第二章 護国堂 その8

 その日の午後、激しい雷雨の中を、母が止めるのも聞かず、家をあとにした。


 国家改造の人身御供となるのだ。


 決意は揺るがなかったが、母の心情を思うと、申し訳ない気持ちも多分に存在していた。


 振り返ってみると、傘をさした母が、門口に立っているのが見えた。私の姿が見えなくなるまで、母はじっと佇んでいた。


 護国堂に着くと、先生は水戸に行っていて不在だった。


 私は一人、日蓮上人の御尊像の前に座り、腹の底からお題目を唱えながら、これから始まる新たな決意の誓いを立てた。


 日蓮上人、あなたの三大誓願を私の誓願と成さしめたまえ。上人が成さんとして、もし成しえなかったことがあるとするなら、この私に成さしめたまえ。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。


 気が付くと、雨はやんでいた。


 微かな明かりの須弥壇の前で、私は微動だにせず、一時間ほど合掌していた。それは一九三〇年(昭和五年)六月二十五日のことだった。


 翌朝、日召先生は、私を見るなり言った。


「俺のところへ来て勉強するといっても、何も得るものはないぞ。第一に、俺自身が空っぽなダメ男なんだからっ。」


 いきなりのことに、私は戸惑い、先生の気持ちを量りかねていた。


 これはどういうことなのだろうか。そんな私の思いなど気にも留めず、先生は一冊の本を差し出してきた。


「その代わり、この本を一冊、君にやろう。この本以外に本を読むことはならんし、この本を読んで疑問が湧かないようだったら、君は修行する価値がない。そのときは思い留まるべきだな。」


 それは先生が肌身離さず持っていたという、注釈つき『和漢対照妙法蓮華経』だった。


 しかし、先生の言うことが、よく分からない。疑問があるから勉強するのだ。それを疑問が湧かなければならないと言う。法華経なら古内から借りて既に読んでいる。何を今さらという気がした。


 先生が話をつづける。


「おまえが、一日も早く一人前になりたかったら、この本以外の本は読んではならない。人間はいくら本を読んでも、上野の図書館ほどの物知りにはなれっこない。一事が万事そうだ。俺たちがいくら金持ちになろうとしても、上には上がある。有るところへ、有るものを持っていったところで役に立たない。無いものを持っていかなければ意味がない。では、その無いものとは何か。それは徒手空拳だ。それで行くんだ。それにはまず座ることであり、題目を死に物狂いで唱えることだ。」


 この日から、私の修行生活は始まった。


 朝起きて、先生と床の上で三十分ほど対座。それから炊事、朝食となって、お堂から庭の掃除や洗濯をおこなう。用事が終われば、お堂で一人唱題する。来客がなければ、法華経を持って断食堂へ行く。


 先生曰く、日常生活が即法華経だから、心してやることだ。その通りに、与えられた一冊の本と唱題、そして日常生活が修行となった。


 断食堂は、お堂の裏の記念館に行く途中の、少し横に逸れたところにある。小さな電車の内部を改造した、モダンな建物だ。


 お堂には、私の他に川又という、体は大きいが臆病な性格の男と、彦ちゃんという十三、四歳になる少年が住み込んでいた。


 また、立正護国堂は水浜電車株式会社の管理下にあり、お堂から百三、四十メートル離れた松林の中にある『常陽明治記念館』と共に、水浜電車重役の小幡源之助さんが主事として勤めていた。


 お堂の御本尊の扉の鍵も、お賽銭箱の鍵も、小幡さんが保管しており、お堂の必要経費も、全て小幡さんからもらっていた。


 ある日の朝食のときだった。


「小沼。」


 と先生は唐突に言った。


「おまえは今朝、何を考えながら米をといでいた。」


「何も考えごとはしていませんでした。」


 私の返答に、先生の目が鋭く光った。


「何も考えなかったって。嘘つけっ。おまえは米をとぎながら、東京のことを考えていたんだろうっ。」


 見事に当たっていた。私の両脇に冷や汗がにじむ。


「すみません。しかし、先生っ、どうしてそれが分かるんですか。」


「寝ているわしの耳に、おまえが米をとぐ音が聞こえてきた。その音で分かる。音はつまり、おまえの心だ。」


 護国堂での修行を開始してからというもの、朝食は、先生のお叱りを受ける時間となっていた。特に、みそ汁では何度も怒鳴られた。


「小沼、今朝のみそ汁は何だっ。みそが煮えすぎて、味がまるで死んでしまっているではないかっ。」


「小沼、今朝のみそ汁の味は何だっ。山のものと海のものとが、ごちゃごちゃではないか。おまえの心境が丸出しだ。なっちゃいない。みそ汁が一人前に炊けるようになれば、人間は卒業だ。みそすり坊主と世間では言うが、それは厳しい禅の修行を知らない連中の言うことだ。炊事は人間の生命に預かる大事な仕事だから、寺で炊事を任せられるようになったら、それこそ大変名誉なことで、新米には何もさせんのだ。」


 掃除についても厳しかった。


 外出から帰ってきて、玄関に足を踏み入れた途端、先生は私を怒鳴りつけた。


「小沼、今朝の掃除は何だっ。わしがいないと思って、ズルけていたな。」


 自分ではそんな陰日向のある態度をした覚えはないし、手抜きした記憶もない。しかし、改めてお堂の中を点検すると、果たしてそうなのだった。


 帰ってきたばかりの玄関先で、どうして奥の方までわかるのか、不思議でならなかった。


 いただいた法華経を読むことも欠かさずおこなっていたが、疑問が湧いてこない。そこで、先生に質問したことがあった。しかし、このときも散々に怒鳴られた。


「おまえは横着だ。人が苦労して得たものを、何の苦労もせずに、ただで頂戴しようという気なのかっ。人から聞いたものは、あくまでも人のものであって、おまえのものにはならない。」


 以前は、あれほど優しく指導をしてくれた先生が、護国堂へ入ってからというもの、急に掌を返すように、冷たい薄情な先生に変わってしまったのだ。


 読むものは法華経だけ。新聞も読ませてはくれなかった。

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