第25話

「おはようございます」

 黒いトートバックを肩にかけたまま、紗々芽はドキドキと会議室へと足を踏み入れた。

 今日はアルバムの打ち合わせだ。

 コの字型に並んだ長机の端に色葉がすでに座っていたが、紗々芽の挨拶に顔を上げることはなかった。

 それが寂しくて唇を引き結ぶ。

周りのスタッフも二人の顔を合わさないギクシャクとした雰囲気に、どうしたらいいのかわからず空気はかなり固い。

すでに座っているメンバーのなかに江波を見つけて会釈すると、小さく微笑み返してきた。

「やあ紗々芽ちゃん、着いたね」

紗々芽の後ろからやってきた井口が、紗々芽の表情と色葉の様子を目線でなぞると、ひそひそと声をひそめてきた。

「色葉ちゃんとはちゃんとあれから話した?」

「すみません」

 ふるふると頭を振る。

 以前だったら動きに合わせて揺れていた髪は、もうない。

「うーん、かまわないけど、どんな関係になろうと話すことは大事だよ。ちゃんと向き合わなきゃ」

 諭すように言った井口に紗々芽はぽかんと小さく口を開けた。

「井口さん大人みたい」

「何言ってるんだい大人だよ」

黒地に緑のつたとオレンジの花が刺繍されているネクタイの上で、心外だと口をすねさせる井口に思わず紗々芽は噴き出した。

その後全員が席につき会議では誰の書いた歌詩のどれを使うかなどの内容になった。

 結果的に江波の書いた歌詞四曲、それ以外に二人の作詞家が合わせて三曲。

 そして。

「紗々芽ちゃんのはこれと、あとこの二つの計三曲を採用しよう」

「え!」

 まさか本当に選ばれるとは思わず、そしてまさかの三曲分も採用してもらえたことに紗々芽は膝の上で小さくガッツポーズした。

「これ特にいいですね。『花も嵐も踏み越えて』」

一人のスタッフの声に他の人間も。

「甘いのにせつない感じが確かに絶妙ですね」

 うんうんと歌詞を読み上げる。

「特に『呼ぶ名前はひとつだけ、追いかけても追いつけない、ガラス細工の君』ってところはせつなくていいですね」

 絶賛されるなか。

「僕もこれはとてもいいと思いますよ」

 ひとりだけ紗々芽の胸中を知っている江波がこくりと頷いた。

 江波にはバレバレだろう。

 色葉への想いを書いた歌詞だと言う事を。

 今、欲しいのはひとりだけ。

 呼びたい名前は、色葉だ。

「これ、アルバムのタイトル曲にしましょうか」

 そんな提案がされ、紗々芽は思わずその場でガタタッと椅子から立ち上がった。

「そんな、恐れ多いです」

胸の前ではわわと手を振るが、スタッフたちはすでに乗り気の様子だ。

「大丈夫だよ、自信もって」

「いい歌詞だよ」

 そこまで言ってもらえるならとおずおず頷いた紗々芽が視界の端で色葉をそっと盗み見たが、特に表情も変わらず企画書たちに視線を落としている。

 紗々芽になんて興味が無いというように。

 色葉のことを考えて書いたのだと、自分の気持ちを言いたかったが取り付くまもない雰囲気に、紗々芽はシュンと肩を落とした。

アルバムが着実に出来上がり、スキャンダル後のテレビ初出演は大型の生歌番組だった。

今日はタイトルにもなっている紗々芽の歌詞の『花も嵐も踏み越えて』を歌う予定だ。

初披露になっているその曲は、相変わらず色葉のパートがメインだ。

紗々芽のパートも増やそうと言われたのだが、ダンスもしながらだとまだまだ歌声が安定しないので辞退した。

今日の衣装は以前の色葉だけのためのものではなく、スクエアカラーに膝丈のフレアスカートのラベンダー色のワンピースで、紗々芽にもよく似合っていた。

髪の毛がベリーショートになったことで迷惑がかかるかと思ったが、スタイリストがちゃんと外見を整えてくれたことにはホッとした。

 自分たちの出番が近くなりスタンバイ場所に行くと。

「女二人じゃ寂しいでしょ、俺も仲間に入れてよ」

 笑いながら下卑たヤジが飛んだり。

「私たちも狙われちゃうんじゃないの、気持ち悪い」

ひそめる気のない悪口が聞こえてくる。

