リモートワーク

 Slack、ZOOM、Teams、WeChat、Line、そして普通にメール――。使うアプリがずいぶん増えた。

 全てのコミュニケーションはオンライン。データはクラウドに上げて共有。会社からおよそ17km離れた自宅から、社内、取引先と繋がって、粛々と作業を行う。もう手慣れたものだ。


 避けがたき事態によって、通勤自粛となり、致し方なく全社的に始められた在宅勤務。初めはどうなることかと思われたが、こと私に限って言えば職務との相性と、体制を整える試行錯誤の成果が実り、その週のうちにすっかり馴染んでしまった。

 いや、馴染みすぎてしまった、と言うべきか。ある面では以前よりも高いパフォーマンスを見せる程だった。

 その結果――。

「続行……というと、このままリモートワークを続けると?」

「必要がなければ、という条件付きだけど。対面の必要な打ち合わせはあるし、大きな会議はオンラインでは済ませられない。でも、そうでなければわざわざ出社しなくてもいいってことだよ。キミもその方がいいだろ? 今の方が調子がいいみたいだし」

「はあ、まあ……。問題は無いですけど」

「寂しければ来てもいいからね。デスクはあるから大丈夫だよ」

「はは、了解しました」

 ということで通勤自粛が解除されてからも、選択的に在宅勤務をすることが可能になった。

 まあ、解除となったところで状況が急変したというわけでもないし、リスクを減らせるならそれにこしたことはない。

 会社もそういう判断なのだろう。直接連絡してきた課長からもなんとなく、できるなら出社するなというニュアンスが感じ取れた。ならば、遠慮なく在宅生活を続けさせてもらおう。

 長短はあるが、まずこの生活、通勤がないということが得がたい魅力だ。性格にも合っている。人と直接会わないのもストレスにはならない。肝心な成果も、我ながら上々であると思う。

 しかし、以前より楽になったかといえば、そんなことはなかった。出す結果は以前よりもよくなったのは間違いないのだが、けして効率がよくなったわけではないのだ。

 実際は単純に、際限なくだらだらと休みなく仕事をし続けていた故の結果だった。

 ずっと家にいる――そのことが生活と仕事の区切りをほぼ失くしてしまった。

 会社に行っていた時は、通勤をする、昼休憩を取る、同僚や上司と雑談をする、そして退勤する。そんな調子で、作業は逐一分割され、「ここから仕事をする」「ここからは仕事をしない」の線引きが明瞭だった。

 それが、在宅勤務となってからは、朝起きてPCを立ち上げた時から、仕事と私生活が混在することになってしまった。だらしのない格好で仕事することもできるし、お菓子を食べ続けながら、SNSを開き続けながら仕事をしても何も言われることがない。しかしそれは、起きている間は何をしていても仕事が平行して存在することの裏返しだった……。

 結果、いつまでも仕事をしている――ということになった。

 もちろんわかっている、出社時間に合わせて仕事を始めて、退社時間できっかり切り上げればよいだけだ。頭ではわかっている。私が担当しているものは一つの作業のスパンが長く、ボリュームも大きく、大きなまとまりを片付けない限り仕事自体の区切りがほとんどないのだけれど、こういうものは納期から逆算して、自分で一日の作業量を決めて、それに達したらやめればよい。それもわかっている。

 会社に行っている時はそうしていた。

 しかし実のところ、その時もきっちりスケジュールを組んでいたわけではなかった。出社したらなんとなく仕事を始めて、昼休みに周りが立ち上がるのに合わせてなんとなく中断し、昼休みが終われば再開し、退社時刻になれば周りが帰る空気になったところで適当に切り上げていた、というのが本当のところだ。周りに合わせて切り替えていただけだった。それで納期間近になって「こりゃ遅れそうだぞ」となったら手を早めるなり、残業でしのぎ、「こりゃ早めに上がりそうだぞ」となったら、そのまま納期前に上げてしまうか、手を緩めるかしていた。それだけだった。

