第一章 天狗連 その10
豊子の引っ越しの手伝いにいったのは、先の会合から二日後のことだった。
めでたく病院を退院し、自宅で静養することになったのだ。気分の良い日には、外出しても良いとのことだった。
引っ越しといっても大きな家具があるわけでもなく、数点の私物を家に持ち帰るだけなのだが、豊子の父親は出稼ぎで不在であるし、母親は豊子を支えながら歩かねばならないので、荷物持ちが必要なのだった。
道すがら、海が見えてきた。
豊子は「久しぶりの海。」とだけ呟いて、微笑んでみせた。
そのときになって、私はようやく気が付いた。豊子の病室からは海が見えなかったことに。
豊子は海を見るのが好きだった。よく砂浜に腰を下ろして、二人で海を眺めていたというのに、それまで全く気が付かなかったのだ。
私は悔しさと恥ずかしさをないまぜにした感情に襲われた。豊子を理解しているようで、何も理解できていないような気がした。
病のため、豊子の歩みは遅い。それゆえに映る景色は、いつもより鮮明に感じられた。
灌木の葉を撫でる手も、駆け回る子供を目で追いかける仕草も、川面の輝きを眺める姿も鮮やかに、艶やかに私の心に刻まれた。
自宅に辿りついても、する事などはあまりない。既に布団は敷かれており、豊子はそこに臥せるだけとなっていた。
私は荷物を母親に手渡し、のどが渇いただろうからと、水を汲みに向かった。
井戸で作業をしていると、豊子の母さんがやってきた。
「ああ、お母さん、どうしたんですか?」
私がそう言うと、豊子の母さんは、悲しそうな表情をしてきた。
「小沼さん、豊子は退院できたと喜んでいるけど、本当はそうじゃないのよ。」
「えっ、体調がよくなって退院できたんじゃないんですか?」
私自身も豊子と同様に喜んでいただけに、母親の話は衝撃的だった。
「先生が言うには、あとは本人の気の持ちようだって・・・。きっと、そう長くはないのよ。それに、入院していても入院費がかさむだけでしょ。うちのお父さんがね、生活が苦しくなっているときに入院費は馬鹿にならないって・・・。どうせ治らないのなら、生まれ育った家で最期を迎えさせてやりたいって・・・。」
目に涙を浮かべて語る母親に、私は何も言えずにいた。
確かに、治る見込みがないのなら、病院にいようと家にいようと同じなのかもしれない。
ただ、入院費という現実的な問題が伏在していることに、もの悲しさを感じた。そして、それを知らない豊子が哀れだった。
私は「豊子さんには黙っておきます。」と言うので精一杯だった。
私が水を汲んで、豊子のところに戻ると、豊子は六畳間に敷かれた布団には入らず、縁側に腰を下ろして、懐かしい風景を愛でているところだった。
「床に就かなくていいのか?」
ふいに私が声をかけたので、豊子ははっとした表情で、こちらを向いた。そして、はにかむように微笑んだ。
「七郎さん、私はやっぱり海が見える景色がいいわ。海を見ていると落ち着くの。」
「亀を助けりゃ、竜宮城にも行けるしな。」
私の応えに、豊子は声を押し殺すように笑った。
「ほんとに七郎さんったら、真面目な顔しておもしろいことを言うんだから・・・。」
「だけど、実際、外国に行くこともできるからなあ。半分は嘘じゃないぜ。」
「私も外国に行ってみたい。よその国じゃなくても、北海道だとか、台湾だとか、いろんなところに行ってみたい。」
嬉々として語る豊子の目は、いつも以上に輝いていた。
そのとき私の中で、愛おしさが急激に湧き起こり、気が付けば、豊子を自分の腕の中に手繰り寄せていた。
「俺が連れていってやる。まずは台湾に行こう。それから上海だ。それからぐるっと回って、ヨーロッパ。そして最後はアメリカだ。」
豊子の母さんが見ているかもしれなかったが、そんなことはどうでも良いことだった。
それよりも豊子に哀れだとか悲しみだとか、そんな形容詞を抱えて生きてほしくないという思いの方が、私を強く支配していた。感情の発露は止められそうになかった。
ふと、正念は考えておこなうものではないと、古内が言っていたのを思い出した。これは正しい感情なのだと、自分に言い聞かせ、豊子の体をきつく抱きしめた。
豊子は、私の腕の中で、息苦しそうに「ありがとう、七郎さん。」と何度も呟いていた。
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