色葉はいつも通りまっすぐ背筋を伸ばしているが、その両耳を塞いでやりたいと紗々芽は思った。

色葉が強くなんかないことを、紗々芽はもう知っている。

自分の右胸に紗々芽はそっと手を当てた。

色葉のここに、誰にも見せなかったきっと一番柔らかいところに紗々芽を置いてくれている。

それを聞いた時ひどく嬉しいと思ったけれど、それは言えなかった。

自分の中で色葉がどこにいるかわからないのに、その柔らかな気持ちを受け取っては駄目だと思ったから。

でも、まだ間に合うのならそれをどうしても受け取りたいと思う。

いくじなしの自分は色葉のそっけない雰囲気に声をかけるのも出来ていないけれど。

でも、今日は決意していた。

この歌を色葉が歌うのを見たら、勇気を出して気持ちを伝えようと。

「続いてはエヴァのお二人です」

 紹介されて二人はステージへと上がった。

 スポットライトと観客の熱気に、一気に空気の密度が変わる。

 上がった途端に客席から、裏切者、ひっこめ、謝罪しろと声が飛んできた。

 でも不思議と初めてのステージの時みたいに怖くはなかった。

 堂々とステージの中央へと歩いて行ったが、司会者もヤジを放置するわけにもいかないのだろう。

トークを手早くまとめて、スタンバイを言い渡された。

 そしてスタッフからの合図。

 曲が流れだし、二人はゆっくりと踊り出した。

 出だしからサビのこの曲は二人のハモりからだ。

 いよいよと口を開きかけた瞬間だった。

 ガツッと固い音がしたかと思った瞬間、紗々芽は短くなったせいであらわになっている額に痛みが走って、思わず目をつぶった。

 一体なにが起きたのだろうと思った瞬間。

「色葉に迷惑かけるなー!」

「色葉に謝れー!」

 客席からの、女の子の罵声。

 そして足元に石が転がっていることで、それをぶつけられたのだと気づいた。

「紗々芽、血が!」

 色葉が顔色を変えたことで、額に手をやるとぬるりとした感触。

 スタッフが真っ青な顔でステージを降りるように合図してくる。

 音楽止めろと言う声に合わせて、前奏がピタリと止んだ。

 しんとその場が沈黙する。

 客席では騒いでいる人間とそれを注意する人間でちょっとした騒ぎが起きていた。

 色葉がギッと客席へ鋭い視線を向けて何か言おうとした瞬間。

紗々芽は震えて落としそうになるマイクをぎゅっと握って息を吸い込んだ。

そして歌い出す。

伴奏も何もないところで、ダンスも踊らず。

 額から血がでているけれど、ありったけの笑顔で。

 自分を応援してくれた人がいたのだ。

 色葉を応援している人だって。

 それに色葉が言ってくれていたじゃないか。

 いつもいつも紗々芽は凄いのだと。

 自信なんかかけらも持っていなかった自分を真っすぐに見て。

 呆然と自分を見つめる色葉を見て紗々芽は出来る精一杯で高らかに歌った。

「呼ぶ名前はひとつだけ、追いかけても追いつけない、ガラス細工の君」

 そう歌って色葉に手を差し伸べる。

 高校に入ってからずっと色葉のことばかりだった。

 でもどんどん別の世界に行く色葉の背中ばかり見ていた。

 繊細で壊れ物のような心を守るために、いつもまっすぐに伸ばした背筋で戦っていたことを知っていった。

 今、紗々芽が欲しくて仕方が無いのは色葉だ。

 まっすぐに差し伸べられた手に、色葉の瞳が揺れた。

 この曲が紗々芽から色葉へのラブレターだと気づいたのだろう。

(歌えよ)

あたしが色葉の歌好きだって知ってるだろ。

 そう教えるように、ウインクをして見せる。

 色葉はその紗々芽の姿を見ると、泣きそうな顔になったあと先ほどの紗々芽のようにマイクをぎゅっと握り直して口を開いた。

 まるでガラス細工のようなハイトーンボイス。

(ああ、すきだな)

 ぽろりと胸の鼓動に押し出されるように思った。

 生放送に血はご法度だろうが、今この二人の世界を壊されたくないと思った。

(知ってた?色葉。あたしは今は色葉のためだけのステージなんて思ってない。二人のためのステージって思ってるんだ)

