第13話 夜の準備
雨が上がった。
急に曇って来て激しく降ったかと思えば、止んでしまうのもあっという間だった。
まるで空からバケツをひっくり返したみたいだ。
ともあれ。
タープのおかげでずぶ濡れになることだけは避けられた。
もちろん壁のないシェルターでは完全に雨の侵入を防ぐことはできなかったので、足下がぐしょぐしょだけれど。
薪も一部は濡れてしまったし、火も消えかかっている。
しかし雷に打たれることもなく、みんなが無事だったのは素直に喜ばしいことだった。
途中からずっと抱きついていた浜崎もいつしか体の震えが止まっていた。
もう大丈夫かな。
だいぶ落ち着いたみたいだ。
背中にまわしたままの腕が手持無沙汰になると、思考にもゆとりが生まれて、余計なことに気づいてしまった。
ちょうど手の位置に、なにかがある。
いや、なんとなくわかってはいる。
これはきっとブラジャーのホックだ。
仮眠をとったあと、浜崎を起こす前に見てしまった光景を思い出す。
暑かったのだろう、制服のブレザーは脱いでおり、シャツのボタンはいくつか外されていた。
その無防備なシャツの隙間からブラジャーと胸の谷間が見えていたことがくっきりと脳裏に浮んだ。
これ以上は、いろいろとまずい――。
手の位置を変えたほうがいいだろうか。
さり気なく移動させようと、触れるか触れないかギリギリといった感じで動かそうとすると――
「んっ」
浜崎が小さく甘い声を出した。
吐息が耳元を擽り、僕の背筋がゾクゾクとする。
体が硬直し、身動きが取れなくなった。
代わりに浜崎が身じろぎすると、抱きつかれている部分に押し当てられていた、柔らかな胸が形を変える。
シャツ一枚とブラジャーだけの薄着ゆえか、その大きさも手に取るように理解できてしまう。
これ以上は本当にやばい。
浜崎の体温と心臓の鼓動を感じる。
首筋からは汗の匂いに混じって、女性特有のなんともいえない香りが漂う。
僕に抱きついている腕はか細く、爪は背中に突き立てられていた。
すこし痛い。
まだ不安なことでもあるのだろうか。
浜崎の背中を優しく撫ぜる。
「もう大丈夫だよ」
「……うん。ありがと」
浜崎は頬を赤く染めて、素直にお礼を言った。
普段よりもしおらしい態度に、なんといえばいいのか戸惑う。
浜崎がそのまま顔を上げると、吐息を感じられるほどの至近距離で顔を見合わせる姿勢になった。
唇に視線が吸い寄せられる。
無意識に昨日の出来事を思い出していた。
あのときは余裕なんてなくて、意識することはなかったのに。
いまになって生々しいほどの感触が甦ってくる。
生唾を飲み込む。
なぜか喉が渇いていた。
その柔らかそうな唇から目が離せず、気付くと距離が縮まって――。
「こほん」
前も聞いたことがあるような、わざとらしい咳が聞こえ、僕と浜崎の体が止まる。
すぐ隣へ首を回すと、白川が白い目で僕たちをじっとりと見つめていた。
「二人ともいつまで抱き合ってるつもり?」
「い、いや、これはだな」
上手く言葉が出てこない。
視線を泳がせていると、神山が微笑ましいものを見るような表情をしていた。
「しかし浜崎さんも、あんな可愛らしい声を上げるのだな」
それを聞いた浜崎が、慌てだす。
「違うし!?」
「なにが違うのだ?」
「あれは、雷にびびってたとか、そういうんじゃなくて――ああもう!」
体を離した浜崎はそのままそっぽを向く。
離れてしまったのを一瞬残念に思ったが、冷静になってみると、自分の行動に驚いた。
いまさっき僕は雰囲気に流されて、なにをしようとしていた?
もしここに浜崎と二人きりだったら――――。
僕という人間は自分で思っている以上に、流されやすいやつなのかもしれない。
特に言い訳も浮かばず黙ってしまうと、場が不自然な沈黙に満たされる。
「ねえ、話が終わったのなら、こっちのことも気にかけてくれると嬉しいんだけど」
気まずい沈黙を破ったのは柚木先生だった。
水の溜まったポリ袋を所在なく持って、僕たちを見ている。
そういえば、任せたままだった。
「すみません、先生」
「これくらいのこと、別に任せてくれていいのよ。ただ忘れられると悲しいわ」
「いや、ほんとすみませんでした」
柚木先生に頭を下げてから、ポリ袋を受け取る。
内容量はだいたい四分の一程度。
10リットルくらいか?
