第一章 天狗連 その8
一九三〇年(昭和五年)三月に入った、ある日のこと。
興行が終わり、『亀の湯』に戻ったのは、夜も十一時を過ぎた頃だった。芝居道具の片付けが済むと、相変わらずの唱題が始まる。
私はいつものように、さっさと帰ろうと考えていたが、どうしたことか、今日に限って眠気に襲われてしまった。歩くこともままならない。帰宅を諦め、私は皆に背を向けてゴロ寝することにした。傍では鰐淵が眠りこけている・・・。
気が付けば、私は鰐淵と砂浜に足を投げ出して話をしていた。
カモメが飛んでいる。春の海のようだ。すると、風もないのに突如、白波が立ち騒ぎ、黒い影が眼前に現れた。
鰐淵と私は、その黒いものに目を見張った。
黒いものは人の形をしていた。
それは海の上を悠然と進み、私たちの方に向かってくる。なんとも不思議な光景だ。
黒い人影は、近付くにつれ、はっきりと僧侶の姿になった。墨染の衣をまとい、数珠をかかえた手を胸元に合掌し、威風堂々とした風情だ。
そのとき、傍らの鰐淵が大きな声をあげた。
「あっ、日蓮上人だ。」
その言葉に私も驚き、自然と居ずまいを正して合掌してしまった。僧侶は鋭い眼光で私たちを見据えて言った。
「その通り、わしは日蓮だ。驚くことはない。よいから、わしについて来い。」
日蓮と名乗った僧侶は、そう言うと陸にあがってきて、さっさと歩きだした。
鰐淵と私は、あとにつづいた。少し行くと小川があった。その川をまたごうとすると、急に川幅が広がって大河になってしまった。
困惑して、周りを見渡すと、向こうに立派な橋がかかっている。私たちは、その橋を渡ることにした。
橋は思ったよりも長かった。渡るにしたがって、立派なその橋が次第に汚くなり、いま一歩というところで、ボロボロに朽ち果て、なくなってしまっていた。
飛び越そうと思えばできないこともない距離なので、試しに飛んでみようとすると、向こう岸に佇んでいた四十代後半と思われる僧侶が、「ああ、飛び越えてはいかん。おまえたちの渡る道は他にもある。」と、さかんに手を振って、戻れ戻れとやっている。
仕方がないので、元の場所に戻ると、橋の下に小舟があることに気付いた。水棹を持った船頭もいる。
鰐淵と私は、その舟に乗った。ところがそれは、石臼の舟で、中にはなぜか濁った水が流れている。橋の下は真っ暗で、揺れるごとに濁水が舟べりを舐め、今にも沈みそうだった。
途中まで来たとき、鰐淵が「船頭さん、怖いから戻ってください。」と言い出したので、舟は元の場所に戻ってしまった。
私は一人、改めて石臼の舟で川を渡り、無事、対岸に辿り着いた。
対岸の風景は暖かく明るかった。花は幾百種も咲き乱れ、小鳥が長閑にさえずり、一木一草のことごとくが光を放っている。まるで桃源郷のようだ。
船頭に別れを告げようと振り返ってみると、見すぼらしい身なりをしていたはずの船頭は、いつの間にか、金襴の衣を着た、品のある僧侶に様変わりしていた。
驚愕する私に、船頭こと僧侶は「ついて参れ。」と言って歩きだした。
キツネにつままれた思いでついていくと、そこには立派な寺があり、お堂へと誘われた。
須弥壇には、立派な銅像があった。
その銅像をしげしげと見てみると、さきほど波間に現れた日蓮上人だ。ふと見ると、須弥壇の斜め前あたりで、古内が静かにお題目を唱えている。
私はなにがなんだか分からぬまま、腰を下ろした。すると、その正面に、さきほどの船頭こと僧侶が座っている。私を見つめ、威厳のある声音で語り始めた。
「今の橋は、そなたが今まで歩もうとしていた道じゃ。立派に見えても、やがて朽ち果て渡れなくなる。それは、そなたの今の姿じゃ。漆黒の闇をも恐れず、ここへ来たということは、これこそ、そなたの進むべき道で、一見、危ういように見えて、そなたにとって最も安き道ということなのじゃ。この道を行くことによって、そなたは心身ともに健康になれるし、そなたの一族も多幸となる。そなた一人のことだけではないぞ。この道は法華経の道であって、南無妙法蓮華経の唱題によって開かれる。」
僧侶は私を睨み据え、法華経護持の誓いを求めた。
私は反射的に「はい。これからお題目を唱えます。」と必死に答えていた。私は初めて合掌し、感激に震えた声で「南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。」と唱えつづけた・・・。
「おいっ、オヌマ。」
「七郎君っ。」
誰かが私の名をさかんに呼んでいる。体も揺らされているようだ。その呼び声に、はっと目が覚めた。
気が付くと、私は全身汗まみれで、胸の上で両手を固く合わせていた。
鰐淵が慌てた様子で覗き込んでいる。
「なんだ、七郎。びっくりしたぞ。突然、でかい声でお題目唱えだすんだからな。おまえ、寝ぼけたな。」
「あれっ?鰐淵か?」
私はおもむろに起き上がると、しばらくの間、さきほどの出来事を反芻していた。
夢を見ていたと、簡単に片付けられそうになかった。あまりにも克明であり、法華経の暗示としか考えられなかった。
「不思議だ。なんとしても不思議だ。」
心配そうに見つめる仲間たちを他所に、私は独りごちていた。
春が巡ってきたような、なにか希望の芽が吹き始めたような感覚だった。
俺の行く道は決まった。よし、今日から俺は、誰がなんと言おうと法華経の道を行くぞ。これしか、俺には行く道がなかったんだ。
私は、ぼんやりと恍惚な気分に浸っていた。
風呂場に向かい、冷たい水で顔を洗うと、なにか清々しいものが、胸の内にみなぎり始めていた。
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