 こうして一人で仕事することになったことで、そんな他人任せの基準を失うこととなった。こうなるまで自分はそこそこ進行の要領のいい人間だと思っていたのに、こんなにもスケジューリングできない人間だったとは……。

 スケジューリングできない結果、止め時を失って、布団に入るまで一日中仕事をすることになる。そりゃ仕事は早く進むはずだ。

 そして早く終われば、それじゃあと別の仕事が回ってくる。それをまた黙々と続けることになる。

 エンドレスだ。

 これで仕事が楽しければいいのだが、正直仕事なんかやらなくていいならしたくないタイプだ。好きじゃないから、早く手放さないと落ち着かないからやってしまうのだ。手放したらまた別の仕事が来るのに。

 ――そうして。その後も出社せざるえない状況が訪れなかったため、そんな生活がだらだらと続いて、2か月ほどが経った時。

 在宅勤務中で最大のボリュームの案件がやってきた。そして納期がわりときついときた。

 文句の一つも言いたいが、四の五の言っている暇はない。一番の問題は、とにかく人に見せられる状態にするまで、一気に私一人で進めないとならないというところだったからだ。

「こりゃ3日はかかるか」

 上司や仲間に、急ぎのもの以外は連絡をよこさないように通達し、大特急で進めるほかなかった。

 そうしてなんとか形にしたところで、うっかり4日過ぎてしまった。

「何も言ってこなかったけど、こうなること見越されてた?」

 急かされなかったとはいえ急ぎは急ぎだ。ひとまずたたき台として見てもらおうと送ったものの、朝の5時。

「返事はすぐには来ないか。寝る……いやその前にコンビニでも行くか」

 実に4日振りにカーテンを開けて、窓の外を眺めた。

「は?」

 私は一瞬、働きすぎて頭か目がどうにかなったのかと思った。

 空が紫だった。

 赤紫と青紫のまだらが波打つ空に、太陽も雲も見当たらない。

 景色は黄味がかり、遠くは緑に霞んでいた。

「……なんだこりゃ」

 公害か異常気象か何かと思い、慌ててSNSで確認する。

 しかしあろうことか、全てのアカウントが2日前から止まっていた。

 止まるまでの数時間の書き込みはどれも意味不明のことばかりだ。まるで文章になっていない。そして無数の紫の空の画像がアップされていた。

「??? ニュースは!?」

 テレビは持っていないので、ネットを開いてみる。

「ああ……」

 ニュースサイトの記事もまた、2日前までのものしかなかった。

 最新といえるもののいくつかは、世界の各地に出現した巨大な黒い穴、都市を覆う濃緑色の霧、消えていく人々などの報だった。そして最終的にここでもまた、意味不明の文字列で埋められて終わっている。

