第二章 護国堂 その3

 一九三〇年(昭和五年)五月になると、私たちの間に居士号の問題が起こった。


 古内は、既に日召先生から『日栄』という居士号をもらっていた。


 古内は「君たちも修行が進めば、日召先生は必ず居士号を贈ってくださるから、しっかり修行してください。」と我々を励ましたものだ。


 なぜ、そんな話題が上ったのかというと、この時期は農繁期で、それを理由に落伍者が出てきたからだ。


 倦怠期に入ってきていた。


 精神統一による宗教的神秘性を求めていた頃は面白さもあったが、内容が高次元になってきて、苦痛を感じる者が多くなっていたのだ。


 その一方で、周囲の雑音も大きくなり、非難めいた世間の言葉が聞かれるようになった。


ぞろぞろと辞めていく人が増える中、古内は懸命に私たちに呼びかけた。


「法華経を護持する者は、必ず他人から罵詈雑言を浴びせられ、また迫害されると、お経にあります。日蓮上人もたびたび法難にお会いになられておられる。法華経護持の精神が強ければ強いほど迫害も強くなるのです。しかし、そうした迫害に会うごとに、私たちは罪障消滅の功徳を積んで、魂の輝きを増していくのです。ここで退転したならば、我々は悔いを一生、残すことになるでしょう。だから、何物にも負けずに、しっかりとお題目を唱えましょう。」


 大二君も、いつものリーダー気質で、気の弱い同志を脱落させまいと必死だった。


「先生は我々にも必ず居士号をくださる。もう一息のところなんだから、皆で頑張ろう。」


 私には居士号など、どうでも良いことだったが、離れていこうとする者に与えるエサには、居士号しかなかったのだろう。


 古内や大二君の努力を横目で見ながら、私は気の毒に感じていた。


 去る者を追う必要などない。同志とは、居士号という見栄でつながるものではないはずだ。それよりも、この世の現状を憂う心こそが必須条件ではないのか。


 このときの私の心境は変に冷めたものだった。


 大二君や古内の手前、あからさまにはしなかったが、去っていく者に未練を感じるようなことはなかった。農業に勤しむことも、世の中の法理に従うことではないかとも考えていた。


