後編


「……志織お嬢様のご容態は安定しました。ですが、予断を許さない状況に変わりはありません」

 応急処置を済ませたセナさんが戻ってきて、そう告げた。

 時刻は夜の十時。あれから二時間しか経っていないことが不思議だ。応接室で待っている間、俺はひたすら両腕を組むしかなかった。

「それでも、ありがとうございます。志織を助けてくれて」

 俺の言葉に、セナさんは顔をしかめる。

「助けたわけではありません。微力ながら延命処置を施しただけです。どれだけ粘れるかは、志織お嬢様次第……」

「ちょっと、待ってください」

 理解するより、口が先に動いていた。

「延命処置って、一体どういうことですか」

「…………」

 セナさんは一瞬曇った顔つきをした後、諦めたように息を吐き出した。

「……最初から、伝えておいた方がよかったのかもしれません。ですが、志織お嬢様があんなに元気でいるのは、笑っているのは珍しかったものですから」

 それからセナさんは語り出した。志織の身に何が起こっているのか、なぜこんな目に遭っているのか、その顛末を。



 始まりは、小学校六年生の一月だった。ちょうど、俺とあいつが別れる二ヶ月前のことだ。

 高倉の家では、跡継ぎは義務教育の後、私立の専門学校に通い必要な知識を得ることがしきたりとなっていた。つまり志織は、中学までは俺と一緒のクラスにいても別段不思議な関係ではなかったといえる。

 しかし事件はそこで起きた。

 志織が突如、病に倒れたのだ。

 とある夏の夜、夕飯を取っている際、不意に意識を失ったのだという。セナさんを始め、その場にいた世話係は急いで救急車を呼び、応急手当を始めていたという。その甲斐あってか、当時の志織は助かった。助かったのだが、事態はより深刻だった。

 翌日に昏倒の原因が分かった。告げられた単語は、非常に意外なものだった。

 AIDS。小学生女子が冒されるには不釣合いな病名だった。

 ウイルスが志織の体内に侵入した原因は、彼女の父親――すなわち、高倉家の現当主にあった。跡継ぎたる息子が生まれず、代わりにできた娘の存在を疎んでいた父親は、幼い頃から志織に暴力を振るってきた。時に拳で、時に言葉で。成績も性格も良かった娘に対し、父親が愛着を抱くことはなかった。彼女を見る度、ただ男児ではないという理由だけで苛立ちを覚えていた。

 そんな父親が採っていた暴力の一つに、性的なものがあったという。齢幾ばくもない幼女を侵す。通常では考えられない行動だが、それは同時に、彼が抱えていた志織への恨みの強さを表している。しかも事は一度では終わらず、DVのレパートリーの一つに挙げられるほどだったという。

 セナさんたち世話係の多くは、当時その事実を知らなかった。基本的には仲の良い親子として認知されていたという。が、志織の病名を報告された際に、父親の口からその実態が明かされたのだ。自分の娘を凌辱する、その理由と異常さに、大半の世話係は当然のごとく怒りを覚えた。無論、仕えている主人という関係上、その罪を追及することは誰にもできなかったのだが。

 だが結果として、その常識外れの暴挙が父親を救ったといえる。志織は不治の病を発症し、その療養という名目で島流しにすることに成功。さらに血縁的な後継者がいなくなったために、任意の男を養子として迎え入れることができるようになった。事情を知る者に対しての口封じも忘れなかった。一部の世話係は多額の退職金と引き換えに解雇、診断した医者にも病名の公表は控えさせたという。ただ一人解雇を拒否したセナさんは、流刑地での志織の世話を半ば脅迫の形で選ばされたという。

 かくして、小学校を卒業せずに志織は街を去った。誰にも理由を伝えられず、セナさんとたった二人で、誰もいない辺境の豪邸に幽閉された。父親からの支援などは、これまで一切なかったという。彼としてはむしろ、志織という存在自体を抹消したいのだ。治療費すらまともに支給されない状態が続いた。