 だから、その大事な場所をこんなことで邪魔させたりしない。

色葉が紗々芽の伸ばした手に自分の手のひらを重ねると、かすかに震えているのがわかった。

紗々芽はその手を強く握り返して、アカペラのまま二人で最後まで歌い切った。

 さあ、罵声でもなんでもどんと来いとペコリとお辞儀をしてぐいと頭を上げると。

 観客席は、シンとしていた。

 そして、一人、また一人と拍手が鳴りだす。

 しだいに盛大な拍手になってから。

「立派だったぞー!」

「紗々芽ちゃん頑張ったね!」

 ワッと歓声が上がった。

 意外な反応に、紗々芽がキョトンとしていると隣にいた色葉が紗々芽を抱きしめた。

「さすが、紗々芽だ」

 なにがさすがなんだと、思わず笑ってしまっていた。

 盛大な拍手に後押しされて二人はステージを降りた。

 スタッフが慌てて紗々芽にタオルを持ってくる。

 タオルを受け取り額を拭くと、結構血が出ていたらしい。

 タオルに赤い染みが出来ている。

「紗々芽、早く手当しよう」

「救急箱持ってくるから、そのままタオルで押さえて楽屋に戻ってて」

 井口の指示に従って、紗々芽はもうあまり血は出てないんだけどなと思いながら、タオルを当てて色葉と楽屋に戻った。

 すぐに井口が救急箱を持って現れ、消毒をするとさすがに痛みで紗々芽の眉根が寄った。

 額のカーゼをテーピングで止めた姿は、少年のような髪型のせいか間抜けに見えやしないだろうかなどとぼんやり思う。

「痕は残らないと思うけど、一応帰りに病院行くよ」

 井口の言葉に大げさだなあと思いながら、紗々芽ははいと返事をしておいた。

 楽屋内には二人きりになって色葉が口を開こうとしたのを、紗々芽はその唇に手を当てて遮った。

「謝るな」

 ハッキリと、言い切る。

「お前のせいじゃない」

 色葉は、けれど瞳を揺らしたあと小さく首を振った。

「いいから聞け」

「……うん」

 小さな返事によし、と頷くと色葉の手を引いてメイク台の椅子に座らせた。

 そうしないと、色葉が視線をそらしてしまえば小さな紗々芽では目線を合わせられないからだ。

「あのさ、あたし今までずっと自分の置かれた状況を色葉のせいにしてた。モデルについて行くのも、レッスンもアイドルも」

 自覚はあるのだろう。

 色葉は膝の上に乗せた手を握りしめて小さく頷いた。

「でもさ、今日のステージで思ったよ。『お前のステージ』じゃなくて『二人のステージ』を邪魔させるもんかって」

「紗々芽……」

 迷子の子供のような表情をしている、自分に愛を囁いた女。

「あの歌詞、誰のこと考えて書いたかわかった?」

 少し悪戯気に笑うと、色葉は顔を上げて紗々芽を見上げたあと視線をさまよわせた。

「気づいてるんだろ?うぬぼれていいぞ」

紗々芽は前髪を横に流しているせいで出ている色葉のおでこに小さくキスをした。

「紗々芽?」

 今度こそ瞳が零れ落ちそうな顔に、紗々芽はくすりと口角を上げた。

「歌詞書いてるときもずっとお前のことばっかり考えてた。ううん、歌詞を書き始める前から。お前が胸の大事な所をあたしにくれたように、お前はとっくにあたしの大事な所にいたんだ」

 さらりと指通りのいい髪を梳き、自分を見上げるなんていう珍しい色葉に視線をしっかりと合わせた。

「好きだよ」

 一字一句零さないように大切に伝える。

「ッ」

「泣くなよ。なきむし」

 顔を上げられない色葉の頭を抱きしめて、紗々芽はしんなりと瞳を細めた。

「……ありがと、ささめ」

聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声に、紗々芽はあーあとわざとらしく声を上げた。

「誰かさんは自分勝手に学校来なくなるし会っても目も合わせないし、あたしだいぶ傷ついたな」

「う……それは、本当にごめん」

 顔を上げた色葉が気まずそうに眉をへたれさせるのを、紗々芽は指先で泣きはらしてメイクの寄れた部分を指で拭ってやった。

「紗々芽の傍にいたら、優しさに甘えると思ったから。紗々芽、何があっても私を責めなかったでしょう」

「責められるようなこと何かあったか?」

 不思議そうに色葉を見下ろすと。

「……髪」

「ああ、これはお前のせいじゃないから勘違いするな」

「でも……私、紗々芽の長い髪好きだったのに」

 なかなか浮上しない色葉に紗々芽は肩をすくめて、わざとらしく拗ねた顔を浮かべてみせた。

「なるほど、色葉はショートのあたしは嫌いだと」

「ええ!そんなわけないでしょ、ショートだって似合ってて可愛いよ!私好きだよ」

 慌てた色葉がやっといつものような調子で話したことに、紗々芽は嬉しくて仕方なかった。

「貰ったシュシュはしばらくつけられないけど、伸びるまで待っててくれるか?」

「勿論だよ。髪が伸びるまでは可愛いヘアピンを買おう、今度はお揃いで」

 お互いに満面の笑顔で相手を見つめた。

「おーい病院予約できたから……あれ?」

楽屋のドアを開けてひょこりと覗き込んできた井口に、二人は一斉にそちらへ目線をやった。

室内まで入ってきた井口が二人を交互に見て、破顔する。

「落ち着くところに落ち着いたみたいだね。よかったよ」

「ご迷惑おかけしました」

「これからもよろしくお願いします」

 色葉が立ち上がると、二人はしっかりと頭を下げた。

「うんうん!これからは今まで以上に頑張って行こう」

 感極まって鼻づまった井口の声に二人は思わず顔を見合わせて、はいと元気よく答えた。

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