東京咎人-新章-

なつめくん

プロローグ

東京咎人 プロローグ


カーテンの隙間から差し込んだ陽光が眠りの底にいた僕を叩き起す。

僕は、うぅん、と掠れた声で唸ると薄っぺらい布団を投げ出し、重たい身体を無理やり起こした。

寝ぼけ眼を擦りながら、頭元のデジタル時計を見る。

14時25分。不明瞭だった脳内が一瞬にして覚醒する。思わず僕は絶句した。

「あぁ、嘘だろ…」

狭いワンルームに僕の情けない声だけが響いた。ベッドから転げ落ち、僕は驚き慌てながら洗面所へ向かう。フローリングに散乱した教材を撒き散らしながら。

鏡の向こうの僕は気の抜けた顔をしていた。

四方八方に向いた髪を水で濡らし、櫛で整え、寝ぼけ顔を冷たい水で洗い流し、大して生えてない薄い髭を剃る。

何の変哲もない日常の風景。僕はこの作業を毎日繰り返している。

一連の流れが終わると「はぁ……」と溜息をひとつ。ふと、傍らに置いたスマホに視線を落とす。ホーム画面に溜まった着信履歴。僕の焦燥感に拍車がかかる。僕は脱兎のごとく洗面所を飛び出した。

着替えをしている最中にも、無機質な着信音が何度か鳴った。敢えてそれを無視し、僕は身支度に専念した。

もう一度、時計を見る。14時37分。

温くなった飲みかけのミネラルウォーターで空っぽの胃の中を満たす。そして、心慌意乱で玄関を飛び出した。

今日も殺し屋の補佐役としての一日が始まる。


__午後の光が薄れ、夕暮れの気配が混じり始めた。

疲労困憊の中年サラリーマン。存在を誇示するようにしてハイヒールを高らかに鳴らし、往来を闊歩する女。軽薄そうなキャッチ風の男。女子高生の群れ。まるで僕なんかいないみたいに、雑踏が目の前を過ぎる。休日の新宿は活気に満ちていた。

僕が店前の掃き掃除に飽き、散った桜の花弁を塵取に集めていると、すぐ真横で「ススム」と不意に声を掛けられる。

急な出来事に思わず気が動転し、僕の口から「はいっ」と素っ頓狂な声が出た。

「精が出ますね。感心しますよ」

恐る恐る横目で確認すると、そこにはアズミがいた。彼は僕と目が合うと、目を細めて破顔する。僕はそれに「なんでしょうか…」と苦笑いで応えた。

「すこし休憩しましょうか」

しばらく薄曇りの空を凝視し、「雲行きが怪しくなってきましたね」と生真面目な顔つきでアズミは言う。

肩まで伸ばしたアズミの長い髪が夕風にあおられる。膝丈のギャルソンエプロンと真っ白のワイシャツを熟れた感じで着こなすアズミは、いかにも清麗という言葉が似合いそうな風貌の男だった。

「今日の珈琲豆はキリマンジャロです」

「じゃあ、お言葉に甘えて…」

僕は思わず照れ笑いをした。

「では、店に戻りましょうか。珈琲が冷めないうちに」と長身を折り曲げて、アズミは言う。

屈託のない笑顔を浮かべるこの男は、しがない僕を雇ってくれた喫茶店のマスターでもあり、殺し屋の統率者でもある。

雑居ビルの地下にひっそりと佇む古本喫茶 "安曇"は今日も閑散としていた。

その証拠に暇を持て余したマスターがコーヒーを片手に、小難しい言葉が羅列した古書を嗜んでいるぐらいには、閑古鳥が鳴いている。

それもそのはず。ここは会員制の喫茶店なのだ。限られた人間にしか賞玩することの出来ない空間。会員証を所持するのはアズミが率いる殺し屋と、その関係者のみ。

僕、野崎進は曲がりなりにも殺し屋の補佐だ。だが、殺し屋への依頼は毎日来るわけではない。

もちろん、暇な時間も発生するというわけで。その合間に僕は喫茶店を営むアズミの隣で手伝いをしている。

しかし、アズミは僕がそそっかしい性格なのを知っている。故に、僕を厨房に立たせたことは一度もない。

アズミが自らの手で豆を焙煎し、殺し屋の好みに合わせた珈琲を淹れ、僕はそれを黙って運ぶだけ。

手隙の時はアズミの買い出しに付き合ったり、外の掃き掃除をしたり、アズミが淹れた珈琲を試飲している。これで給料が発生するなら安いものだ。

まぁつまり、僕はここの茶運び人形という訳だ。


突然、カランカラン、と心地よくドアベルの音が鳴る。僕が珈琲を飲み終えたのと同時だった。片手間に読んでいた文庫本を閉じ、僕は「いらっしゃいませ」と立ち上がる。そこには見覚えのある大柄な男がいた。殺し屋のミカゲだった。

「あぁ、ミカゲくん」

僕が言うと、ミカゲは能面みたいな顔つきで軽く会釈をした。そして、ぶっきらぼうに会員証を僕の目の前に突き出す。

「ここに来るのは久しぶりだよね」

うん、とミカゲは静かに頷く。

「あぁ、いらっしゃい。さぁ、座って」

僕の背後で本棚の整理をしていたズミは、扉の前で突っ立ているミカゲをカウンター席に促した。

「お久しぶりです。ボス」

ミカゲの低く、単調な声。僕を見下ろしていたミカゲの鋭い眼孔は、徐にアズミに向けられる。

「鍛錬の帰りですか?」

アズミが言うと、ミカゲは頷く。

「おや…」アズミは脚立を降り、不審そうな顔でミカゲを凝視した。

相変わらず、ミカゲは棒立ちのまま動かない。

「ここ、どうしました?擦り傷でしょうか…」

アズミは自分の頬を指先で撫でる仕草をした。ミカゲは何も言わず、首を傾げる。

僕はアズミに言われるまで気がつかなかった。よく見たら、ミカゲの右頬から唇の端にかけて掻き傷がある。近くで見ないと分からないぐらいの微細な傷跡だった。「よく見えましたね」僕は思わず感心する。

「えぇ、健康管理も上役の役目ですから」

「ただのかすり傷ですよ。ボス」

ミカゲは唾でもつけておけば治る、とでも言いたげな顔をしていた。しかし、依然としてアズミの顔は曇ったままだ。

「さっきまでキサラギと鍛錬していました」

「あぁ…」アズミはやれやれと言わんばかりに長い溜息をつく。

「私から言っておきますね」

「見境がないのはいつものことです」

そんなことより……、とミカゲは怪訝そうな顔であたりを見渡す。

「情報屋は?」

「例のごとく、また遅れて来るそうです。今日は連絡があっただけ良しとしましょう」

飲み終わったカップを洗う僕の背中に物凄いものが突き刺さったような気がした。遅刻については僕は何も文句は言えない。僕は口元を真一文字に結んだ。

「呼んできましょうか」

「…お願いできますか?」一呼吸置いて、アズミが申し訳なさそうに言うと、ミカゲは「うん」と首を縦に振る。

「すぐに戻ってきます」

「穏便にね」と、アズミはミカゲの背中を見送った。

洗い物を終えた僕は、手を拭きながらアズミに問う。

「情報屋と殺し屋がここに揃うということは、つまり…?」僕の視線に気づいたアズミが得意げに眉を上げ、首肯する。

「依頼が入ったようですね」





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