第6話 漂流一日目の終わり
飛行機の墜落から数時間。
あんなにも暑く照りつけていた太陽が水平線上へ沈もうとしている。
周囲は青の世界から、燃えるようなオレンジ色に染め上げられていた。
「救助来ないね」
白川が呟いた。
最初の一時間ほどは、みんな元気はあった。
しかし時間が経つにつれ、言葉数は減り、疲労感は色濃くなっていた。
「水ももうないよ」
浜崎が言う。
そう、水問題は結局のところ解決していなかった。
太陽蒸留器はこの数時間で、二つ合わせてもカップ半分も得られなかったのだ。
そのため、脱水を防ぐために水筒の飲み物をちびちびと舐めるように口に含んで、喉の渇きを潤すことにした。
SODIS法で殺菌した海水も水割りにして試してみたのだが、ぬるい食塩水に若干のゴムの匂いが混じり、はっきりいって最悪な飲み味だった。
まあ貴重な水なので我慢して口にしたが、ついにその水もなくなったようだ。
みんなの表情に陰りが差す。
良くない兆候だ。
精神的にも大分消耗しているな。
みんなを安心させるように、余裕を持って声をかける。
「大丈夫だ。まだやりようはある」
この数時間、ただぼうっと海を眺めていたわけじゃない。
他に実行可能ないくつかの案を検討していたのだ。
「どうするつもりだ?」
神山が尋ねる。
「夜になったら、火を起こそう。それで海水を沸騰させて、水蒸気を集めるんだ」
「燃料はどうする?」
「この際使えそうなものは、なんでも使うしかない」
修学旅行のしおり、ノート、パスポート、紙幣、ティッシュなど。
「こんなもので、沸騰させられるのか?」
「紙は固く巻いて、
「そうか。では、やってみるしかないな」
正直にいえば、ほとんど水を得られないだろう。
それでも、なにかをしていないと考えが悪いほうへ傾いて行きかねない。
「そうだ、服はどうする?」
神山が何気ない口ぶりで言う。
「え? もしかして、服も燃やすつもり?」
白川が動揺する。
みんなの顔が赤いのは、夕日のせいかそれとも恥ずかしいからか。
「衣類か……迷うところだけど、夜間の冷え込みを考えると、燃やすのはやめておいた方がいいかもしれない。先生はどう思いますか?」
「えっ、そうね。服は大事よ? やめた方がいいと思うわ!」
柚木先生も反対のようだ。
単純に裸になるのが嫌だからのような気もするけど。
まあ、救助が来たときのことを考えても、全裸だとちょっと――いやかなりおかしいしな。
「先生もそういうなら、その通りなのだろうな」
神山が頷いた。
柚木先生が反対しなかったら、躊躇なく燃やすつもりだったのか?
白川と浜崎はそれを聞いて安堵の息を吐いていた。
やっぱり神山はどこかズレているのかもしれない。
「ま、まあそういうわけで、服以外でやってみるか」
どんどん暗くなるなか、スマホとキーホルダーにつけているLEDライトで明かりを確保する。
そうだ、その前にスマホのバッテリーを節約するために設定を変更しておかなくちゃな。
まず機内モードになっているのを確認する。
こうしておかないと、Wifiやモバイル通信の電波を探して無駄にバッテリーを消耗してしまうのだ。
ふむ、これは飛行機に乗った時に設定したままだな。
次はバッテリーを低電力モードに切り替える。
そして画面の明るさを最低限まで下げる。
あとはいまは必要ないアプリや設定を切って完了だ。
いざとなればソーラーパネルがついたモバイルバッテリーもあるし、大丈夫だろう。
作業を開始する。
材料の紙類を確認すると、海に浸かって湿っていたものも、この数時間の熱気ですっかり乾いていた。
それらを固く丸めて、棒状に成形する。
コツは隙間ができないように、ギュッと絞ること。
こうすることで原材料の木と同じような、使い心地になる。
これでよし。
あとはライターで火をつけるだけなんだけど……もったいないなあ。
材料として使った紙幣が目につくと、こんな状況なのに躊躇しそうになる。
水一滴に札束か。
だけど命の値段には換えがたい。
成金の気持ちになって火を付けた。
「どうだ明るくなったろう」
「プフッ」
白川が吹きだした。
さすがというべきか。
白川には歴史の教科書ネタが通じたようだ。
それを見て浜崎は首を傾げている。
「なになに?」
「歴史の教科書に、風刺漫画の一コマが載ってたの覚えてない?」
「たしか札束を燃やして、明かりにする成金を描いたやつよね。懐かしいわ」
柚木先生が微笑んだ。
「そんなのあったっけ?」
「前から思ってたけど浜崎さん、あなたちゃんと勉強してる?」
「うっ、こんな場所で説教するつもり? やめてよ委員長」
うんざりした表情を浮かべる浜崎が、僕をジト目で睨む。
「結城が変なこと言ったせいだからな」
えぇ……。
僕のせい?
