この線はフィラメント

桂 叶野

この線はフィラメント

 窓際のテーブルで文庫本に目を落とす“母”は美しい人だった。

 すっと伸びた背を這う艶やかな黒髪も、ページをめくる神経質そうな指先も、伏せた目蓋を横切る幅広の二重も、赤く熟れた小さな唇も、母の持ち合わせるその全ては、決して私が持ち合わせられなかった全てだった。

「お母さん」

 私の声が母の耳に触れ、彼女はゆっくりと顔を上げる。

「……千佳?」

 母の両眼が私のそれを的確に捉える。ゆっくりと、小さく頷いてみせる。

 ただそれだけのことで、母は香り立つ白檀のように完璧な笑みを私へと向けた。


   *


 母に促されるまま頼んだバナナジュースは、お世辞にもおいしいとは言えなかった。中途半端にしかミキサーにかけられなかったバナナは常温だったらしく、安物の加工乳と混ぜ合わせているせいもあり、酸化したサラダ油のような臭いがする。そのうえ、その重ったるい悪臭を誤魔化すために入れられたのはコーヒー用のポーションクリームなのだから、かえって性質が悪い。申し訳程度に添加された三温糖の甘みも、ただただ悪目立ちするばかりで、せめて上白糖を使えばいいのに、と文句の一つもこぼしたくなる。

 しかし、この悪い冗談みたいな味のするバナナジュースを、冗談みたいに美しい女性である母は、私へそのやわらかな笑顔を見せつけながら「おいしいねえ」と褒めちぎっていた。私も「そうだねえ」と返す。


「でも本当に、また千佳と会えるって思ってなかったな……ねえ千佳、お母さんのせいで辛い思いしてきたこと、一度や二度じゃないんでしょう? 今更謝っても仕方ないってわかっているけれど、でも……お母さんそれでもね」

「やだ、やめてよ。そういう言葉がほしいから会うって決めたんじゃないよ? もしかしてお母さん、千佳がお母さんのこと怨んでると思ってる? そんなわけないじゃん。だって千佳はずっとお母さんは死んじゃったと思ってたんだから。だから怨むも何もなかったよ。それに、あのねお母さん。千佳だってもう二十六歳なんだよ。もう大人なの。だから、お母さんのこと怨む時間があるならむしろ千佳はお母さんのことどんどん知って、どんどん好きになっていきたい。十九歳のときおじいちゃんが死んじゃって、ああそうか、ついに千佳はもう独りぼっちなんだって思って、そう気づいて……それからはずっとがむしゃらに勉強して、お仕事して、必死に頑張ってきた。頑張ってきたんだよ。でも、なんていうか、やっぱり千佳さ、独りは寂しかったんだ……だから、だからね。千佳はお母さんに会えたこと、本当に、心から嬉しいって思ってるし、千佳は、お母さんにもそう思ってほしいなあって……ねえ、そういうのって、いけないことかな?」

 生ゴミのような舌触りのバナナジュースをストローで一気に吸い上げる。

「本当おいしい。お母さんが好きなもの、これから千佳も好きになっていくんだろうね」

 母が両手で目頭を押さえる。

「そうよ。だって、千佳は、お母さんの子どもだもの。世界一大切な、お母さんの、たった一人の娘なんだもの」

 ぐず、と鼻をすすり上げながら彼女はそう言った。



 昼間とはいえ晩秋の風は冷たかった。母が胸の前で両手をさすっている。大丈夫? と声をかければ母は、

「手袋、忘れてきちゃったの」

 と恥ずかしそうに笑う。斜向かいには老舗のデパートが見えていた。私はそれを指さし、

「買っていこうよ。千佳、プレゼントする」

 と誘う。母は目を丸くして、

「駄目よ。確かに今はないけれど、おうちにはあるんだもの。お金は大事にしなくちゃ」

 そうして彼女は自らのコートのポケットに両手を入れた。

「それに、千佳の気持ちだけでお母さんは充分ぽかぽかになりました。ふふ、ありがとう」

 母が笑っている。つられて私も笑う。


 角を二回曲がり、裏路地に入る。頭のネジでも外れているかのような店名ばかりが並ぶ、品のない看板の下を歩く美しい母は、しかし奇妙なほどそこに馴染んでいた。

「ここの二階なの。おいしいんだから」

 葡萄酒色のマットが敷かれた階段はあまりにも狭く、暗く、煙草の臭いがはっきりと染みついていて思わず咳込んでしまう。

「やだ千佳、風邪? 大丈夫? やっぱりもっと近場にするべきだったかしら」

「大丈夫、大丈夫。ちょっと唾飲んだら変なところ入っちゃったよ。えへへ」


 階段の奥には新緑色のドアがあった。母はそこに吊るされた【Claused】のプレートを気にする様子もなくノブをひねる。錆びついた蝶番が甲高い音を立て、同時に私の理性が「入ってはいけない」と言う。私はそれを無視する。