 志織は日に日に衰弱していく。薬を摂ろうにも、買い続ける金は捻出するのも難しい。加えて食材や必要物資を買い揃えるためには、遠く離れた市街に向かわなければならない。そのために使う車のガソリン代も嵩む。セナさんと志織はこの六年間、常に厳しい暮らしを強いられてきた。高倉家が莫大な富を育み豊かに成長する、その陰で。



「……ふざけんな」

 セナさんの長い告白が終わった後、つい口に出していた。俺が憤るのは筋違いだと、頭では分かっている。分かっていても、許すことはできなかった。

「あいつ、父親から酷い目に遭わされても、平気な顔して笑ってたっていうのかよ」

 俺は、一体誰に怒っているのだろう。あいつに手を出した父親にか? 俺に一言も相談してくれなかった志織にか?……それとも、そういった事情を知り得なかった自分にだろうか。あいつの引っ越しを身勝手だと怒鳴り続けていた、幼き日の自分に。

「侑人様。あなたが気に病む必要はありません」

 セナさんの慰めはありがたいが、今はそんな気分じゃない。

「……ほっといてください」

「いえ、放ってはおけません。なにしろ侑人様には、これから大事な役割を担ってもらわねばならないのですから」

 その言葉に、俺は埋める寸前だった顔を上げた。

「重要な、役割?」

「はい。志織お嬢様にとって、とても大事な役割です」

 いま一度セナさんは姿勢を正し、俺と向き合う風に座った。

「明日が何の日か、ご存知ですか?」

「明日……八月二八日、ですよね」

 そんな俺の回答は満足のいくものではなかったようで。

「まあ、六年も離れていらっしゃれば、お忘れでも仕方ありませんね」

 次にセナさんが発した単語は、俺の予想の範疇を越えた、しかし、とてもありふれたものだった。


「……じゃあ、俺がここに呼ばれたのって」

「はい。志織様直々のご要望でしたので、招待状を装って呼び出させていただきました」

 そうか、そういうことだったのか。今なら納得できる。あいつの行動、その一つ一つの意味が。

「やっと理解できました。あいつの望んでいたことが」

「ええ……志織様が挙げられていたリストの中で、まだ叶えられていないものは、あと」

「いや、何となく察しはついてます」

 そう言うと俺は、硬い皮のソファから立ち上がり、窓の外を指差した。

「おそらく、夏休みに特有のあれかと」

「……ご名答です、侑人様」

 セナさんは嬉しそうに微笑む。彼女もまた、座していた椅子から腰を上げた。

「送迎は私が担当いたします。志織様のお体が良好になり次第、すぐに参ることにしましょう」

「よろしく頼みます、セナさん」

 セナさんは力強く頷いた。今までで一番、人間らしい表情をしていた。

「ですが、本日はもう夜も深けております。侑人様はお部屋でお休み頂けると良いかと」

「あ、部屋まで用意してくださってるんですか」

「……腐るほどありますから、この無駄に広い屋敷には」

 含んだ物言いをしながら、セナさんは腰のホルダーから一つの鍵を手渡した。

「二階の突き当たりの部屋です。日当たりの良いことで評判ですよ」

 ありがとう、と礼をして鍵を受け取る。そのまま踵を返し、応接室を出る。と、その前に。

「セナさん」

「はい……何用でしょうか」

 彼女の方に向き直り、俺は続けた。

「さっき、招待状を装って俺に手紙を送った、って言ってましたよね」

「ええ。それがどうか致しましたか?」

 何の話か困惑するセナさんに、俺は二ヤリと笑ってみせた。

「あれも立派な招待状じゃないですか。志織を祝う、バースデーパーティーのね」



 翌日。夜が明けて、太陽が天高く昇り、今度は西に落ちていく最中、やっと志織が目を覚ました。

「体調は比較的落ち着いています……この分だと、決行は夜になってしまうとは思いますが」

「ああ、俺は大丈夫ですよ。母にはもう一泊する、って話を付けておきましたから」

 スマホをぶらつかせながら、俺は答えた。

「ただ、時間があるなら……また、志織と話をさせてもらえませんか」

 昨夜、横になりながら考えていた。自分にできることは何か。今の志織が、してもらって嬉しいことは何か。そもそも彼女が望んでいるのは、思い出の再現だけで良いのか。

 正直、回答は出なかった。死を間近にした人間の気持など、分かるわけがない。だったら本人に直接聞いてみるというのが、無粋だが一番理に適った選択肢ではないか、という結論に達したのだ。