 スマホを手に取り、しばらく考えて、110番してみた。

 電波は来ているのに、コール音すら鳴らない。

「いったいぜんたい何が起こってるんだよ……」

 マスクを付けて、思い切って外へ出てみることにした。玄関を開けて勇気を振り絞って吸った黄色い空気からは、異臭は感じられない。体に異変もないようだ。

 街には人の気配がなかった。早朝とはいえ、全く人が見当たらないのは異常だ。そして恐ろしい程に無音。

 まず最寄りのコンビニを見に行き、駅前にも出てみるが、誰にも行き会わない。

「マジでどうなってんだ」

 駅の無人の改札をうかがったところで、黄色い空気を吸い続けることに不安があったので、いったん家に帰ることにした。

 帰り道、通りがかる家々のチャイムを鳴らして回った。連打した。どの家も何も反応が無かった。押し入ることも考えたが、そこまでせずとも誰もいないことは確信できた。

 家に帰り着いて、へたり込む。

 端的に言って、世界は終わってしまったようだった。

「なんてこった。でも電気もネットも繋がってるのはなんでだ? ……すぐ止まるかもしれないけど」

 念のため、SNSや掲示板に書き込んでみる。

「反応はないか……」

 一通り思いつくことをやって、状況を受け入れてからふつふつと湧き起ってきたのは、憤りだった。

「俺は世界が終ってから2日も無駄に働いていたのか!」

 ここ数日の過酷な労働が全てただ働きだったことに無性に腹が立った。

「そもそも今月の給料ナシか!」

 そう叫んでみたら、言いようのない解放感に襲われた。

「でももう働かなくてもいいんだな……」

 そんなことを本気で思った自分がおかしくなって、ひとしきり大笑いした後、ひとまずゆっくり寝ることにした。


 朝から晩を経て、さらに次の朝まで寝倒して、ようやく布団から這い出て起きても、やはり世界は終わったままだった。

「夢じゃなかったか……」

 途方に暮れてもよかったが、案外そんな気分にはならなかった。

「さてどうしよう」

 まずは生活の確保が最優先だ。引きこもり作業用の備蓄はまだあるが、5日も持つ物ではない。

 しかし、そうひっ迫した問題もなかった。

 生鮮食品はダメになっているが、保存のきく食料も水も、街には大量に残っている。そしてそれを消費する人類は今のところ私一人。当面、深刻になることはない。

 電気はいつまで持つのかわからないが、止まるまでに発電機を見つけてくれば身の回りのことなら解決できそうだ。

 知りたいことはたくさんある。

 世界に何が起こったのか、生存者は私だけなのか、そもそも死体さえもいないのはなぜなのか、危険はないのか等々……。

「動くか」

 いずれにせよ、ずっとこの家に居続けるわけにもいかない。遠出をして探索をするほかない。

「こりゃ冒険だな」

 いつになく高揚感を覚えた。自分一人しかいないが、自分で全てを決められる。今の私はしがらみのまたくない完全に自由な存在だった。こんな解放感はいつぶりだろう。――と、その時。

 いきなりスマホが鳴った。

「え? メール!?」

 慌てて開いて、私は愕然となった。

 会社の上司からだった。

 世界が終わる前のものが遅れて届いたというわけでもなかった。なぜなら昨日私が送ったものに対する細かい修正指示だったからだ。

「は?」

 驚きながら、いったいどういうことなのかと送り返そうとする。が、返信が送れない。

 しばらくして、再び上司からメールが届く。今の状況がまるでわかってないかのように、追加の指示と、急いで直して戻せと催促のメッセージが。彼は念押しのメールを送る癖がある。

「はああ?」

 わけがわからない。わからないが、社畜の性で、反射的に動いてPCを立ち上げてすみやかに修正作業を行ってしまう。

 そして、修正データとともに事態の説明を請うメッセージを添付してメールで送り、同時にクラウドサーバにも上げる。無意識にそこまでやってから気づいたが、これはどちらも送れた。

 しばらく待ってみるが、返事は来そうになかった。念のため携帯にかけてみるが、やはり繋がらない。

「――会社に行ってみるしかないな」

 もしかしたら、会社のある都心では人が残っていて復興が始まっているということも考えられる。それで普通に仕事を進めてくるというのもおかしな話だが、確かめる価値はある。どのみち遠出をする予定ではあったのだ。目的地ができたと思えばいい。

 駐輪場から久しぶりに自転車を引っ張り出して、緑に霞む街を行く。どこまで行っても、無人で無音だった。

 山手線内に入っても、紫と緑の終末世界が続く。私は期待をしなくなった。

 そうして辿り着いた何か月かぶりの我が社は、かつてと変わらない装いで、オフィス街に慎ましく聳え立っていた。

 しかし形こそ見知った会社だが、懐かしいとは言い難いよそよそしい気分になった。

 窓という窓に紫の空を映し、上部を黄色に染める建物に違和感しか覚えない。2日前まで200人を超す社員が行き交っていた社内は、虚ろな穴のように静まり返っている。これは会社の脱け殻だった。

「やはり人がいるようには見えないが……」

 だとするならあのメールはなんだったのか。人がいないとするならば、ここに何がいるというのだ。

 中は暗かったが、通用口はまるで私を迎えるように開きっぱなしだった。

 怖気る心を奮い立たせ、暗い社内に入っていく。無人の受付を抜け、奥へと進む。エレベーターは機能しているようだった。それなら灯りもつけられるだろう。しかしなんとなく電気をつける気にもならず、階段で自分の部署のあるフロアをめざした。

