第一章 天狗連 その6

 まだ寒気の残る夜、私は興行の合間をぬって、大二君の家を訪ねてみた。


 しかし、大二君はいなかった。叔母さんに行き先を尋ねると、学校にいったという。


 そこで私は思い出した。既に補習学校の授業が始まっていたのだ。


 補習学校とは、小学校を卒業し、就職した若者で、その後も学業をつづけていきたい者のために行われる夜間学校のことだ。大二君はそこに通っていた。


 学校に向かってみると、教室には一切明かりが灯っていなかった。人気のない学校ほど気味の悪いものはない。


 授業は終わってしまったのだろうか、それなら赴く途中で大二君に出会うはずだ、もしかして寄り道でもしているのか。


 いろいろと考えながら校庭を歩いていると、奥の教員室にだけ明かりが灯っていることに気が付いた。


 近付いてみると、にぎやかな話し声も聞こえてくる。きっとここだろうと思い、ガラス戸を開けて大二君を読んでみると、案の定、聞き覚えのある声が返ってきた。


「よう、七郎か。入れよ。中は暖かいぞ。」


 大きな火鉢に山盛りの炭火を焚き、十数人の若者が車座になって話し合っている。


 よく見れば、ほとんど『天狗連』の面々だ。照沼もいる。私が座の中に加わると、話を中断していたのか、ちょびひげを生やした、三十歳前後の男が、空咳をして語り始めた。


 面長の顔に、吊り上がった鼻をした男で、誠意に溢れた眼差しで、聞いている人々の表情を窺いながら力説している。この学校は私の母校ではないので、私は遠慮がちに黙って聞いていた。


「法華経の功徳を積むということは、自分の幸福だけでなく、その家の幸福にもつながるんだね。というのも、自分っていうのは、家のつながりで生まれたものだから。お父さんがいて、お母さんがいて、そうして自分がいる。それは家と家とがつながることで生まれるものなんだね。そうして新しい家が生まれる。これをご先祖様は、ずっとつづけてきたんだね。」


 言っている意味はよく分からないが、ご利益があるということらしい。


 ここにいる者たちの中では、少し年上のようだが、友達に語るような親しみ深い口調で語っている。大二君たちは聞き入っているようで、一言も発する気配がない。


「日蓮上人は仰ってますね。南無妙法蓮華経と唱えれば良いのだと。それで十分なんだと仰ってますね。法華経の唱題を、君たちも、ぜひやるべきだね。」


 法華経の唱題をしきりに勧めている。何だか妖しいと訝しく眺めているところで、大二君が私の肩を叩いてきた。


「古内先生。こいつが従兄弟の小沼正です。『天狗連』で一緒に活動していると、前に話した・・・。」


 突然、紹介されたことに驚くと共に、古内という名前にも驚いてしまい、私は何も言えずにいた。


 近頃、前浜村を中心に法華経教宣活動をしている古内という教師の名は聞いていたが、まさかこんなところで遭遇することになろうとは、思ってもみなかった。


「そうですか。あなたが小沼君ですか。古内です。よろしく。」


 古内につづいて、私も慇懃に挨拶したが、腹の中では冷笑していた。


 こいつが、うわさに高い法華キチガイの先生か。よし、今夜は一つ、この馬鹿教師をからかい倒してやろう。


 古内の高説が再開された。


「法華経を唱えるところに功徳が積まれ、御仏のご利益がはっきりと目に見える形で現れるわけですね。」


 ここで私は、身を乗り出して、話の腰を折ってやった。


「そうそう。世間じゃ、法華が仏になるならば、牛の糞が米になるなんて馬鹿にしてるけど、どうしてどうして、法華はご利益あらたかだぜ。」


「ほう、小沼君には、何か思い当たる節があるようですね。」


「そりゃそうですよ。」


 ここで私は、銀座にいた頃の出来事として、作り話をしてやることにした。


 古内が真剣な目で、一言も漏らすまいと耳を傾けていることが、とてもおかしくて笑いそうになったが、それをぐっと堪え、努めて神妙な素振りで語った。


「銀座の染め物屋で働いていたときのことなんだけど、あることで、俺は盗みの疑いをかけられたことがあったんだ。そしたら、主人の叔母さんで法華の信者という人が来て、盗人はこの方じゃない、別にいると言うんだな。品物は、この方角の質屋にあると言うじゃないか。それで主人が早速調べてみると、盗品はそこにちゃんとあって、質入れした奴が誰かも分かった。おかげで俺の信用も倍増したってわけよ。」


 古内は、話を聞き終わると合掌した。


「ああ、ありがたい。ありがたい。南無妙法蓮華経。」


 そして私を見据え、とぼけたような顔になった。


「その通りなんです。大地を叩く槌は外れることがあっても、法華経の行者の言葉に外れることはありません。」


 腹の中で、私は古内をあざ笑っていた。


 こいつは何て甘っちょろい奴なんだ。こうなったら、もっと有ることないこと言って、馬鹿教師をからかってやろう。


 気をよくした私は、調子にのってさらに二、三の法華ご利益譚をしゃべりまくってやった。


 『天狗連』の面々と照沼が呆然とする中で、私は今夜の愚かしい教宣活動を台無しにしてやったのだった。その間、古内は「ありがたい。ありがたい。南無妙法蓮華経。」を連呼していた。

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