宮の宇都(みやのうと)」という伝承地である。ここでサノたちは、構想を練ったのだという。
では、マロ眉の天種子命(あまのたね・のみこと)さん、よろしくお願いします。
天種子(あまのたね)「皇子原公園の気になるアクセス方法にあらしゃいますが、宮崎市内から車で1時間。ちなみに、狭野神社の参道は、直線の参道では、日本一長いそうや。」
高原町には、生誕地以外の伝承も残っていた。
サノの青年時代の伝承である。
町内に馬登(まのぼり)という地名がある。この地は、サノが住民に見送られた場所だという。
ここから東へ行ったところには、鳥井原(とりいばる)という地があり、住民が見送った場所とされている。
では、旅立ったサノは、どこへ行ったのかというと、父親のいる鵜戸(うど)に行ったらしい。
ここには父のウガヤフキアエズの生誕地とされる、鵜戸神宮(うどじんぐう)がある。宮崎県日南市にある神社で、父親の皇居跡は、これで三つ目ということになる。
この神宮より南へ約10キロのところに、駒宮神社(こまみやじんじゃ)がある。
吾平津媛(あひらつひめ)を妻に迎えて住んだ宮跡とされ、ここから、父の元に通ったと伝わっている。ちなみに、こちらの神社も日南市にある。
サノには愛馬がいたようで、その名も龍石(たついし)といった。
サノが舟釣りをした際に、龍神から賜った馬なのだという。駒宮神社には、龍石をつないだ松の跡や、龍石の足跡が残る駒形石(こまがたいし)が残っている。
神社から北に4キロの地には、立石(たついし)という地名がある。サノが龍石を放った場所とされている。
放った理由はよく分からないが、この伝承にからんで、駒宮神社は、宮崎県の結婚風習である「日向シャンシャン馬」の発祥地ともされている。
「日向シャンシャン馬」とは、県内で大正時代までおこなわれていた風習で、花婿が、美しく飾った馬に花嫁を乗せ、手綱を取って、日南海岸沿いの七浦七峠を越え、鵜戸神宮や駒宮神社に参拝した。
道中、馬に付けた鈴がシャンシャン鳴ることから、この名が付いたのだという。
現在は、民謡「シャンシャン馬道中唄」の大会がおこなわれ、その名残を伝えている。
最後に、高千穂に残った、サノの妃、吾平津媛(あひらつひめ)についての伝承を紹介しよう。
ここで、吾平津媛(あひらつひめ)が直々に説明されるそうです。
吾平津(あひらつ)「みなさん、お久しぶりです。さて、ここで問題です。私の兄ですが、名前は何と言ったでしょう?」
サノ「はい!吾田小橋(あたの・こばし)!」
吾平津(あひらつ)「あなたが答えたら、意味ないでしょ!」
サノ「台本では吾田は日向の地と書かれておるが、薩摩(さつま)半島の阿多郡(あた・ぐん)ではないかという説が出とるんや。この地域は、古代より貝輪交易の拠点という役割があったようでな。それを押さえてた一族やないかと・・・。」
吾平津(あひらつ)「ちょっと、私が説明するところまで言っちゃったじゃない!ちなみに、貝輪っていうのは、沖縄などで獲れるゴボウラやイモガイといった大きい貝で作る腕輪で、弥生時代の権威を象徴するものなのよ。」
サノ「前々回、水と交換しようとした腕輪やな。ちなみに、その腕輪は、薩摩半島西岸の高橋貝塚っちゅうところで、たくさん製造されてたことが分かったそうやじ。」
吾平津(あひらつ)「それだけじゃないわよ。貝輪は、弥生時代、九州北部や瀬戸内東部まで流通してるのよ。そして、私たちが新婚生活を送った駒宮神社の近くには、油津(あぶらつ)という港があるの。ここから、どんどん、どんどん、がっぽがっぽ・・・。」
サノ「吾平津よ。顔がヤバいことになっとるぞ。それで、この油津に、汝(いまし)の神社があるっちゅうのは、本当か?」
吾平津(あひらつ)「そうなのよ。吾平津神社(あひらつじんじゃ)っていうのよ!日南市にお寄りの際は、ぜひ当神社まで・・・。JR油津駅より徒歩12分。車で2分よ!ついでに駒宮神社や鵜戸神宮もよろしく!」
サノ「そっちはついでか!」
堀川運河に面する鳥居の前には、サノの成功と安全を祈る、手を合わせた吾平津媛の像が立っている。その像は、いつまでも、海を見つめつづけている。
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