中編
「それではお二人とも、ご夕食までしばしご歓談を」
そのままセナさんは退出し、部屋には俺と志織だけが残された。開け放してある窓から、絶えず海風が流れ込んでいた。
「……」
「…………」
しばし無言の時間が続く。ご歓談も何も、話の掴みが見つからなけりゃ意味がない。そもそもこれまで疎遠だったのだ。相手の興味が今どこにあるのか、とんと検討がつかない。それに、あいつはもう、昔のあいつじゃない。
「……ねえ、侑人」
重い沈黙に耐え兼ねたのか、志織が口火を切ってくれた。静かな、静かな物言いで。
「どうした、志織」
できるだけ平静を装って応える。相対する志織は、次の語に繋げるべきかどうか迷っているようだった。
「あの、あのね」
勝手に俯く彼女。右手は何かを探るようにベッドの上を這っている。窓際の椅子に腰かけている俺は、その手を握ることもできない。
しばし間を置いてみると、志織の手は動きを止め、握り拳を作った。と同時に彼女の顔が持ち上がり、俺の眼を食い入るように見つめる。
「庭で、鬼ごっこしない?」
それが、志織の絞り出した言葉だった。
「しかし、十八にもなって鬼ごっこをするとはね」
一人ぼやきながら、俺はだだっ広い庭園を歩く。赤、黄、白。多様な色を湛える花々や草木が細い通路を形成し、さながら迷路のようになっている。そのどこかの陰に彼女は隠れている、はずだ。
昔やっていたルールに則って鬼ごっこしよう、と提案したのは志織だった。逃げる側は物陰に隠れても良し、ただし捕まったらそこで終了、というやつだ。鬼は他の子を探し出し全員捕まえれば良いのだが、この捕まえる、というのが存外厄介だった。かくれんぼなら見つけた瞬間終了なのだが、見つけても逃げられたなら追いかけねばならない。特に足の速い奴、運動神経の良い奴相手はキツかった。今回の対戦相手である志織も、その常習犯の一人なのだが。
「ったく。こっちはこの屋敷の構造も把握してないんだぞ。お前が圧倒的に有利じゃねえか、なあ?」
近くに潜んでいるかもしれない志織に声を掛ける。もちろん、返答はない。
「はぁあ……面倒」
今度はあいつに聞こえないよう、小声で放った。何の意図からか知らないが、いきなり二人で鬼ごっことか……正気の沙汰じゃないだろ。まあいいけど。
「んじゃ、さっさと終わらせるぞ」
草花の生い茂る道を進む。とにかく物陰に注意を払う。少しでも動くものがあったら走って向かう。俺としては、一刻も早くこの幼児退行時間を終わらせたかった。たとえ、志織が存続を望んでいたとしても。
……が、俺の意気込みとは裏腹に、いつまで経っても志織は見つからなかった。どこ行っちまったんだあいつ。まさか本当に、屋敷の住人にしか分からない場所に逃げたりしたんじゃないだろうな。
「おーい志織、もういいだろ。俺の負けだよ負け。だから終わりにしようぜ」
比較的大声で叫んでみたが、返事がない。
「なあ、頼むから出てきてくれよ!」
先ほどより響くように言ってはみたが、やはり結果は同じ。いくら広いとはいえ、他に人がいなくて静かな環境なら聞こえていてもいいはずだ。それが、ここまで無視され続けるとは。もしや、あいつの身に何かあったんじゃ……?
