第二章 護国堂 その5

 朝六時、身支度をととのえ、宿を出る。今夜の宿は、葛飾の次兄のところだ。長兄とは別れ、今日は単独で行商をおこなうことになった。


 私は農村の状況を、この目で確かめようと、街道から逸れて、二、三の農家に立ち寄ってみたが、時間を食うだけで商売にならない。


 昔から大利根を挟んだ常陸、下総の一帯では、田植え時には必ずワカメを食べる風習があった。にもかかわらず、売れ行きは芳しくなく、不景気を体感させられた。


 ある農家では、老農夫が、倉が空っぽになっているのを見せてくれた。「こんな有様だから、ワカメなど買えない。」と言うのだ。


 農夫は、肩で溜息を吐くと、現状をつぶさに語ってくれた。


「五年前と比べて、米の値段が十円も下がっちまった。うちは作付けを見返りに、化学肥料を前借りしていて、青田売りもできん。収穫時になっても、金利や税金なんかで、あっという間に消えちまって、自分の手に残るのは、手の豆だけという有様よ。」


 農夫の話を聞き、私の心は義憤に駆られた。


「こんなこと、おかしいですよ。今の政府は間違ってる。まず不公平だ。化学肥料の会社に対する保護政策なんて、すぐに止めるべきですよ。経済の根幹たる農業を守らずして、何の政府だっ。おじいさん、政府にこの状況を訴えるべきですっ。」


「そんなことしたって無駄よ。どうせ視察だけして、それでおしまいだろう。肥料会社のことにしたって、あんたの言うようなことを訴えてみろ、あれは共産党だ、あれはアカだと睨まれて、余計に酷くなるだけだ。」


 私の顔を見据える農夫の目は、絶望に打ちひしがれ、悲哀に満ちていた。私はそれ以上、何も言えなかった。


 農村の窮乏は予想を遥かに上回っていた。


 東京に出荷する野菜を業者に買い叩かれ、これじゃ手間賃どころか、下手をすると赤字だ、などと訴える農婦もいた。


 ラジオや新聞が騒ぎ立てている深刻な不景気という言葉に、これまで実感がなかったが、今回の行商でようやく理解できた。


 私たちの郷里は、半農半漁で、芋の蒸し切り干しの副業もあり、他の地域に比べると恵まれている方だったのだ。


 巡り巡って柏から松戸、市川を抜け、葛飾の立石に出た。


 道中で垣間見た農村の現状に、私は今さらながら、驚かずにはいられなかった。


 不条理という言葉が浮かんでくる。豊子や落合社長の顔が浮かんでくる。私は泣きたいのか、怒りたいのか、訳の分からぬ気分に陥っていた。


 翌日は、本所、向島、千住など労働者階級の住む地帯でワカメを売り歩いた。勝手口を覗いて「こんにちは、ワカメいかがさん、いかがです。」と声をかけて歩く。


 下町の生活は予想以上に酷かった。


 破れ畳の殺風景な部屋、生活に疲れ切った表情。路地裏で遊んでいる子供たちは、栄養不足で、頭はボサボサで垢染みていた。子供が持つ活気と溌剌さもない。


 そんな子供たちを見て、私の心は、ねじられたような痛みを感じた。


 商売相手のおかみさんたちも、同じような雰囲気だった。


 ある長屋の女性は、「ワカメどころじゃないよ。うちの人の好物なんだけど、その十銭がないのさ。」と溜息を吐いた。


 洗濯をしながら愚痴る人もいた。


「こんな世の中、もうちっと、どうにかならないもんかねえ、ワカメ屋さん。」


 私は気の毒になり、ワカメをタダでくれたり、原価を割って売ったりした。


 生活苦に喘ぐ人々に、国家観、国体観、民族精神など無用の産物でしかなかった。そんなことを考える余裕がないのだ。その日暮らしの出たとこ勝負。三度の食事が得られるのなら、どんな社会になろうと構わないといった態度だった。


 おかみさんたちが、こうなのだから、彼女らの夫もほぼ同じような考えだろうと見当がつき、私は震え慄くことしかできなかった。


 共産主義が伸びていく下地は十分に醸成されている。


 しかし、これらの人々が共産党についていけないのは『治安維持法』という法律があるからで、これも時勢が更に悪化し、人々の感情が破裂したときには、何の役にも立たないだろう。


 富国強兵は夢物語となっていた。


 富国とは、一部の階級だけが富むことではない。銃後に不安と不満が蓄積している状況で、どうして強い軍隊が維持できるだろうか。


 その翌日は、深川、木場を廻った。


 前日の損金を木場の問屋街で取り戻そうと考えたのだ。


 しかし、多くの店が倒産してしまって、あっちでもこっちでも戸を閉め切っている。不景気ここに極まれりと、ただ唖然とする他なかった。


 世相の生々しい声と状況をこの目で確かめ、私は帰路についた。揺れる汽車の中で、一人呟いた。


「このままだと、日本は内部から崩壊しそうだ。俺はもう、こうしているときじゃない。」


 車窓に流れる水田は、田植えもほとんど済んでしまっている。この田から得られる実りは、農家の手にどれだけ残るのだろうかと思うと、快晴の空とは裏腹に、私の心は晴れなかった。


 帰宅後、私は古内のいる学校に向かい、頼まれていた雑誌を手渡した。


 本を渡したとき、古内は怪訝そうな表情で私の瞳を見つめてきた。曇天の心情である私に、愛想などという単語は消え失せていたようだ。


 古内は、私の抱える懊悩を敏感に察知したようだった。


「初めての行商はどうでしたか。儲かりましたか。」


「いや、損をしてきた。途中で儲けようという気になれなくなってしまった。」


 二人の間に、しばらく無言のときが流れた。校庭の方から、子供たちの無邪気な戯れ声が聞こえてくる。


「古内さん、俺は護国堂へ行くよ。」


 突然の告白に、古内は目を大きく見開いた。


「先生のお傍に行ってくれるのかいっ。」


「うん、俺は、先生のもとでしっかり勉強しようと覚悟を決めた。」


 正直、私は居ても立ってもいられない心境だった。私のような無学で虚弱な者でも、方法によっては、お国の役に立つはずだ。その道をはっきり把握せねばならないときが来たと痛感していた。


 兄が行商から帰ってくるのを待って、私は母と兄に護国堂入りの了承を求めた。


 二人とも、私が坊主になるのだと思ったらしい。だが、そういう風に思い込ませなかったら、到底、許しも下りなかっただろう。

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