 一九三〇年(昭和五年)五月二十六日(旧暦四月二十八日)。日蓮上人の立宗記念日の行事が護国堂でおこなわれた。


 私たちは夜、自転車を連ねて参詣した。その中には、今日が初めての護国堂となる菱沼五郎君もいた。


 五郎は、最初、唱題には参加していなかった。


 五郎の父の方が熱心な信者で、『亀の湯』が手狭な時は、菱沼家を唱題の場として提供してくれていた。五郎はそれを傍らで聞いているだけだった。


 彼は菱沼家の三男坊で、私よりも一つ年下だ。


 幼い頃から内気な性格で、それを直すために、高等小学校を修了してから、母校の給仕をやらされた。


 給仕の仕事は、嫌でも人前に出なければならない。そうすれば内気な性格も直るだろうとの御両親の考えだったが、長つづきせず、一年ほどで辞めてしまった。


 翌年、上京して下谷車坂の岩倉鉄道学校に入学。業務課を二年半で卒業した。


 郷里の鉄道に就職を希望したが職はなく、ようやく東上線池袋駅の就職が内定した。


 しかし、ここで問題が起きた。


 身体検査で目が紅緑色盲だと分かり、業務の内容上、就職不能になってしまったのだ。


 そんな傷心の五郎が、唱題修行の仲間入りをさせてほしいと言い出したのは、自然の成り行きだった。


 人よりだいぶ遅れて唱題を始めた五郎だったが、素質が良いのか、みるみるうちに先輩たちに迫ってきていた。そして、今夜の護国堂行きとなったわけだ。


 立宗記念日の行事も無事に終わり、古内は、それを見計らったかのように、先生に「皆に居士号を与えてやってもらいたいのですが。」と願い出た。


 しかし、夜も更けていたので、居士号授与は後日ということで、その日は各自の名前を書いたまま帰ることになった。


 そして授与当日。


 我々は夕闇迫る刻限に『亀の湯』に集合し、自転車で護国堂を目指した。


 薫風流れる中、二里あまりの夜道を軽やかに進んでいく。見上げれば、新月が浮かんでいる。幾万の星が我々を照らしている。


 護国堂に到着すると、いつになく威厳に満ちた空気が漂っていた。堂の中は緊張に包まれ、思わず襟を正してしまう。


 やがて、先生が居士号を書いた紙片を三方に載せ、須弥壇に供えて腰を下ろした。


 その背後に古内、照沼、大二君、小池、大内、長三さん、黒沢金吾、照沼初太郎、五郎、私が並んで座った。


 一通りの勤行が終わると、先生は日蓮上人の御妙判の『開目抄』の一節を読み始めた。蝋燭の灯が揺らめき、先生の影を震わせている。



  詮ずるところは天も捨て給え。諸難にも会え。身命を期とせん。身子が六十劫の菩薩の行を退せし、乞眼(こつげん)の婆羅門(ばらもん)の責を堪えざるゆえ、久遠・大通の者の三五の塵を経る。悪智識に値う故なり。善に付け悪に付け、法華経を捨つる。地獄の業なるべし。大願を立てん。

  我、日本の柱とならん。

  我、日本の眼目とならん。

  我、日本の大船とならん。

  などの誓いし願い、破るべからず。



 この三大誓願を読み終えた直後、大きな地震が護国堂を揺るがせた。その瞬間、大二君が大きな声で叫んだ。


「あっ、地震だ。俺たちは地湧(ちゆう)の菩薩だっ。」


 大二君だけでなく、我々の誰もが、この不可思議な現象に心奪われていた。


 先生は軋む堂内に着座したまま、上ずった声で御本尊と日蓮上人の御尊像にひれ伏した。


「日蓮上人よ。霊あらば、この中から九人の同志を得さしめ給え。」


 我々は眼前の先生を眺めながら、感動の渦に巻き込まれていた。というのも、この現象が日蓮上人の予言に符合していたからだ。


 法華経にいう。



  この法華経は、後百五歳の末法濁世の時、弘宣流布すべき特別の指名を帯びた者が必ず出現する。そのときは必ず大地震が起き、地殻が割れて、その裂け目の中から湧くように出現する。



 日蓮上人は、この予言を重大な意義を持つものだと受け止め、流刑地の佐渡において、我こそは地湧の菩薩中の上行菩薩の再誕であると自覚されたという。


 偶然とはいえ、予言と重なった事実に、我々は、重大な使命を帯びたという自覚を持たざるを得なかった。共に深く頷き合い、末法濁世を打ち破らんとの意思を確かめ合った。


 末法濁世、すなわち腐敗と堕落に満ちた国家と生活苦にあえぐ大衆のため、不惜身命の志で進んでいくことを誓い合ったのだ。


 先生の祈願は、我々の熱意に結実し、強い絆となった。


 感動と興奮が冷めやらぬ中、我々は居士号の授与を今か今かと待ちわびていた。しかし、先生と古内の間で何やら悶着が起きているようだ。


「だめだっ。まだ早いっ。」


 先生は古内の懇願に対して、にべもなく断った。それでも古内は諦めずに食い下がる。


「皆は熱心に修行して、ここまで来たのです。この期待を裏切ったら、彼らはどうなりますか。先生っ、どうか今一度、今一度、御一考をお願いしますっ。」


 何度も何度も頭を下げ懇請する古内に、先生もついには折れた。


「よしっ、分かった。お堂で一人一人に授与するから、順番に来い。」


 こうして授与が決定された。古内の心を込めた態度に、我々は感謝の念を抱くと共に、温かな思いに包まれていた。


 我々は一人ずつ須弥壇の前、先生の膝元に呼ばれた。「法華経を命がけで行ずる。」という神聖な誓いをした後、居士号を書いた紙片が渡された。


  照沼操    日操居士

  黒沢大二   日大居士

  黒沢金吉   日剛居士

  小池力雄   日雄居士

  大内勝吉   日勝居士

  照沼初太郎  日誓居士

  川崎長三   日長居士

  菱沼五郎   日勇居士

  小沼正    日正居士

 

 授与が終わった後、先生は、なぜ「日」の字を上に冠したかを述べた。


「日は、日本の日であり、太陽のような輝き、日本人としての自覚、明るく正しくという意味もあり、日蓮の日でもあり、いろいろの願いを込めたものである。」


 だが私は他の意味もあるのではないかと考えていた。


 先生自身も日召と日の字を冠しているから、師弟三世の縁、生死をかけた同志という意味で、一蓮托生の「日」ではないかと。


 皆は喜びを隠さなかったし、私も心底嬉しかった。古内は先輩らしく、我々を引き締めるのを忘れてはいなかった。


「居士号に恥じない人間にならねばなりませんよ。」


 気が付けば、空はもう東雲となっている。それはまるで新たな時代の到来を示しているようだった。

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