第一章 天狗連 その7

 古内の談話を聞いた夜から二、三日過ぎた午後、私は大二君のところへ遊びに行こうと、麦畑の小道を歩いていた。


 するとその途中で、牛車に乗って、牛の尻を叩きながらやってくる大二君にばったり出会った。


「おいっ、七郎。」


 大二君は私に気付くと、晴れがましい表情で声をかけてきた。


「おれたちは早速、お題目を唱え始めたぞ。」


 突然の報告に、私は仰天するしかなかった。


「なにっ、お題目を唱えだしたって?馬鹿だな。」


「馬鹿とは、なんてことを言うんだ。おまえは、この間の晩、古内先生と一緒になって、お題目のご利益を説いてたじゃないか。」


「なんだあれか、あれはちょっとからかってみただけだ。冷やかしのまぜっかえしだよ。」


 呆気に取られた様子で、大二君は私の顔を穴の開くほど見つめてきた。言葉が見つからないようだ。


 仕方なく、私の方から語りかけた。


「それで、おれたちってことは『天狗連』のみんなで、やってるってことか?」


 私の声を聴いて、大二君は、ようやく我に返ったのか、一つ身震いをしたのち、明るい雰囲気を取り戻した。


「まあ、ほとんどの奴がやり始めたぞ。前浜村で一人暮らしをしている、照沼先生のお宅を借りて、お題目を唱えてる。」


「なんてこった。まさか本気でお題目なんて・・・。」


「おまえはおまえ、おれたちは、おれたちだ。しかし、あれだけ語っていた、おまえが、一番信じていないとは滑稽だな。」


 そう言うと、大二君は朗らかに笑い出した。もはや呆れて、笑うことしかできないようだった。


 私は幾分かの恥ずかしさを覚えたが、それよりも冷ややかな感情の方が大きかった。お題目を唱えて幸せになれるのなら、誰も苦労なんてしない。お題目で工場は稼働しない。豊かな生活を送るだけの金が手に入るわけでもない。


 ただ、皆の思いが分からないわけでもなかった。


 この苦境から逃れたいという心情が、お題目唱和につながったのだと。私が一時、死への願望に憑りつかれていたのと同じ症状に思えた。


 別の言い方をすれば、この世に希望がないということでもある。


 それからというもの、大二君たち『天狗連』の面々は、稽古のあとも、興行のあとも、お題目を唱えるようになり、『亀の湯』の六畳間の脱衣所は唱題の道場に化してしまった。夜遅くだろうと、雨が降ろうと、一生懸命に唱題の修行に励んでいた。


 古内も参加するようになった。


 古内は、半紙に『南無妙法蓮華経』とお題目を書き、柱に画鋲でとめ、それに向かって唱題させていた。


 当初は私と同じように、『天狗連』に加わってはいるが、唱題しない者もいた。


 しかし、そんな彼らも徐々に唱題するようになってしまった。朱に交わればなんとやらだ。仕方のないことなのかもしれない。次第に法華経の仲間は増えていった。


 六畳間が手狭になると、風呂場や板の間に端座して、お題目を唱える者さえ出始めた。


 稽古が終わり、そそくさと帰宅する私の冷ややかな視線など気にもせず、大二君たちは精に根に唱題を唱えていた。その声は割れんばかりの勢いだった。

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