と思った矢先、俺の視界が暗闇に閉ざされた。
「だーれだ?」
この、ムカつく言い方は。
「……一体どこに隠れてたんだ?」
「むー。そこは『志織でしょ!』とか言うところじゃないの?」
俺の瞼から手を離しながら、志織が漏らす。
「いいから、どこに隠れてたんだ?」
「……ずっと、侑人の後ろをつけてた」
むすりと顔を膨らませながら、彼女は答えた。なんだ、そういうことか……しかし呆れた。確かに後方を確認してなかった俺も悪いが、それってかなり、卑怯な手なんじゃないだろうか……反面、こういう根本的なところは変わってないんだな、と安心する。
「まあいいや」
そう言いながら俺は、志織の腕を後ろ手に掴む。
「え? なにこれ」
戸惑う志織に、俺はにやりと笑ってみせる。
「志織、つーかまーえた」
「侑人卑怯! やり直しを要求するぅ!」
「鬼ごっこはもうこりごりだ。仕返しなら別のでやってくれ」
言いくるめながら無理やり部屋に戻ったはいいが、さて次は何を仕掛けてくるやら。
「よし分かった。じゃあトランプだ!」
「二人でやっても面白くねえだろ」
「侑人、さっきから文句ばっかり」
志織の機嫌はどんどん悪くなる。
「チェスはどうだ? 俺、あんまできないけど」
「えー……あたし、頭つかうの嫌い」
相変わらず面倒くさい奴だ。よくこんなのと六年間も付き合えてたな。偉いぞ小学生の俺。
「んじゃあトランプでいいよ。何やる? ババ抜き?」
「うん!」
今度は嬉々として、机の棚からトランプを取り出す志織。まったく、何歳児の行動だよ……。
さてさて、かくして二人きりのトランプ大会が始まったわけだが。
「はい、俺の勝ち。これで五連勝だな」
「なんで侑人ばっかり勝つのさ!」
「いや、お前すぐ顔に出るし」
またもや志織の機嫌を損ねてしまった。なかなかうまく行かないものだ。というか二人でやるババ抜きなんて、どちらにジョーカーがあるかすぐ分かるというのに、志織は気付いてないのか? しかも顔色で場所まで分かるとか……表情筋の硬い俺よりはマシか。
「はぁぁ。もういいや。次は――」
「え。まだやるのか?」
こいつ、なんか昔より自分勝手になってないか? 以前はこう、もっと節度を弁えていたというか……可愛げがあった、のかも。
「志織お嬢様。ご所望の準備ができました」
ナイスなタイミングで、セナさんが部屋に入ってきた。女神の救済か。
「え、もうできたの? はやーい……」
志織は少々棒読みで応える。続けて、何か呟きながら手にしたトランプの束をしまうと、立ち上がるよう俺に言った。
「行きましょう、侑人」
「行くって、どこに」
訝しげに問い返すと、志織はにこやかに笑ってみせる。そして、とある一点を指差した。
「ほら、今何時?」
「何時、って……午後六時か」
「じゃあ、やることは決まってるじゃない」
まったく見当のつかないまま首を傾げると、志織は誇らしげに宣言した。
「夕飯よ。今夜はとっておきの物を用意させたから、期待してちょうだい」
先ほど鬼ごっこをした庭には、いつの間にか巨大なバーベキューセットが設置され、三人前とは思えない量の食材が山積みされていた。俺たちが遊んでいるうちにセナさんが用意したのだろう。志織が感嘆の息を漏らすのも納得の手早さだった。
「ひぇぇ……これイセエビとかロブスターとか、そういう類のやつだろ」
「まあね。うちの資産なら、このくらい簡単に調達できるわ」
まあそうだろうな、と思う。実際、志織の生まれた高倉家は由緒ある名門だそうで、現在も某大企業の経営に一枚噛んでいる裕福な一族らしい。そんな家系の令嬢に当たるこいつが、なぜ俺なんかとバカ騒ぎしていたのかは未だに謎だ。ちょうどいい機会だし訊いてみてもいいが、今やるのも無粋だし止めておくことにした。
「ま、食材の良し悪しに拘ってもしょうがないわ。まずは今日、侑人が来てくれたことに祝杯を上げましょう!」
