第二章 護国堂 その7
次の日の午前中、私は豊子のもとを訪れた。
修行が始まれば、伺うこともなかなかできなくなる。ちゃんと伝えておくべきだと考えたからだった。
豊子は、布団から上半身を起こして、何か縫物をしているところだった。
私の顔を見て、少し驚いた様子だったが、縫物を中断し、横に下げると、待ってましたとばかりに無邪気に微笑んだ。
「今日はどんな話を聞かせてくれるの。」
天真爛漫、天衣無縫とは、豊子のためにある言葉だと思う。いつも、この笑顔に救われているような気がする。これからしばらく、この笑顔にも会えないのかと思うと、胸を締めつけられる感じがした。
私は豊子の傍に腰を下ろしながら、一人ごちるように言った。
「今日は話というか、報告というか・・・まあ、しばらく会えなくなる。」
目を点にして、私の顔を凝視する豊子。私の発言を理解できていないのか、ちゃんと聞いていなかったのか、豊子は、つぶらな瞳をこちらに向けて、ただじっと私を見つめるばかり。
それがあまりにも呆けた表情なので、私は堪りかねて口火を切った。
「何だ。何かおかしいか。」
「だって、今まで一度も、どこに行くとか教えてくれなかったでしょ。なのにどうして今回だけは教えてくれるのかなあって。」
言われてみるとそうである。これまでは事後報告だったり、知らぬ間に話が伝わっていたりと、面と向かっての報告はしていなかった。
私の中の心境の変化というものだろうか。我ながら戸惑いを覚えた。
そんな私の心中も知らず、豊子は突然、ふくれっ面になって、私を睨んできた。
「七郎さんは、また、私をほったらかしにするのね。」
豊子の反応に私は動揺するしかない。特に『また』とは何のことだろう。前にもあったような言い方が気になった。
「な・・・何を言ってんだ。俺がおまえをほったらかしって。いったい何のことだっ。」
「またどこかに行っちゃうんでしょ。今度はどこ。またパン屋さんかしら。もしかして海の向こうかしら。」
「そんな遠くへは行かない。大洗の護国堂ってところだ。そこには立派な先生がいて、その人にいろいろ教えていただこうと思ってだな・・・。それで修行しに行くんだよ。」
機嫌を損ねた雰囲気の豊子に、私はなぜだか焦っていた。焦る必要もないというのに、必死で弁明している自分が滑稽でならなかった。
支離滅裂な説明だったとは思うが、ちゃんと伝わったようだ。豊子は、ふくれていた頬を元に戻すと、真面目な顔つきになった。
「修行って、七郎さん、お坊さんになるつもりなの。」
その目があまりにも真剣なので、私は何だか照れくさくなり、目を背けてしまった。遥か上空では、灰色の雲が蠢いている。
「坊主になるわけじゃないが、法華経の教えを受けにいくんだ。これからの社会やお国に役立つ男になるためにも、そういう先生のもとで学ぶべきだと思ってな。」
「七郎さんもいろいろ考えてるんだね。」
視線は私の方に向いてはいたが、ギュッと布団を握りしめるのを、私は見逃さなかった。豊子が健気だった。いつも以上に、そう感じた。しかし、どうしてやることもできない。
「まあ、おまえみたいに単純じゃないからな。世の中や、お国のことを、俺はいろいろ考えてるんだよ。」
減らず口を叩いてやることが、自分にできる精一杯のことだった。空しい気持ちでいっぱいだったが、それでも豊子は笑ってくれた。
「何言ってるの、七郎さん。私だって、いろいろ考えてるのよ。」
「へえ、おまえがねえ。今日の晩飯は何だろうとか。お汁粉食べたいとかだろ。」
「違います。海はどれくらい深いんだろうとか、空の高さはどこまでなんだろうとか・・・。」
「それで答えは出たのか。」
「うん・・・。深くても浅くても、海がないと淋しいし、高くても低くても、空がないとさわやかな朝を迎えられないなあって。」
豊子らしくないが、豊子らしい答えだと思った。
豊子も豊子なりに、自分の仏を求めているのだろう。感心しながら、思いを巡らせているところで、豊子は私の袖を引っ張ってきた。
「七郎さんのことも考えてますからね。元気にしてるかなとか、悩んだり、落ち込んだりしてないかなあとか・・・。」
私が東京で豊子のことを思っているとき、豊子もまた、私のことを思ってくれていたのだ。
ちょっと考えれば、当たり前のことも、気付くとなると、何と難しいことか。豊子の言葉に、私の心は温かくなった。
「ありがとな、豊子。時折は会いに来るから心配するな。それと、一言つけ加えておくが、パン屋じゃなくて、カステラ屋だ。」
ふと見れば、庭に咲くアジサイが汐風に揺れていた。
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