第12話

 

 井口に呼び出されて、紗々芽は事務所であるビルに来ていた。

 入口の受付におそるおそる名前を告げると、すぐに井口がやってきた。

 今日は青地に小さなカエル柄のネクタイだ。

 一体どこで買っているんだろうと思う。

 エレベーターにうながされ、ポーンと音とともに目当ての階に到着すると、井口がさっさと降りていく。

 紗々芽はきょろりと廊下を見回しながら、その背中を追いかけて歩いた。

 白い無機質な壁には、この事務所の所属らしい人物のポスターが貼ってある。

 その中にひときわ大きな色葉のポスターに驚きながら、紗々芽は灰色の絨毯の上を歩いた。

 通されたのは応接室だ。

 向かい合ったソファーがふたつ。

そのあいだに黒いローテーブルが置いてあり、ここもやはり入って一番目につく場所に色葉のポスターがある。

黒いドレスに赤い口紅のその姿はとても同級生には見えなくて、ぽかんと見上げていると井口に手で促され、紗々芽は革張りのソファーに腰を下ろした。

「えっと、今日はなんで呼び出されたんでしょうか」

 正直、紗々芽がここに来たのはスカウト後、一番最初の時だけだ。

 にこにこと井口は、向かいのソファーに座って実はねと口を開いた。

「色葉ちゃんがアイドルデビューすることに決まったんだ」

「アイドル?凄い」

 そんなところまで話が持ち上がっているのかと、紗々芽は純粋に驚いた。

 しかし、それなら心当たりはひとつしかない。

「さすがに仕事全部について行くのは無理ですよ」

 先手を打って口を開いた。

 思わず顎を引き、猫のような吊り目が半眼になる。

 けれど、いやいやと井口は首を振ると、ゆっくりと紗々芽に指を向けた。

「色葉ちゃんにこの話をしたら断わられた。けれど、おそらく君と一緒なら了承するはずだ」

「へ?」

「これだけ人気が出たら、やる気になると思ってたんだけどね」

 はあ、と井口が膝の上で両手を組んでみせる。

「つまり……あたしに色葉とアイドルをしろと……」

「話が早くて助かるよ」

 呆然と呟いた紗々芽に、井口はにこにこと糸目をさらに細めた。

 けれど。

「無理無理無理、無理です!」

 ぶんぶんと扇風機のように首を振って拒否をした。

 パサパサと長い髪が動きによって揺れている。

 デビュー?

 アイドル?

 ぐるぐると言われた言葉に、眩暈を起こしそうになる。

 自分はそんな柄じゃない。

「あたしには無理です」

 はっきりと口にしたが、井口はそんな紗々芽の言葉など些末なことのように両手を解いて足を組んだ。

 その姿が威圧感を高める。

「彼女は逸材だ、期待の大型新人だ。試しにボイスレッスンをしてもらったが、歌も素晴らしかった」

「あたし歌なんて」

「歌は基本的に彼女のソロにするから、ダンスさえ頑張ってくれればいい。期待はしていない」

 失礼な事を言われている。

 わかっているが、基本的に紗々芽は気が強いわけではない。

 口調や吊り目のせいで誤解されがちだが、よほどのことがない限り――例えば以前のイヤリング騒動とか――声を荒げるのは苦手だし怒るのも得意じゃない。

 特に自分に関しては。

「そんなこと言われても、あたしは」

「彼女の素晴らしい才能を潰す気かい?」

 その言葉にぐっと詰まった。

 そんなつもりはない。

「君もわかってるはずだ。短期間でここまでの結果を出せるなんて、滅多にない。彼女を輝かせることが出来れば、そのステージを用意すれば、トップだって夢じゃないんだ」

「色葉は……」

「彼女は自分の価値に気付いていない」

 ぴしゃりと言われ、かすかに紗々芽は肩を震わせた。

 ずいと身を乗り出され、ぐっと覗き込まれる。

 その眼鏡の奥の瞳は、今までになく真剣そのもので。

 紗々芽だって色葉の凄さはわかっている。

 外見だけじゃなく、撮影のたびにガラリと雰囲気を変えて見せる色葉には、才能があると思う。

「聞けば彼女は両親と希薄だし、友達も君くらいだ。けれどデビューしたら、色葉ちゃんはたくさんの人に好かれて、繋がれる」

 ぴくりと紗々芽の眼差しが揺れた。

 それは、つねづね紗々芽も気になっていたことだ。

 学校では紗々芽とほとんどいるし、一緒に昼食を食べているのに秋子ともほとんど会話をせず物静かに食事している。

 ついて行った現場でも、いつも離れたところで一人でいた。

 母親との空気も親子とは思えないくらい冷たくて。

「それとも君は色葉ちゃんを独り占めしたいのかな」

 紗々芽はハッと、いつのまにか俯いていた顔を上げた。

「そんなこと、ないです」

 声が思わずつっかえた。

考えたこともなかった言葉を言われ、紗々芽はきゅっと膝の上に重ねて置いている両手を握りしめた。

 その様子を見て、井口は眼鏡のブリッジをゆっくり上げる。

「意地悪な事を言ったけど、正直君にも悪い話じゃない。色葉ちゃんの仕事にずっとついていたから、友達なんてできなかっただろう。ここらで見識を広げるのは、悪いことじゃない」

 もともと友達との関係は浅い付き合いしかしていない、そう考えれば色葉との関係は今までの友人関係と全然違う。

 もしかしたら気恥ずかしいが、これが親友だとかそういうカテゴリーになるのかもしれない。

 そんな友人の輝ける世界を、自分が邪魔していると考えると、酷く嫌だった。

 しばらくの沈黙が続き。

「……わかりました」

 再び俯いた紗々芽の唇から、力ない了承の声が零れた。

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