理不尽だ。
視線を逸らすと、火のついた紙薪が目についた。
上手くいったようで、海風に煽られつつもすぐに消える様子はない。
その火の上に、少量の海水を入れたステンレス製のカップを手に持ってセットする。
持てないくらい熱くなったらどうしよう?
まあそこまで熱くなるならむしろ喜ぶべきなんだろうけど。
「誰かこのカップの上にポリ袋を広げて持ってくれないか?」
「私がやるから、みんなは休みなさい」
柚木先生がポリ袋を広げた。
「寝転びながらでいいから、救助隊を見逃さないようにだけ頼む。この暗さじゃ相手から僕たちを見つけるのは難しいだろうから」
「わかったわ」
白川たちが体を休ませながらも、見張りを請け負ってくれたので、その間に安心して海水の蒸留を行う。
といっても、燃料は少ない。
十数分程度ですべての紙薪を燃やし尽くしてしまった。
カップは結構熱くなっているが、中の海水は沸騰には至らなかったか。
それでも湯気が立ち上り、ポリ袋の中に水滴が溜まっている。
集めると、数十ミリリットル程度になった。
飲むというより、口をしめらせるくらいにしかならないけど、渇きはマシになるだろう。
「たったこれだけかあ」
浜崎が溜め息を吐いた。
いよいよ追い詰められてきたな。
口には出さないけど、みんなの表情から余裕がなくなっていた。
夜になると海は墨のような真っ黒になって、得体の知れないナニカが潜んでいそうな想像を駆りたてる。
それが恐怖を煽り、余計に精神からゆとりを奪い去っていく。
いつまで待てばいいのか。
本当に救助は来るのか?
悲観的になりそうな思考を打ち切って、現実に目を向ける。
やはり水分の問題は深刻だ。
お腹も空いてきたが、食べ物――特にタンパク質を摂取すると、消化吸収をするために水分を使うので、いまはなにも食べないほうがいい。
どうしてもというなら魚を釣って、生で脊髄あたりの体液を啜るか。
これなら水分も多少は補給できる。
ただ生魚は腸炎ビブリオをはじめとする様々な菌や、寄生虫のリスクがあるので、できれば避けたいところだけど……ここに至ってはそんなこと言ってられなくなってきたか。
問題は僕のサバイバルキットには釣り道具は含まれていないってこと。
ついでに餌もルアーもない。
これではやっぱり難しいよな。
そろそろ最後の手段について、みんなに話す頃あいだろうか。
でもなあ。
これを提案すれば、どんな反応をされることやら。
憂鬱だけど、時間的な猶予も少ない。
みんなと向き合って話をする。
「ちょっといいか」
「どうしたの?」
白川が疲れた表情をしていた。
「水問題解決の最終手段について話しておこうと思って」
「まだなにかあったの? それならはやく言ってよー」
浜崎が期待に満ちた顔をする。
ああ、言い辛いな。
この期に及んで躊躇していると、神山が口を開いた。
「浜崎さん、待つんだ。結城君がこれまで言わなかったということは、なにか問題があるのだろう?」
「そうなの?」
「まあ、そうだね」
否定しても意味はない。
問題があることを認める。
「最終手段というからには、危ないことでもするつもりか?」
「危ないといえば、危ないけど、すぐになにか起こるようなものではないよ」
そう短期的には問題ないってやつだ。
「なにをするつもり? 私が危険だと判断すれば、認めるわけにはいかないわ」
柚木先生が警戒するように僕を見た。
なんだかますます言い辛くなったけど、覚悟を決めて口にする。
「えっと、人間の尿は体内にある間は、ほぼ無菌状態だという話は知ってる? それと塩分濃度も海水よりは低いって話も」
「え?」
「は?」
「結城君?」
「まさか――」
みんなの顔が驚きに染まる。
まさに信じられないって顔だ。
だけど言わなければならない。
「つまり尿を飲む」
言い切ると同時に、みんなの顔が固まった。
まあ、こうなるだろうとは予想してたけど、どうしたものか。
しばらくして最初に口を開いたのは、白川だった。
「えっと、冗談よね?」
「いや、割と本気で検討してる」
「無理よ、無理! 絶対飲めない!」
白川は両手をぶんぶん振って拒否した。
「アタシも絶対イヤだからな」
浜崎もきっぱりと拒絶する。
「私もできれば遠慮したいのだが」
神山は消極的ながらも、そう言った。
「えーと、結城君。人間の尿は飲み物じゃないのよ?」