思ったより少ない。
雨の勢いは激しかったのだが、止むのが予想以上に早かったせいだろうか。
とりあえず口を縛って、中身が零れないようにした。
ついでにシェルターの外に放置していた、ペットボトルや瓶、水筒、カップなども確認すると、いくつかのペットボトルが倒れていた。
浜辺に埋めるようにセットしていたんだけど、砂じゃ柔らかすぎたみたいだ。
とはいえ、ガラスの瓶や水筒など、ある程度の重みがあるものは無事だった。
比較的入口が大きい水筒やカップには半分くらい水が入っている。
まあこれでも上出来か。
ココナッツと合わせれば数日分の余裕はできた。
あとはこの島に水源があるか、確認しておきたかったけれど、明日以降でも大丈夫そうだな。
「もう暗いし、出歩くのは危険だから、今日はもう夜の準備だけにしようか」
「そうね。明りがないと、なにも見えなくなりそう」
白川が辺りを見渡す。
昼間はこの島が、どこか楽園のようにも見えていた。
しかし夜になれば、一切が闇に包まれていく。
それでも光はあった。
雲が流れ去った空はどこまでも澄みきって、夜空に月と星々が輝いている。
「月が綺麗だ」
「え――あ、うん。そうだね」
白川がなぜか一瞬、動揺したように見えた。
「どうかした?」
「ううん、なんでもないの」
「そう?」
暗くて、見間違えただけか。
これ以上、暗くなる前にやることやっておかないとな。
シェルターに戻ろうとしたとき、白川が言った。
「一緒に生きて帰りましょう」
「うん、そうだな」
大丈夫。
命があれば、希望もあるのだから。
シェルターへ水筒などを運び込んでから、さっそく夜の準備をする。
まずは焚き火をシェルターの外へ移動させるところからだ。
地面が濡れているので、太い流木を二本並べて、火のついた薪をその上に置く。
こうすることで、薪が濡れず、空気の通りもよくなるので火が消えることはないはずだ。
あとはしばらくこのまま燃やし続けていれば、地面も乾燥するだろう。
そうだ、ついでに濡れてしまった薪も焚き火の側で乾かしておかないとな。
スペースを圧迫していた、焚き火などを外へやった後は、寝床の準備だ。
排水路のおかげでひどい浸水はしていないが、横雨や跳ねのせいでしっとりと湿っている。
表面の濡れた砂を軽く取り除いてみたが、冷たくてこのままじゃ寝られそうにないな。
自然乾燥では明日までかかるだろうし、強制的にやるか。
「みんなに焚き火の管理を任せてもいい?」
「もちろんいいけど、結城君はまたなにかするの?」
「焼いた石を使って、寝床を暖めてみようと思ってね。そのための石を集めてくるよ」
「なるほど。考えたな」
神山が頷く。
「私たちも手伝おうか? 火の維持くらい一人で十分だろう?」
「いや、他にも頼みたいことがあるんだ」
「なんだい?」
「ココナッツのコプラからオイルを作成してほしい」
「コプラ?」
「ココナッツの殻にくっついてる白い部分があるだろ? あれを削り取って乾燥させたものがコプラ。まあいまは乾燥させる手順を省くつもりだから、ただの固形胚乳といったほうが正しいかもしれないけどね」
お昼に食べたのは、中心の胚芽と呼ばれるものだけだ。
あれから体調に異変もないし、やはり問題はなかったらしい。
いや、それはともかく、いまはコプラだ。
今日開けたココナッツの固形胚乳はオイルのためにすべて残しておいた。
本当はすぐに処理してしまおうと考えていたんだけど、昼食後、眠気が限界で後回しにしてしまったのだ。
「そういや、あそこだけ残してたから、捨てる部分かと思ってた」
浜崎が言う。
「まさか。ココナッツは捨てるところがないくらい利用価値は高いんだ。それに固形胚乳はそのまま食べることだって出来るんだよ」
「え、そうなの? ならなんで食べなかったの?」
浜崎が理解できないという表情を浮かべる。
「ココナッツオイルの方が優先順位が上だと判断したから」
「いやいや食い物の方が大切だって」
「私も気になるわ。どうしてココナッツオイルのほうを優先するの?」
白川が尋ねてくる。
「できるだけ早急に対策をするべき問題があるからだよ」
「問題?」
白川が首を傾げる。
いつも教えてばかりじゃあれだから、今回はみんなにも考えてもらおうかな。
これはサバイバルをするうえで大切なことなのだから。
「サバイバルで気をつけるべきことは何だと思う?」
「えっと……パニック? いやこの場合は3の法則かしら?」
「うん、それ自体は間違ってない。だけどそれは生きるうえで必要最低限のものなんだ」
「足りないものがあるってわけね?」
柚木先生が言う。
「そう、つまりサバイバルの環境によっては必要なもの、対策すべきものが追加されたりするんだ」
「それがココナッツオイルに関係するってこと? まだわからないわ」