 ついつい息を殺し、忍び足になる。

 部屋の前までくると一旦立ち止まり、耳をそばだててみる。無論、なんの音もしない。自分の動悸と息遣いが聞こえる程だった。覚悟を決めて、扉を開く。

「……全然変わってないなあ」

 自分が最後に出社した状態とほとんど変化のない室内の様子に拍子抜けとなった。荒れた様子も無い。自分の机も、長く空けっぱなしだったのにもかかわらず、いくつかの文房具が片付けられている以外は以前と同じままだ。ずっとリモートで繋げていたPCには、自分が貼った出前の電話番号が書かれたメモが残っていた。

「そうか――リモートか」

 メールを送ってきた上司のデスクの前に立つ。今朝、このPCからメールが送られてきた。もしリモートで動かされてたとしても、これを確認すればわかる。

 恐る恐るPCに触れようとした途端、スマホが鳴ってひっくり返りそうになった。

「え?」

 届いたメールの送り主を見て、慌ててPCを立ち上げる。

 三度、上司からだった。

 OSの立ち上がりにやきもきし、メーラーの起動の遅さに悪態をつく。その間にメールの内容を確認する。修正版のOKとともに今後のスケジュールに関することだった。私からの事態を問うメッセージには何も触れていない。

「はあ? マジでどういうことなんだよ」

 開いたメーラーを眺めて、困惑した。

 受信も送信も、3日前で止まっていた。ここから送られてきたはず3通のメールは送信欄に無く、私がここへ送ったメールも受信欄に存在しなかった。

 そしてまた、スマホが鳴った。見なくてもわかる。無視して自分の席に向かう。

 私のPCも、3日前から私の作業は更新されていなかった。

 私は、どこのPCにリモートアクセスしていたというのだ――。

 それからしばらくのあいだ、私は久しぶりの自分の席に座り込んで呆然としていた。だいぶ経ってから椅子の高さが違うことに気づき、古いものに変えられているとわかったのは、ようやく立ち上がった時だった。



 私がたった一人残された世界は、少しずつ変質し、元の世界と乖離していった。

 建物は結晶化し、木々は赤黒く脈打ち出した。紫だった空は、今や奇怪な色の層をなす天幕になった。

 ここはもはや「終わった世界」ではなく、全く別の何かだった。

 私の記憶の中の「元の世界」ははたして本当にそうだったか、正直自信がない。

 そんな変わり果てた世界で。

<資料のまとめ、明日までによろしく>

<Mさんからの指示で調整出たから、リスケジュールします>

<シート最新のものになりました。至急確認よろ>

 どういうわけか。

 仕事の連絡だけは来続けたのだった。

 どこからから。おそらくは、元の姿であり続ける私のいない世界から。

「ふざけんな」

 私は、ガラス粒のような砂が敷き詰められた異界の我が町を闊歩する。大小の瘤を生やす元駅前のテナントビルを見上げる。螺旋状の突起が絡まる街路樹の下をくぐる。

 仕事をする義理はもうない。

 私はこの世界のたった一人の王なのだ。

 灰色の川を渡り、球体の森を抜ける。

 何者も私に命じることはできない。この世界の全てが私のものだ。

 見返りさえない、つまらない仕事に今さら身を削ってどうする?

 列をなす石柱が放つ青い光を浴びながら、私は進む。私だけが進む。

 しだいに肩が落ち、背が丸まる。

 スマホが鳴った。

<オンラインミーティングの開始、早まります。13:00から>

「え? あと30分じゃん」

 私は急ぎ足で家と帰る。

 わかっている。もはや仕事をする意味なんかない。

 しかし元の世界と繋がるのは、全て仕事に関するものだけだった。

 仕事に絡むものだけがこの世界に届き、仕事に絡むものだけが向こうの世界に送られる。メールもSlackも、ZOOMも、Lineも。

 私はこの世界のたった一人の王だ。何にも束縛されない。最も自由な王だ。

 しかしここの街を出ることさえできないまま、私は今日もまた、机に向かう。

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