第一章 天狗連 その9

 法華経の道を行くと決心してから、私は朝に夕に、一生懸命、お題目を唱えた。


 家の四畳半にこもって明かりを消し、古内に書いてもらったお題目を画鋲で止め、線香を立て、その赤くたぎる一点に意識を集中させながら唱題するのだ。


 いつも玉のような汗を流しながら唱題し、それが終われば、古内や大二君のもとに向かい、そこでまた、皆と一緒にお題目を唱える、という日々を送った。


 信仰を始めてから、私の胸の内につかえていた、黒い塊のようなものは消え去り、心は穏やかとなっていた。とげとげしい感情も湧いてくることはなく、感謝の気持ちに溢れた生活に変わっていた。


 一方、町内では私の法華信心が大評判となっていた。声が大きかったからかもしれない。中には気が狂ったのかと尋ねてくる人もいた。


 しかし、私にはどうでも良いことだった。それよりも生きる希望を得た喜びの方が大きかった。


 しばらくすると、古内の指導に変化が生じてきた。


 ご利益やありがたさを説いていたのが、徐々に、禅における公案のようなものになっていったのだ。


「この念珠は生きているか」

「その茶碗とおまえとは同じか別か」

「あの海鳴りを止めてみろ」


 などの問題で、それを宿題として、一旦、家に持ち帰り、次の会合のときに意見を述べ合った。


 その日の主題は「正念で唱えられているか」だった。


 『亀の湯』に集まり、車座となって、ああでもない、こうでもないと意見を言い合っているうちに、塙が「妄想を消そうとしても、くだらないことが頭に浮かんで、まるで妄想に悩むために、お題目を唱えているような気がします。」と告白した。


 古内は深く頷き、すぐに満面の笑みとなった。


「そうなんです。お題目の正念に入れ替わろうとするとき、妄念は、生まれてこの方の住まいをお題目の正念によって追い払われようとしているものだから、わめき騒いで離れまいとしがみついているんですね。その闘いこそが唱題なんです。」


 つづけて大二君が尋ねた。


「では、古内先生、妄念は浮かんでくるのではなく、もともとそこに有るというものなんですか?そうなると、今、正念で唱えていると思っていても、それも実は妄念である可能性があるってことですか?」


「黒沢君、実にすばらしい。その通りなんです。花は咲こうと思って咲きませんね。時候が巡って咲くわけです。自然の流れに従った調和の中にあって、花を咲かせるんですね。私たちが腹をへらすのもそうですね。鳴らそうと思って腹の虫が鳴るのではなく、胃の中が空っぽになって、腹の虫が鳴るわけですね。」


 私には少々難しい話だったが、大二君は納得できたのか、腕を組んで何度も頷いている。それからこうも尋ねた。


「では、どうすれば妄念は消え去りますか?」


「どんなに浮かんできても妄念は妄念です。ですから相手にしないことですね。暴れるままに放っておくことです。と言いますのも、妄念にも限りがありますので、いずれ尽きる日がやってきます。」


 話が妄念に及んだので、私は思い切って、かつて見た夢の話をしてみた。


「・・・という夢なんですが、これも一種の妄念なんでしょうか?俺には克明過ぎて、現実のような気もするんです。」


 するとまず、照沼が反応した。


「そりゃ小沼君、すばらしい夢じゃないか。」


 他の者たちも一様に「すばらしい。すごい。」と感心しているところで、古内は合掌して「南無妙法蓮華経」を唱え、目を大きく見開いた。


「小沼君、それは一大事因縁の夢です。妄想ではありません。夢は見ようと思って見るものではありませんから。」


 私は気恥ずかしかったが、皆が感激しているのを見て、語って良かったと思った。


 ただ鰐淵だけは「俺はそんな臆病者じゃないんだがなあ。」とぼやいていた。これには私も申し訳なく感じた。その辺は別に話す必要などなかったからだ。配慮が足りなかった。


 私は鰐淵に釈明した。わだかまりというほどではないが、今後のお互いのためにも、悪意はなかったと説明しておくべきだと思ったからだ。


 そんな中、古内が興奮気味に叫んだ。


「そうだ、井上日召先生に会ってもらおう。井上先生は、それはそれは偉い方で、先生ならば、君の夢について、もっといろいろ教えてくれる。小沼君、我々がお題目を唱えるということは、我々一個の問題じゃなくて、国家につながることなんだ。とにかく、命を懸けて唱題しようじゃないか。」


 唐突に飛び出した井上日召先生なる人物に、私は戸惑いを覚えたが、大二君たちは存じているようで、誰からともなく、「一度、大洗の護国堂に行ってみよう。」「日召先生の話を聞きにいこうじゃないか。」と盛り上がりだした。


 そして結局、桃の節句の農事休みにかけて、護国堂におこもりしようということになったのだった。

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