 母は無駄のない動きで四人掛けのテーブル席に座り、私も母の向かいに腰掛ける。上着と鞄を隣の椅子に置いたタイミングで、店主らしき老人が水を持ってきた。ひどくうねる白髪を首の後ろでラフにまとめたその男は、母に向かって、

「へえー、この子?」

 と笑った。その瞬間、私は彼の歯が複数本足りないことを確認する。それに、もしかすると過去にはひどく殴られた経験でもあるのかもしれない、鼻先も明後日の方向を向いていた。

「そう、千佳。私なんかより、うーんとかわいらしい子でしょう?」

「ああ、そうだなあ。お前とは似ても似つかないよ。まるで品種から違うんじゃねえのかってくらいだわ」

 男は品定めするかの如く私の顔をじろじろと見る。私が小さく頭を下げ「母がお世話になっています」というと、

「わはは! 本当、品種からして違うな。何もかもが違うよ。さすがに無理がある」

 そうして男は「まあ、いつもと同じでいいんだろ?」と言いながらカウンターの奥へと引っ込んでいった。

「千佳ごめんね。お料理はおいしいんだけど、ちょっとなんていうか、変な人なのよね……でも悪い人じゃないから。嫌いにならないであげて」

 申し訳なさそうに母が眉を顰める。

「すっごく面白い人だと思う。千佳とも仲良くしてくれるといいな」

 そう言いながら、私は調理場の男に目をやる。男が炊飯器から硬そうな米を適当に装って、レトルトカレーをかけ、ラップもせず電子レンジに放り込んでいるところが見えた。



 出てきたカレーライスは過熱ムラがひどく、キューブ状のじゃが芋の周りには脂が浮いていた。米がほんのりと黄色い。いつ炊いたものだろう。

「ねえ千佳。お母さんね、千佳がこんなに立派な女性になってくれたこと、本当に嬉しい」

 安全かどうかも怪しいカレーをスプーンで軽く混ぜながら母がいった。私はほんの少しだけ時間を置き、それから、

「そんなことないよ。千佳なんて、全然。仕事でもさ、重宝がられているわけじゃなくて、こう……千佳には利用価値があるだけなんだと思う。黙って、卒なくこなすしかできない。自分で考えて、自分で動いて、自分の価値を上げていくなんて、千佳にはできない」

「何言ってるの千佳、そんなことないよ。こんなに若くて、しかも女の子なのに……年収、一千万円もあるんでしょう? それってね、本当にすごいことなのよ? 普通に頑張る程度の努力で叶うことじゃないの」

「違う違う、一千万なんて大袈裟だよ。九百五十万すら切ってるんだから。千佳は年収一千万円なんですー、なんて話したら、千佳いろんな人に笑われちゃう」

「笑わないよ。笑わない。千佳は、もっと自信を持っていいの。それだけの価値が、千佳にはあるの。ね?」

 母の言葉を受け、咀嚼した私は小さく笑ってみせる。母も嬉しそうに笑い、生ぬるいカレーをとっておきのご馳走みたいに食べる。

「ねえお母さん。お母さんは? お母さんは、どういうふうに暮らしてる? お金に困ってたりしない?」

「え?」

「電話で言っていたから。裕福ではないけれどって。あのさ……お母さん、貯金とかちゃんとある? ご飯、満足に食べられてる? お洋服は? 家具で足りないものとかない? もうじき冬がくるよ、暖房は故障してない?」

