薄片の向こう側(短編置き場)
殻部
薄片の向こう側
テーブルに肘をついて、正面に見える窓を眺めている。何年も住んだ自分の部屋だというのに、窓の外の景色がよそよそしく感じて、なんだか心もとない気持ちになっていく。
ややあって、その理由が、この位置から窓を眺めたことがなかったからだと気付いた。ここは自分の定位置だったが、テーブルにつく時は朝食にせよ夕食にせよ、たいてい差し向いに弟が座っていて、窓が見ることがなかったのだ。
今は食事時でもなく、コーヒーひとつさえテーブルにはない。そして弟も、いない。
弟がいる時でなければほとんど座ることのないその場所で、見慣れない景色をただぼんやりと眺めることしか今のわたしにはできなかった。
わたしと、進学で上京してきた弟がこの部屋で暮らして三年と少し。一緒に住もうと提案したのは、就職で先にこちらに来ていたわたしからだった。
二人で住むほうが、弟へ仕送りする家の負担も減るし、合理的な気がしたからだ。
ダイニングテーブルはその時買ったものだった。弟が二人で住むなら必要だろうと言って、弟が選び、わたしが出費した。
何事にもセンスと決断力のないわたしにとって、短い時間で的確に判断を下す弟がそばにいるとなにかと好都合だというのも、同居を決めた大きな理由のひとつだった。
弟とテーブル、そしてそのほかいくつかの弟が持ち込んだモノやコトは、初めからそこにあったような顔をして、来た時から部屋に馴染んだ。
そして今、それら弟に紐づいていたモノたちはことごとく、窓の景色と同じようによそよそしい顔をわたしに向けているようだった。主を失って浮足立っているようにも思えた。それはつまりわたしの心がそうだということにほかならないけれど。
弟はモノや判断力だけでなく、それまでこの部屋にはなかった熱量も持ち込んできた。
わたしと違って、弟は器用な男で、絵もうまく、写真もやり、また文章も達者だった。ただ器用なだけではなく、多彩な趣味に活かされていた。彼は活動的で、いつもなにかに熱中していて、そんなところもわたしとまったく違っていた。
そんな趣味のひとつ、というか、無数の趣味たちの集大成として、本づくりがあった。彼は実家にいた時から、よく手製の本――同人誌を作っては頻繁に即売会で売っていた。
わたしは、弟の活動や作ったものに興味がなかったので、話に聞いていただけだったが、変な本ばかり作っていたようだった。
路上の定点観察記録。流木の写真集。宝石と魚を混成した生き物の画集。マンションと野生動物をキーワードにした連作短編小説等々――。
どういうものなのか想像もつかない。
当然というか、彼によればどれもほとんど売れなかったというので、部屋を探せば見つけられるだろが、今になってもそんな気にはなれなかった。
見たところで、今さら彼のなにがしかを理解できるとも思えない。
どこまでいってもわたしと弟は、重なるところのない全く別の人間だ。
彼は初めから向こう側に立ち、わたしは対岸の彼を遠くに見ながらぼんやりと同じところに立ち尽くしている。ずっとそうだった。
カーテンがわずかに揺れた。窓、開けていたんだっけ。
そうして、本当に。
彼は向こう側へ行ってしまった。たぶん。
何色ともつかない、薄片の向こう側へ。
それは、ある時の即売会で代金の代わりにもらったものだと言っていた。ごく自然なことのように差し出され、弟も当たり前のように受け取ったという。差し出した人がどんな人物かなぜだかまったくおぼえていないと、なぜだか嬉しそうに言っていた。
それはちょうど五百円硬貨ほどの大きさで、円というには歪だが、おおよそ丸い、鉱石の薄いかけらのようなものだった。
周囲は青く粗い砂粒のようなもので縁取られていて、傾けるとキラキラ光る。一方表面は磨かれていて、黒褐色とベージュのグラデーションの地に、数本の青緑色の帯が走る。帯模様のところはかすかに透けていて、目を凝らすと向こう側が覗ける。しかし不思議なことにそれは片面のみで、その裏側は同じ組成の同じ模様であるのに、まったく透けてないのだった。
弟はよくそれをかざして眺めていた。このテーブルに二人で向かい合っている時も。
親指と中指で縁をつまんで、覗き込みながらくるくる回す。透ける側がこちらに向くたびに弟の瞳が薄片越しに見えた。ずっと遠い場所を見つめているような瞳が。
あまりにもよくそうしていたものだから、ある時何が面白いんだと呆れながら訊いた。
時折見えるんだ。
弟はそう答えた。
透けて見える景色に重なるように、別の何かが。それが面白いんだ。
どこか上の空で、そう言っていた。
別の何かとはなんなんだとも訊いた気がするが、なんと答えたのか覚えていない。
でも今は確信している。たぶんそれは、向こう側の景色だったのだ。
一見この世界で器用に立ち回り、人生を謳歌していたように見えた弟が焦がれていただろう、本来彼がいるべき世界の。
弟はいなくなった。誰にも、何も言い残すこともなく。何も持たず、彼に紐づくすべてのモノもコトも残して。
携帯電話も、スニーカーも、釣竿も、テニスラケットも、カメラも、スケッチブックも、少なくない蔵書も、売れ残った同人誌も、友人たちも、両親も、わたしも。
もちろん、このダイニングテーブルも、その上に置かれていた奇妙な薄片も。
わたしは薄片を手に取り、覗き込んでみる。さまざまに向きを変えて、くるくると回して。
もしかしてわたしにも向こう側の景色が見えやしないかと、そしてそこに一人立つ弟の姿がないかと期待して。
しかし、薄片を通して見えるのは、見慣れた部屋と、その先の見慣れない窓の景色ばかりだ。
それでも。この先幾度覗こうとも見ることはかなわないだろうと確信しながら、こちら側に取り残されたわたしは、薄片を覗き続ける。
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