尾道はいつか来た道
「あれ? ここ知ってる」
借りてきた映画を二人で観ていた時、彼女が言った。
その映画は広島の尾道で撮られたものだったので、行ったことがあるのかと訊くと「おのみち?」と彼女は首を傾げた。京都より西には行ったことがないらしい。他の映画かテレビで観た景色なのかもしれない。ならいつか一緒に行ってみよう、そんな話をして盛り上がった。半年くらい前のことだ。
そうして僕は今、尾道の街を歩いている。一人旅になってしまったけれども。
ここへやってきたのは、なんとなくだ。感傷的な気持ちもなくはなかったけど「ただ来たくなったから来た」というのが本当に正直なところだった。
だから、彼女が「知っている」と言った場所を探すつもりもなかったし、そもそも短いシーンのロケ地なんか探しようもなかった。普通に名所に加えて有名なロケ地を巡って、古い商店街や路地を歩いた。
そんな平凡な散策の途中、山の斜面を真っすぐに走るある坂を下っていた時。妙な既視感に襲われた。最初はそれこそ映画やテレビで見たことがあるのかもしれないと歩きながら記憶を探っていたが、通り過ぎかけた横道をふと覗いて、困惑した。
ここには来たことがある。
そんな確信が湧きおこった。この街へは初めて来たのに。
得体のしれない強い既視感と、好奇心にかられて、僕はふらふらとその道に入り込んだ。
その細い道は、基本的には斜面を垂直に走る平坦な道だったが、時折起伏があり、またぐねぐねと蛇のように曲がりくねって、あまり先を見通せない。山側も海側も民家か壁か垣根が続いて、景色を楽しむこともできない。人気もなく陰鬱として、とても映画にも観光地を紹介する番組にも出てくるような場所には思えないのだが、僕はここを知っているのだった。
しばらく歩いていると、前を行く人の姿を見止めた。初めてこの道で遭遇した通行人に、僕は息をのんだ。
その後ろ姿が、とても彼女に似ていたからだ。
そんなことなんてあるだろうか。きっと他人の空似だろうし、単に僕の中に残る未練や後悔が、そう思うわせているだけかもしれない。それでも、僕にはその背中が彼女に見えてしかたがなかった。
とにかく顔を確かめたい。僕は足を速めた。万が一彼女だったとして、なんて声をかければいいのか思いつかなかったけれど。
そんなに離れてはいないはずなのに、彼女に似た背中は頻繁に曲がる道の先に消えたり現れたりしながらなかなか距離が縮まらない。そういえば、彼女は歩くのが速かったっけ。一緒に歩いていても油断すると僕の方がおいていかれていたりしたっけ。でも大丈夫、この道はよく知っている。いずれ追いつく。
彼女の背中を見失い、また見つける度に、彼女との思い出が一つずつ蘇っていく。
付き合ってから最初に迎えた彼女の誕生日、予約した店に行くためにこの石畳を歩いた。しばらく連絡が取れなくなって、不安に思いながら彼女の住むマンションに続くこの緩い坂を上った。クリスマスはイルミネーションを見るためにこの急な石段を手をつないで降りた。あの曲がり角、埃っぽい砂利道、竹林が空を覆う暗い小道、どれも二人で歩いた――。
思い出す毎に少しずつ背中が近づいて、やがて僕の胸が思い出に満たされた頃、後ろ姿はもう声も手も届く距離にあった。
反射的に手を伸ばす。そうして彼女の肩に触れかけた、その時。あることに気づいて、慌てて手を引っ込めた。
彼女とはどう出会ったのだっけ。そうして、彼女とはどう別れたんだっけ。
くっきりと蘇る思い出の中で、その二つだけがどうしても思い出せないのだ。
ぽっかり空いた思い出の空白に戸惑っていると、海側の建物の並びが途切れ、澄んだ空と大小の島々を浮かべたブルーグレーの瀬戸内の海が目の前に広がった。
僕の知らない空と海だった。
僕は少し足を速めて、彼女を追い抜いた。そうして道を探すようなそぶりで、振り返ってみた。
全く知らない人だった。その買い物帰りらしき中年女性は、山側の低いブロック塀に挟まれた門を開け、リフォームしたばかりと思しきクリーム色の壁の一軒家に入っていった。
僕は首を傾げた。そもそも、誰に似ていると思っていたのだっけ。
すっと恋人がいないどころか自分が知っている女性は限られるのだが。
それにしてもここはどこなんだろう。映画をきっかけにしてこの街に憧れて、ようやく旅行に来れたのに、道に迷ってしまうなんて。
このまま進んでもさらに迷ってしまいそうだ。来た道を戻ろう。そう思いながらふと見上げると、上へと続く細い石段があった。
この石段には見覚えがある。
そして、その石段を上っていく、一人の女性の姿が見えた。その背中は、彼女によく似ていた。
僕はその背に引かれるようにして、石段に足をかけた。
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