「当り前ですよ、先生。僕を何だと思ってるんですか。できることなら当然やりたくなんてないですよ」
「そうよね。もちろんわかって言ってるのよね」
柚木先生は困った表情で口を噤んだ。
「サバイバル関連の本で、実際に尿を飲んで生き延びたって体験談も実在するので、最終手段として提案してるんです」
「でも、あくまでほぼ無菌というだけで、尿道に菌がいる可能性もあるわよ。それに尿の中には排泄すべき老廃物や有害な成分も含まれてるから体に良くないわ」
「だから危ないといえば危ないけど、すぐになにか起こるようなことではないって言ったんですよ」
「う、さっきのはそういうこと?」
柚木先生の眉尻が下がっていく。
危険だと判断すれば、止めるつもりだったんだろうけど、予想外の提案だったせいで、困惑しているのがありありと見てとれた。
脱水や熱中症の危険性と比べれば、どちらのほうが生存率は高いのか。
柚木先生が悩んでいるようなので、もうひとつの手段を提案する。
「飲むことに、抵抗や危険性があると考えてるなら、腸から直接水分を摂取する方法はどうですか?」
「腸……まさか滋養浣腸のこと?」
「そう、それです」
医療従事者の間でもマイナーな知識だと思ったんだけど、柚木先生は知ってたみたいだ。
さすが養護教諭。
僕がこれを知ったのは、外国の某テレビ番組だった。
あの番組はいろいろと衝撃的で、素人は安易に真似しちゃいけないことをバンバンやっていた。
でもそれが面白かったし、記憶にもこうして残っている。
浣腸による水分補給は、飲用には適していないような、汚い水からでも水分を摂取することができるという話だった。
ただ浣腸による水分の吸収はあまり効率的ではないので、ほぼ無菌な人間の尿であれば、飲むほうが効果的らしいんだけど。
柚木先生はそのあたりどう考えているのか。
返事を待っていると、浜崎が怪訝な表情で尋ねてきた。
「ねえ、ジヨウカンチョウってなんなの?」
「水や栄養のある液体を肛門に注入して、腸から直接水分や栄養を吸収させること」
「は? 肛門? お尻の穴に入れるっていうこと!?」
「そういうこと」
「変態! やっぱお前変態だろ!」
「失礼だな。これはれっきとした医療行為なんだぞ」
たしか保険点数がついているから、保険も適用もされるはずだ。
まあ、現代では点滴があるから、病院で行われることは、まずないみたいだけど。
柚木先生に視線を向ける。
「そうね、たしかに滋養浣腸は医療行為だけど、尿を使うなんて聞いたことがないわ。だから健康への影響についてはっきりしたことは言えない。良くないのは確かだと思うけど」
柚木先生が難しい顔で言った。
「それじゃあ、このままなにも飲まず救助を待ちますか? 一番生存率が高いと思う選択肢はなにか、先生の意見を聞いておきたいんですが」
「う、うーん、それは……」
「それは?」
みんなが緊張した面持ちで柚木先生の答えを待つ。
「…………水分を摂取するほうが、生存率は高いと思う」
「それって、つまり?」
白川が信じられないような顔で柚木先生を見た。
「その……飲むということよ」
「そんな――――」
苦渋の決断を下した柚木先生に、白川が絶句した。
しかしこの状況では仕方がないのも事実だ。
日中は30度を超える気温のなかで、数時間まともに水分をとっていなかったのだから。
身体の水分を2%失うだけで、判断力は低下し、5%を失うと喉の渇きや頭痛、めまいなどの症状が出てくる。
僕たちはすでに軽度の脱水症状が起こっていた。
これ以上水分を失えば、手足の震えや吐き気、脱力感などにより、まともに動くことすらできなくなって、いずれ生命維持にも支障が出るようになるだろう。
つまり、今はそうなる前の、最後の機会かもしれないということだ。
もしかしたら雨が降るかもしれない。
救助がすぐ近くまで来ているかもしれない。
でも、そうじゃなかったら?
3の法則によれば、人は水なしで3日間生きることができるという。
でも、環境によってはさらに短くなるし、生きるといってもどんな状態なのかという問題がある。
生きているといっても、自力で動くこともできず、助かってもなんらかの後遺症が残る可能性もある。
3日間という数字を盲信するのは危険だ。
僕たちは漂流初日にして、ある意味究極の選択を求められることになった。
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