「それじゃあヒント。熱帯地域で気をつけるべきことは何だと思う」
「脱水と熱中症かしら」
「正解。他には?」
「他? えっと、日焼けとか?」
白川が自信なさげに答える。
「うん、それも正解。実際ココナッツオイルの利用法のひとつが日焼け止めなんだ」
「そうなのか? でも日焼けくらい、毎年してるけど」
浜崎が言う。
「日本と同じように考えちゃ駄目だよ。ここでは日差しの強さや紫外線の量が違うんだ。それに日焼けをなめちゃいけない」
「結城君の言うとおりよ。日焼けは皮膚の炎症でもあるの。酷いものは熱傷というんだけど、場合によっては入院が必要になることもあるのよ」
「へー」
「それに紫外線の浴びすぎは、皮膚ガンの原因のひとつでもあるしね」
僕が付け加えると、柚木先生がうんうんと頷く。
「じゃあ、日に当たらないように生活しろってこと?」
「短時間の日光浴はビタミンDの生合成に役立ってるから、日に当たらなさすぎるのも問題よ」
「え~? じゃあどうすればいいのさ」
浜崎がめんどくさそうな顔をする。
「5分から30分程度を目安に、週二回くらい日光を浴びれば大丈夫よ」
柚木先生が答える。
「ふ~ん。で結局のところ、正解はなんだったの?」
浜崎が考えを放棄する。
もうすこし考えてもらいたかったけど、しかたないか。
「蚊だよ」
「カ?」
「モスキート。血を吸うあの蚊だよ」
「あっ、もしかして結城君が警戒しているのはマラリアとか、そういうこと?」
「さすが先生。その通りです」
日本では嫌われモノであっても、そこまで恐れられてはいない存在。
しかし実のところ蚊は、人間を最も殺している生き物だといわれている。
正確には蚊の媒介する、様々な病気が死因なのだが。
ともかく、蚊の媒介する病気による死者は、世界中で年間百万人近いというデータもある。
近年は蚊帳や虫除け剤などの積極的な普及活動によって、被害は減ってきているらしいが、依然として脅威であることは間違いない。
「まともな治療を受けられない現状、僕たちが気をつけるべきことは病気の予防なんだ」
「そういえば、シェルターの場所を決めるとき、森の中は危険だって言ってたけど、これも含んでたのね」
白川が言う。
「うん。いわゆる野生の猛獣だとか、毒ヘビやサソリみたいに、みんなが想像しがちな危険生物は、積極的に人間を襲ってくることはないんだ。――蚊を除いてはね」
人間はそもそも獲物じゃないので、襲う価値はない。
それでも被害が出てしまうのは、多くの場合相手の存在に気付かず、不用意に近づきすぎた結果、攻撃されるからだ。
つまりこちらが気をつけてさえいれば、襲われる心配はほとんどない。
でも蚊は違う。
やつらは人間の血を積極的に狙ってくる。
しかも暑すぎる昼間よりも、涼しくなってきた今頃から活発化するのだ。
「蚊の対策か……そういわれるとたしかに必要ね」
柚木先生が納得する。
「でもココナッツオイルには蚊除けの効果なんてあったかしら?」
「一定の効果は確認されてるみたいだよ。もちろん専用の虫除け剤ほどじゃないだろうけど」
「なにもしないよりはマシだ、というわけだな」
神山が言った。
「ココナッツオイルには日焼け止めや虫除けだけじゃなくて、一部の皮膚病や肌の保湿、髪の手入れなどにも使えるんだけど、なにより重要なのは石鹸の材料にもなるってこと」
「石鹸」
みんなの顔つきが変わる。
昨日から海に入ったり、汗をかいたりしてるけど、風呂に入っていないので、べたつくような不快感があるのだろう。
僕もできればすぐにでも汗を流したいところだけど、真水は貴重だし、海水じゃ乾いたときに塩だらけになるので、いまはまだ我慢している。
「病気の予防が重要なのはみんなもわかってると思うけど、そのために大切なことが衛生的な状態を維持すること。ついでにいうと、蚊は人間の汗に反応して、寄ってくるらしいから、汗くさいと刺されやすくなる」
「――私たちもしかして、汗くさかったりする?」
白川が顔をひきつらせる。
「いやいや、んなわけないじゃん。くさくないよな?」
浜崎が必死な表情で僕に尋ねてくる。
「えっと、そうだな。くさくはなかったよ?」
「なんでちょっと疑問形なんだよ!?」
「いや、ちょっと汗のにおいもしたけど、不快な感じはなかったっていうか」
「はあ!? え、それってどういう意味?」
浜崎が動揺する。
我ながら変なことを口走ってしまった。
「なんでもないよ。とにかく蚊の対策も兼ねてココナッツオイルを作成する。OK?」
多少強引だが、話題を切り替えた。
そしてココナッツオイル作りを始めることにした。
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