「無論です、侑人様。鍵は開いてあります。いつでも、お好きな時間に」

「ありがとうございます」

 準備があるということで、セナさんは一旦階下に戻っていった。残された俺は、手短に身なりを整え、志織の部屋のドアをノックした。

「俺だ、侑人だよ」

「……入って」

 か細い声を合図に、俺はドアを開く。室内は昨日と同じように潮風を湛え、床にはカーテンの影がちらちらと踊っている。隅に置かれたレコードも変わらず、ピアノの音を奏で回っていた。

 違っているのは、志織が立っていないことだけ。虚ろな眼差しを浮かべる顔の下で、黒髪はベッドからはみ出るように垂れていた。すらりとした手足は毛布に覆い隠されている。せっかくの美しさが、尽く封印されている。この姿が普段のあいつで、このベッドの上が普段の居場所なのだろう。そう思うと、つい目を伏せてしまいそうになる。

 だが、今はあいつを見据えなきゃならない。

 ベッド脇まで行くと、志織は椅子を差し出してくれた。

「その顔つき、セナから聞いたの?」

「…………まあな」

 本人に気付かれた以上、隠していてもしょうがない。開き直ってでも、お前の気持ちを知りたいんだ、こっちは。

「今日、誕生日だろ?……願ったプレゼントは、小学生時代の思い出の再現。そのために、俺を呼び寄せた」

「そうだね。合ってるよ」

 志織は上半身を起こす。昨夜までの無邪気さはすっかり消え、佳人の淑やかさを想わせる素振りだった。

「おそらく、最後の誕生日になるだろうからね」

「……ッ!」

 本人が発した瞬間、志織の死という概念が妙な質感を持って迫ってきた。病だけでなく諦念にも冒されているのか、志織は。口が反論しようとするのを、ぐっと堪えた。

「……それで、お前があと残してる思い出って、海水浴だよな」

 そう、海水浴。夏が来るたび、俺たち子供だけで海に向かった。砂場を走って、水面に飛び込んで、泳いで、時に溺れかけて。毎日騒いでいた幼少期の中でも、一番バカになれた日だった。

「こんな近くに海があるのに、毎日目に入ってくるのに、泳ぐどころか浜辺にすら行けなかったんだろ? だからお前は」

「違う」

 俺の推測は、志織の言葉にはっきりと遮られた。

「違うんだよ、侑人」

「じゃあ何が違うんだよ、言ってくれよ」

 苛立つ俺から目を離し、志織は遠くの空を見つめた。もう、日光はだいぶ斜めになっている。

「確かに私は、あなたともう一度会いたい、遊びたいって、そう願った。でも、海水浴は違う。また泳ぎたいわけじゃないの」

「……それじゃあ、何を」

「五年生の夏だったかな。侑人、私に約束してくれたでしょ」

 あいつの瞼が、半分だけ閉まった。

「……来年の誕生日にも、また二人で海に行こうぜ、って」


 志織は、本当に物覚えが良い。俺が忘れていたことも、全部覚えている。

 いや、違うな。あいつの思い出は、小学六年生で止まってしまってるんだ。楽しかった日々は、ここに捕らえられた瞬間に途絶した。苦しい日々は繰り返し続けられ、闇に葬りたい傷跡は一向に治らず、ただ名残惜しい記憶だけが胸に残っている。俺にとっては単なる遊びだった毎日が、志織にはかけがえのない記憶だった。心の支えだった。

