ヌエムシ
いつもと違う道を散歩しようと足を延ばしたら、広い河原に出た。
ここらに越して数カ月、近くに川があるのは知っていたが、駅や繁華な所とは逆方向だったし、当たり前だが用などもないので、この時初めて目にすることになったのだった。
川を越える気まではなし、ちょうど古いが汚れてはなさそうなベンチと自販機などもあったので、だるくなった足を休めることにした。
腰を下ろして缶コーヒーを飲みながら見上げると、開けた空はすっかり秋めいている。魚の群れの様な雲の下を、虫がすいすいと飛び交っていた。
目で追いながらすぐに「おや」と思った。
初めは長いシルエットから、普通にトンボだと思っていた。でもよく見ると、トンボにしては腹も、脚も、ここからでもなんとなくわかる程度に太い。ムシヒキアブのようなものかも知れない。でもそうすると体長がやや長いのではないか。しかし虫に詳しいわけではないからぱっと該当するものを思いつかない。
「なんだろな」
「ヌエムシですよ」
不意に背後からかすれた声がした。
驚いて振り向けば、杖をついた痩せた老人が、皺だらけの顔を笑顔でさらに皺を増やして立っていた。
地元の人だろう。ベンチに座りたいのかと体を少しずらすと、老人はいえいえと手を振って固辞した。
「ぬえ……むしっていうんですか? 初めて聞きました」
「ここでだけの呼び名だと思います。他で何というのかはわかりません。そもそもここ以外にいるのか」
だとすると、もしかして珍しい虫なのだろうか。
「ぬえとはどういう。鳥のですか?」
鵺鳥、トラツグミに因むのかと思い私がたずねると、老人は「ひょう」と、息が漏れるような掠れ声で笑った。
「そっちでなくて、ほら、顔が猿で、手足が虎で、体が狸で、尾っぽが蛇っていう」
「ああ、妖怪の鵺ですか。でもどういう由来で?」
「昔、この川べりにその鵺の死体が流れ着いたという言い伝えがありましてね」
「へえ、私は最近ここらに越してきたものですから初めて知りました」
「まあ地元の人間だって、昔のことに興味ない者は知ってるかどうか。それでそんな化物ですから、みんな気味悪がって埋めたり動かしたりすることができず放置されていたら、やがて死体は無数の虫に変じてここらを飛び交って悩ませたというんです。困った住人たちが祠を作って手厚く弔ってやったら、ようやく害もなくなったっていう。そういう話です」
「面白いですね。で、その鵺が変じた虫が、あれってことですか」
だからヌエムシか。他の場所でもカメムシをなんたらむしとかウンカをなんたらむしとか、伝説に因んで呼んでいた気がする。
しかし。
「それだけが理由じゃないんですがね」
そう言うと、また顔の皺を増やしてにぃっと笑った。
「え? 他にあるんですか?」
老人は飛び交う虫を見上げる。
「見ればわかります。でもこっからだとわかりませんわなあ」
そうして「ひょうひょう」と笑いながら立ち去っていった。
小さくなる老人の姿を眺めながら、なんとなく物寂しくなって、私も帰ろうかと腰を上げた。
そうしてふと足下に目をやって、気づいた。
ベンチの下に3、4センチほどの虫がひっくり返っていた。時折翅が震えるのでまだ生きてはいるようだ。
その長い腹のシルエット見て、すぐにあの虫だと思い至った。
「なるほど」
先程の老人の言葉に納得した。
――見ればわかる。
太くて長い腹にはまだら模様があり、たしかに蛇の尾ともいえる。
短い胸部は褐色の毛に覆われていて、まあ狸をあててもおかしくはない。
がっしりした六脚には縞模様が走り、これは確かに虎だ。
そして。
私はひっくり返った頭を確認しようと、回り込んで覗き込み……。
「うわっ」
「それ」を見て、私は思わず後ずさろうとして尻もちをついた。
それは確かに猿……ともいえなくもない。
だがより正確に言い表せば、それは「猿」というより、「人」だった。
人のような、ではない。その虫の体についているのはまさしく人のそれとしか見えなかった。
そのうえ。
皺だらけの痩せた顔。
サイズこそ違え、それはまったく先程出会った老人の頭、そのものだった。
そうしてぴくぴくと翅と肢を震わせながらヌエムシは「ひょおおおおお」と、かすれた声で、鳴いた。
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