「おいおい、大袈裟だなあ」
と言いつつも、悪い気はしない。さっきまでの我がままっぷりも嬉しさゆえ、と思えば存外愛おしいものだ。俺は目の前に置かれている紙コップに手を取った。
「んじゃ、乾杯」
「乾杯!」
食事の時間はあっという間に過ぎ去った。豪華な食材を嗜み、志織と思い出話で盛り上がり、時にはセナさんとも会話をした。その間、志織はふてくされたように横を向いていたが、すぐセナさんが話題を振ってくれたことで何とか切り抜けられた。未成年ゆえ酒は飲めなかったが、興奮が覚めることはない。立食形式ではあったが、足が疲れる感覚も生じず、終始笑顔のまま時が過ぎていった。
気付けばバーベキューの火は勢い衰え、食材置き場は更地となり、空は茜色を藍で染め上げていた。腕時計を見ると、午後の七時半を指していた。
「お嬢様。そろそろお片づけを致します」
「ああうん。セナよろしくね」
志織の言葉に頷き返しつつ、セナさんは屋敷の中へ入っていく。と思うや否や、何かの袋を携えて戻ってきた。
「お嬢様。これを」
「ああ、忘れてたわ……ありがとう、セナ」
受け取った志織は中身を確認しようともせず、袋を開ける。そしておもむろに一本を取り出すと、俺に手渡した。
「はい、侑人」
恐る恐る受け取ると、暗闇の中でも分かる、何か先端のひらひらした細い棒――正体はすぐに分かった。
「花火か」
「うん。セナもやりましょう」
そう言いながら志織はセナさんにも同じものを渡す。そして自分も手に取ると、
「これでみんな、おそろいだね。火はバーベキューの残りを使いましょう」
と、一人金網の方へ駆け出していった。
「あっ待て、おい……」
「言うことを聞いてくれませんね、志織お嬢様は」
ため息をつきながらセナさんが呟く。俺は激しく同意した。
「まったくですよ。小学生の頃は、もうちょっとまともだったんですが。なんで退化してるかなあ……」
「ふふっ。まったくです」
セナさんも笑うが、すぐに真面目な顔に戻る。
「でも、侑人様はご存じないでしょうから……」
「え、何を?」
俺の問いかけに、セナさんは答えなかった。
「それは、追々話すとしましょう」
それだけ残して、彼女もまたバーベキューセットの方へ歩いていった。
「なんだよ、一体」
半ば嗤いながら、どこか不安げに志織を見つめる自分がいた。
「綺麗だね」
かれこれ十分近く、花火をしている。棒切れの先端から噴き出す火花が、志織と俺、そしてセナさんの顔を等しく照らしだしている。
「ね、侑人覚えてる? 修学旅行の夜のこと」
「ん? ああ、もちろん」
言われて思い出した。そういえばあの日も、志織とこっそり花火をしたっけ。結局は教師に見つかって、一緒に怒られたけど、今じゃ良い思い出だ。
「あの時は侑人が花火やろう、って誘ってくれたんだよね」
「そうだったっけか? 全然覚えてないよ」
「まあ、昔の話だからね。でも、あたしは……」
そこで志織の言葉は途切れた。あまりに不自然な切り方で、ついあいつの方を見てしまった。
志織は、倒れていた。右手にまだ閃光を放つ花火を握りしめ、地面に横向けに臥していた。
先ほどまで瞳を輝かせていた瞼は固く閉じられている。息は上がり、時折苦しげに呻き声を上げる。とても、数秒前まで会話をしていた相手とは思えなかった。
「志織!」
「お嬢様ッ!」
俺もセナさんも急いで駆け寄る。細い腕の脈を取った後、セナさんが頼み込んできた。
「侑人様、どうか手をお貸しください」
「もちろん」
志織の右肩をセナさんが、左肩を俺が受け持ち、担ぎ上げる。とにかく、部屋に運び込まなければ。
放り投げた火の始末など今はどうでもいい。ただただ、志織の身だけが心配だった。それと同時に……もし志織が助からなかったら。そんな根拠のない不安が、俺の心を弄んでいた。
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