 しかも、後先考えない俺の約束をずっと信じていた、なんて。

「……馬鹿かよ、お前」

「うん、馬鹿かもね」

 そんなわけあるか。志織は馬鹿は馬鹿でも、馬鹿正直なんだよ。なんでそんなに純粋でいられるんだよ、お前は。

「約束した本人が忘れるなんて。駄目だな、俺は」

「そんなことない。侑人は、ちゃんと私という存在を覚えててくれた」

「忘れられるわけないだろ。お前みたいに、金持ちで、女で、それでいて俺と対等の立場で騒いでくれる奴なんて、そうそういなかったんだから」

 刹那、志織は俯いた。それまで布団の下に埋めていた左手で、両の瞼を押さえていた。痙攣し始める背中に、俺は軽く手を添えた。

「それじゃセナさんには悪いけど、そろそろ出発しなきゃな」

 顔を上げる志織。彼女の目元が赤く腫れ上がる前に、ことを始めておきたかった。

「来年じゃなくて六年後になっちまったけど、許してくれるか?」

 少し照れながら俺は訊いた。一瞬驚いた表情を覗かせた志織は、すぐ嬉しそうに顔を崩した。

「うん。もちろんだよ、侑人」



 志織を背に、海までの遠い道を歩く。細くて体重が少ないとはいえ、女性一人を背負って進むのは結構体力が要る。やっぱりセナさんの車に乗るのが良かったかな、と僅かながら魔がさす。が、二人でいくという約束だ。志織の気持を破るわけにはいかない。

「侑人、きつかったら下ろしてもいいよ?」

「大丈夫だ、これくらい……あと、何分くらいで着く?」

「ええと。車だと、あと五分くらいかなあ」

 それだと、いつもより速度が減少しているこの状態では、あと小一時間は下るまい……ため息をつき、そして気合を入れ直した。

「よし、もうちょっと我慢してくれよ志織。陽が沈むまでには到着する!」

「うん、頑張ってね侑人」

 この陽の差し加減、正直守れるかどうかは怪しいが、弱音は言っていられない。とにかく俺は、全意識を前進することだけに集約させた。



「ふぃぃ、やっと着いた……」

 ダメだった。夕陽が水平線に沈む、ほんの数分前だった。

「間に合わなかったね、侑人」

「これでも全力だぞ……」

 ふふっ、と志織が笑った。

「でも、こんな景色、初めて見た」

 俺も、視線を彼方に向けてみる。

 太陽は既に沈んでいた。本来なら空も紺色に染まっていくはず。だが、その空は違っていた。

 陽が沈もうとも、残光は辺りに漂っている。その茜色の淡い光が、不思議なほど周囲を照ら出していた。水平線近くは特に暖かく、橙色の帯が数本、折り重なってこちらを見ていた。

 その輝きは、これまで見てきたどの空よりも眩しく、また美しかった。その美しさが、海面にも同様に映し出されているのだ。不規則に姿を変える波間が、光を反射してきらきらと瞬いていた。

 対称とは言い難い二つの空。しかし両者が合わさることで、絶妙な色彩が表現されている。

「すっげぇ……」

「ほんとに、ね」

 壮大な幻想を前に、俺たち二人は感嘆の息を漏らしながら、ただ並んで立っていた。


 やがて空は藍色に侵食され、何事もなかったかのように夜を迎える。俺と志織は、浜辺に寝転んで一番星を探していた。

「あっ、見つけた!」

「早いな、志織」

 指差す先に、一際明るい白色の星。残照うずまく西の空でも、その輝きはかき消されることはない。

「ふふん、今度こそ私の勝ちだね」

「ああ、志織の勝ちだ」

 やった! と声を上げる志織。傍で見ていて、こちらも嬉しい。良かったな、とつい言ってしまった。

 一番星が見つかると、空が星々に埋め尽くされるのは案外早かった。都会では見られない様々な光が、虚空を鮮やかに描き出している。その中には、明るいものも暗いものもいる。今にも消えてしまいそうなほど薄い輝きのものもいる。どれが何という名前なのかは分からなかったが、それでも俺は、この天上の存在との出会いに感謝した。

