無の標本
【無】(ム):一角四足の虫に似た生き物。体は二段三列の体節からなり、横軸に伸びる三本の骨が支える。生息域は広いとされるが目撃例は非常に少なく、そのことから古来より存在しないことを「無」と言う。
「入ってくれたまえ。この部屋だ」
彼に促されて、三方の壁が棚で覆われた部屋に通された。広さは六畳くらいだろうか。
「思ったより狭いだろ」
「あ、いや」
私は何と返していいかわからず言い淀んだ。
「言ったろ。量も質も、コレクションとはお世辞にも言えるようなものじゃないって。ライトな趣味程度なんだから」
手前の棚には小型の動物の骨格標本がいくつか。その奥には鉱物や化石。目につくところには、鱗翅目や甲虫目のドイツ箱が立てかけられていた。棚の最下段に積まれているのも昆虫標本だろう。
見たところ確かに珍しいものはなさそうだったし、数も多くない。
しかし彼の「コレクション」の本質はそんなところにはない。
「ご自分では標本をお作りにならないんですか?」
私は小さなゾウムシの構造色を眺めながら訊ねた。
「僕は不器用だからね。それにそこまで熱中しているわけじゃない。気に入った雑貨を買って並べているようなもんだよ」
彼は苦笑いしながら言った。謙遜と言うより、本当にそう思っているのだろう。前に会った時も、趣味人やコレクターたちと比べられるのは恥ずかしいと言っていた。
「でもあれだけは――」
「そうだね。あれだけは自分で標本にする他ないからね。唯一コレクションしていると言ってもいいかもしれない」
そう言って数歩奥に進んで立ち止まった。
そこから壁の棚は様相を一変する。最奥の壁の棚に至るまで、全ての段に大型のドイツ箱が平置きされていた。私が立っている場所からでは中身は見えない。
私は無意識に息を飲む。
「これが……これ全部が」
「うん」
彼は少し照れ臭そうにうなずいた。
「全部、僕が採集した“無”の標本だよ」
そう言われて私はどんな顔をしていたろう。これこそが私がここに訪れた目的だ。しかし心から“無”の標本の存在を信じ切っていたわけではなかった。しかもこの数は――私の想像を超えていた。疑念のほうが先に立ってしまう。
「信じられないのも無理はないよ。標本どころか目撃例もほとんどない、半ば空想上の存在だと思われているものだものね」
彼は私の心の内を見透かしたように自嘲気味に言った。
「い、いえ、そんな」
たしかに“無”の存在は古い記録に残るばかりで、現代では信憑性の薄い目撃談でしかその名を聞かない。故にその実在を疑う者は少なくなかった。
「でも、どこでこんなに」
「どこでもだよ。多くは近所で見つけたものさ。だからってこの辺りに特に多くいるってわけじゃない。記録にあるように、あらゆるところにいるよ。強いて言えば人がいるところの方がよく見つかるかな」
何てこともないように語る彼の言葉に私は戸惑った。
「ちょ、ちょっと待ってください。どこにでもいるようなものが、幻の存在になるわけがないじゃないですか。あなたはいったいどうやって“無”を見つけているんですか」
「一度見つけてしまえば、あとは自然と目につくようになるのだけれど……まあ、実際に見てもらったほうが話は早いか」
そうだ、質問している場合じゃない。ここには“無”の実物があるのだ。幻といわれた“無”の――。
「――え?」
おそるおそる標本箱を覗いた私は思わず声をあげた。
「これは……何ですか? 何かの冗談ですか」
標本箱は空だった。いや、正確に言えば、日付と場所が記されたラベルが標本針に刺されて並んでいた。だが、それだけだった。
「冗談でもないし、そういう作品というわけでもない」
彼は優しく微笑みながらも真顔だった。
「そこには確かに“無”がある。もちろん比喩的な意味ではなく」
怒るべきか笑うべきか、その言葉をどう受け止めたらいいのか困惑している私に、彼は穏やかな調子で続けた。
「見方があるんだ。そんなに難しいことじゃない」