 母がスプーンを置く。

「そういうのって、千佳が気にすることじゃないわ」

「なんで? 千佳に心配されるのは、迷惑?」

 母が首を横に振る。そして、

「捨てた娘にお金をせびるようになっちゃ、おしまいだもの」

 苦しそうに笑った。

 私は鞄から封筒を取り出し、笑顔でテーブルに置く。それを母の前まで押しやる。これは? と母が言う。私ははっきりとした声で独り言を呟く。

「あーあ、千佳ってお金はそこそこ持っているのに、使い道がなーんにもないなあ。通帳のゼロが増えても、寂しい気持ちでいっぱいだよなあ。どっかに千佳のお金をもらってくれる人、いないのかなあ。もしももらってくれたら千佳はうーんと幸せな気持ちになって、もっとお仕事頑張ろう! って思えるのになあ。そうだなあ、たとえば、お母さんみたいな人とか……そういう人にもらってほしいけど、でもどうしたらいいのかなあ。この二十万円、どうしたらいいんだろう? わかんないなあ。あ、そうだ! ここに捨ててっちゃおうかな?」

 深呼吸を一度、それから鞄とコートを抱えて席を立つ。

 母が、千佳、と私を呼んだ。

「また、何かあったら連絡してほしいな。千佳はお母さんに会えたの、すっごく嬉しかったよ」

 振り向くことなく店を出る。

 薄暗い階段を下りた先で、私は現実に戻る。


   *


 帰宅したころには十六時半を過ぎていた。玄関を開けた瞬間、

「淳子ー!」

 という絶叫が聞こえてくる。私は無言でその音の主が潜む部屋に向かう。引き戸を開けた瞬間勢いよくボールペンが飛んできて、私の左肘に当たる。落ちたそれを拾っていると、ティッシュボックスがつむじに衝突する。それも拾う。顔を上げ、元の位置にそれらを戻し、目を血走らせながらベッドに横たわる私の母親の顔を見る。彼女は地を這うような声で、

「お前、今までどこにいた?」

 といった。

「外」

 私が端的に返事をすると、母親は枕元のハンドタオルを私の顔面に投げつけながら、

「そんなことはわかってるんだよ! なんでお前は、寝たきりの母親を置き去りにして半日も留守にできるんだって訊いてるんだ! お前には人の心ってものがないのか!」

 唾液をまき散らしながら母親が喚いている。私は投げつけられたハンドタオルで母親の口元を拭いながら、

「ヘルパーさん、頼んでいたはずだけれど」

「他人に下の世話なんか任せられるか! お前は親を何だと思ってるんだ! 無駄だとわかっていながら、それでも大学まで出してやったっていうのに! いいからさっさと下着を換えろ! 今すぐに!」

 何年も前に買った、根の張るものではないが品のいいワンピースを着たまま、私は母親の下着を交換する。胸から下が全く動かない母親は、爪を噛みながら絶え間なく私を罵っている。

「ああ、やっぱりお前なんか産むんじゃなかった……本当はおろすつもりだったんだ。お父さんもそれでいいと言っていた。世間の目さえなければ……淳子って名前も、お前が産まれた日の新聞のお悔やみ欄から取っただけだ。そんなお前を、何もかも我慢して、我慢して我慢して我慢して育ててやったっていうのに、お前は親を置いて、そんな、浮かれた恰好でフラフラ出歩いて! ああ、あたしの人生、一体どこで間違っちまったんだ……」

 汚れ物を抱え、風呂場へ向かう。

「外に干すなよ」

「……わかってるよ」

「なんだその口の利き方! 言い直せ! 謝れ! おい、聞いてるのか!」

 返事はせず、母親の部屋を後にする。戸を閉める寸前、背中に何かがぶつかったが確認する気力も湧かなかった。



 洗面器に湯を溜めながら、私は昼間会った「母」のことを思い出していた。

 彼女の目的が私の金であること、彼女がただの詐欺師であることなど、端からわかっている。しかし少なくとも彼女に金を渡しているうちは、私は「母の娘」の「千佳」でいられるようだった。「母親」に呼ばれる私の「淳子」という名前が、ストレスの捌け口としてのみ成立しているように。


 母親の介護のために仕事を辞め、日に日にやつれていく私を見限った恋人は二年前に私の友人と結婚したらしい。

 ほんのわずか機嫌を損ねるだけで、母親は私の腕を思い切り引っ掻く。私はどれほど暑い夏でも半袖を着ることはない。


 半日も家を空けたのは、十一か月振りだった。

 母親へ「きょう、知らない女に会ってきた。自らの意思で消費者金融から二十万円を借りて、全額渡した」と伝えたら、彼女はどんな顔をして、どのような名前で私を呼ぶのだろう。

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