「ねぇ、侑人」

「ん、どうした志織」

「綺麗だね、星」

「ああ、もちろん」

 この光景を、お前と隣り合って見ている。そのことを、感謝したい。

 しばらく、黙って空を見つめていた。二人とも、それぞれの場所から想いを馳せていた。

「……ねぇ、侑人」

「なんだ、今度は」


 不意に、視界が遮られた。代わりに、他の感覚が鋭くなる。

 身体にのし掛かってきた重み。頬に触れる髪の感触。そして、唇に注がれる温かさ……。

 少し身を離してから、志織は言った。

「ありがとう、侑人」

 その瞳の煌めきは、陰になっていてもはっきりと見て取れた。小さく微笑む志織。彼女は、背景の星空と比べても見劣りしないほど、美しかった。

「……誕生日おめでとう、志織」

 今度は俺が、志織を抱き寄せてやる。腕を結び、頬を重ねながら、二人はいつまでも、互いの熱を確かめ合っていた。




 ……あの晩夏の日から、早くも二年が経つ。俺は大学生となり、成人もして、少しは大人に近付いた気がする。

 志織は、あれから少しして亡くなった。葬儀は家族で済ませたため、俺に二度目の招待状が来ることはなかった。

 ただ、セナさんから感謝の手紙は届いた。それによると、志織は最期まで笑顔のまま、旅立っていったという。

『お嬢様の無茶なお願いを聞き入れて下さり、本当にありがとうございました。侑人様には感謝してもしきれません。

何も返せないことが非常に申し訳ないのですが、どうか志織様のことをお責めにならないでください。すべて、私の思慮の浅さが原因とお考え下さい』

 手紙の末には、志織の墓の場所が記されていた。例によって差出人の住所は書かれていなかったから、セナさん宛に手紙を返すことはできなかった。それに、セナさん自身も『わざわざ返事を書いていただく必要はございません。どうか、侑人様が幸せな日常を送られますように』と書き記していた。

 ……あの人はどこへ行ったのだろう。ふとした拍子に考える。世話係としての務めは果たしたから、おそらく解雇されたのだろう。その後の行方を詮索されたくなかったから、あのように記した可能性もある。が、いつまでたっても俺には知り得ないことだった。


 俺は、幸せな日常を送っているのだろうか。あの夏の日が遠くなっても、心には未だにぽっかりと穴が空いている。少しも、埋まる兆しはない。こんな状態で過ごしていても、幸せには近づけないんじゃないか……。

 正直、俺はそれでもいい。志織の存在を、あいつと過ごした記憶を忘れないでいられれば、それでいい。

 父親からも、家系からも、世間からも、同級生からも消し去られた一人の女性、志織。きっと今、この世で一番あいつを知っているのは俺だ。そんな俺が記憶を喪くしてしまったら……志織は、完全にこの世からいなくなってしまう。それは、それだけは絶対に嫌だ。



「次は藤ヶ浜、藤ヶ浜~。お出口は向かって左側。お降りの際は、お足下にご注意ください」

 相変わらず呑気な車掌の声を聞き、俺は電車を降りた。今年も暑い。屋根のない無人駅には、燦々と輝く太陽の光が途切れなく差し込んでいる。

 腕時計を確認してから、予約していたタクシーに乗り込む。行き先は指示してあるから、運転手はすぐに発進させてくれた。

 見覚えのある木々の隙間から海面が覗く。今年も綺麗ですね、と声をかけると、運転手は嬉しそうに頭を下げた。

 やがてタクシーは高台へ出る。いつぞやの屋敷はもう、見えない。車庫も含め、すでに跡地となっていた。

 その脇でタクシーは停車した。降り際に礼を述べ、俺は跡地へと向かう。

 色とりどりの草花だけが、あの日の面影を遺している。最後の鬼ごっこをした庭園の風景を思い出しながら、俺は唯一建っている石碑の前に座った。

 潮風が、強く吹きつけている。周囲の草花は踊らされ、その間を縫うごぉぉ、という音だけが耳に入ってくる。

 そんな中で、この墓だけは動かされず、また浸食もされなかった。変わらずに、ここに建っていた。

「今年も来たぞ、志織」

 誰にともなく声をかける。返事はもちろんない。

 俺は持ってきた花束を捧げ、両手を合わせた。そのまま顔を上げ、墓石と向き合う。


「お誕生日おめでとう、志織」



 夏の終わりに、俺たちをもう一度結び付けてくれた招待状。

 あの手紙を、俺はまだこの胸に、大切にしまっている。

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