「見方?」
「“無”を見るには“無いこと”に親しむことが必要だ。意味の無いこと、無駄なこと、役に立たないこと――そんなことを愛しめばいい。そうして見る。それだけだ。簡単だろう? “無”なんてものに興味を持つ君ならば」
「あ、あの、いや……」
見込んでくれているようだが、何を言っているのかわからない。
そんな私の戸惑いを察したのか、彼は少し考えあたと「そうだな……たとえばこれとかどうだろう」と昆虫標本の棚から、中型の標本箱を取り出してきた。
「これが何か?」
それは一見して、特に珍しくもない五匹の昆虫が収められた何の変哲もない標本箱だった。しかも雑多だ。クワガタ、タガメ、ガ、トンボ、コオロギ。分類も大きさも生息地もバラバラでまとまりがなく、何の意図もなく放り込んだように思える。
「名前はわかるかな」
「ギラファノコギリクワガタ、タガメは……タイワンタガメですかね。隣はメンガタスズメ。このトンボはメガネサナエかな、そしてエンマコオロギ……え?」
そこで私は気づいた。
名前が――しりとりになっている。
偶然だろうか。いや、適当に虫を五匹も並べてそんなことが起こるわけがない。これは意図的にそうしたのだ。だが……。
「なんで……?」
「それと、これ」
私の問いを無視して、彼はさらに手前の棚を指した。そこにはきめ細かな泡のような表面のイエロースミソナイトの小さな鉱物標本が、慎ましく置かれていた。なぜか白い小皿に乗っている。
何かを彷彿とさせるなと、ぼんやりと思っているところに、彼が囁いた。
「スミソナイトって、その名前の通りに酢味噌に似てるよね」
「は?」
まさか。この小皿は。
そこでようやく、その隣にある小瓶に入った透明標本の存在に気づいた。
ホタルイカの透明標本だった。
「……ま、まさか」
これだって偶然ではないだろう。わざと酢味噌に似たスミソナイトの隣に、酢味噌が合うホタルイカを配置しているのだ。
しょうもなさすぎる。そもそもいったい。
「なぜ!?」
失礼ながらこの家に頻繁に客が来るようには思えない。ましてや小さく地味な標本室に興味を抱く、私のような物好きはまずいないだろう。だとすれば、見栄えの悪いしりとり標本も、伝わりにくい見立て標本も、他人に見せるために作ったものではない。
私は彼をまじまじと見た。彼は小さくうなずいた。
それらはただ、彼一人で見て楽しむためだけに作られ、飾られているのだ。しょうもない小ネタを体現して。
「な、なんて無意味な……」
私は心の底から呆れた。
だが呆れるとと共に、わかる……とも思ってしまった。
無意味、無益な行為はそれゆえに楽しい。
「ああ……」
そして唐突に理解した。彼の言わんとしていることを。そうか。無の行為を愛しむように、ただ無を見ればよかったのか。そんなことだったのか。
途端、空の標本箱が“無”で満ち溢れた。
曲線を帯びた小さな角。腹の下に生える四つの短い足。縦横に分かれた格子状の体節。
無数の“無”がそこにあった。
黒くて丸みを帯びた“無”。太くどっしりとした大樹のような“無”。淡く掠れかけた“無”。シャープな輪郭を持った“無”。赤い“無”、青い“無”、光り輝く“無”――。
「これが……“無”!」
大きさも形も色もさまざまな“無”たちを目の当たりにして、私は呆然とした。
「必要なのは“無”を見出すこと、それだけだ。そうやって見れば、“無”は自然と目に入る。あとは観察するも、採集するも、標本にするも、好きにすればいい」
そんな彼の言葉には、かすかに同情の念が含まれていた。
帰り道、私は僅かな高揚感と共に、別の感情も抱いていた。きっと彼も抱いているだろう感情を。
「あれが“無”か」
私はため息をついた。
「マジで意味のない経験だったな……」
ブロック塀に張り付く小さな“無”を見ながら、虚しく笑った。
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