キンキンに冷えたジンジャーエール
立食式のパーティテーブルには、豪華な料理がズラリと並んでいる。
セリスは、テーブルに並んだ料理を、どれから手をつけようか悩んでいた。
茹でたブロッコリーとアスパラのサラダ。
トマトが載った薄切りチーズ。
長テーブルの端では、老紳士の使用人が、チキンの丸焼きやローストビーフを切り分けている。
どれも食欲をそそる食べ物ばかりだ。
大皿に山と詰まれたフルーツの盛り合わせも捨てがたい。
「ふあああ、おいしそうですぅ」
喉が鳴るのを抑えながら、ツバを飲み込む。
お目当ては、ライカが作ったとされる、ヤマンド独特の料理という茶色いブイヤベース。
貝だけが入っている。
なのに、芳醇な香りと、小さなお椀でブイヤベースを啜るパーティ客の表情が、あの茶色いスープがおいしいものだと教えてくれる。
「ダメですダメです!」
セリスは、首を振った。
ダイエット中なんだから、我慢しないと。
そう思えば思うほど、腹の虫が静まらない。
「スープくらいなら、多少はいいかもしれません」
ブイヤベースだけでも、飲んでみようか。
しかし、そのせいでタガが外れてしまったらと思うと、手が動かなかった。
まして自分は停滞期だ。
このままやせない可能性だって。
「お、お外の空気を吸ってきましょう」
頭が混乱しそうになったセリスは、テラスまで撤退する。
ライカは「大丈夫だ」と言ってくれた。
しかし、これ程まで食事が怖いと思ったことはない。
今の自分には、バゲット一切れですら危険なのだ。
「おや、セリス・イエット様ではないかのう」
自分しかいないと思っていたテラスに、人影ができる。
「魔女カメリエ様!」
とんがり帽子を被った丸メガネの少女が、お盆を持って近づいてきた。
予言者のカメリエ・ゾマである。
この辺りの魔法堂で錬金術業を営むウォーロックだ。
「カメリエ様も、休憩ですか?」
「いやあ、予言してくれだの相談に乗ってくれだのと引っ張りだこでな。少々辟易していたところじゃ」
背中まで開いた大胆なパープルのドレスに身を包み、さっきから殿方の視線を集めている。
歴史とも言うべき年月を生きているはずだ。
が、見た目は一〇代だと言っても通用するだろう。
「どうかな。お月見ついでに一杯お付き合いくだされ」
カメリエが、お盆を差し出す。
お盆に載っているのは細長いグラスだ。グラスには、黄金色の炭酸水が注がれており、小さな泡が踊っている。
ジンジャーエールだ。セリスは匂いで判別した。
炭酸水など、しばらく飲んでいない。
思わず、セリスは喉を鳴らす。
「お誕生日おめでとうぞ。セリス殿」
「予言者様。ありがとうございます」
かしこまろうとしたセリスを、ウォーロックは手で制す。
「そんな大層な呼び名はよさぬか。カメリエで結構。それより、聞けば雷漸拳とかいう武術を習得して、魔王打倒に挑むとか」
ウォーロック・カメリエの言うとおり、セリスがダイエットをしているとは、秘密になっている。
食事制限も、「修行の一環」と思っているのだ。
もし、セリスのダイエット事情が知れれば、セリスはたちまち世間の笑いものになるだろう。
「これは、お近づきの印に」
そう言って、ジンジャーエールの入ったグラスを差し出す。
まるで、セリスの好物を知っているかのように。
グラスを持つ。
「キンキンに冷えてます!」
冷たさが、指からが伝わってきた。
甘いジンジャーエールの味を思い出してしまい、口の中に唾液が溢れ出す。
「ここにおられましたか、セリス殿」
空の小皿を持ったテトが、テラスへ。
「どうですか、おひとつ? ご用意いたします」
「いいえ。欲しくなったらいただきます」
「左様ですか」
断りを入れてから、テトは立ち去ろうとした。
「お連れ様も満喫なさって……はて、そちらの方、どこかでお見かけせなんだか?」
カメリエは、テトの顔をまじまじと見つめる。
「他人の空似では? 私は貴方など知りませぬ」
「いやあ、これは失礼。知人によく似ていたものでのう」
「まあよいわ。そちらの方には、どれどれ、こちらの方がええかのう?」
テトのグラスにも泡が立っている。
「香りだけですな。ジンジャーエールで?」
テトが香りだけで、ノンアルコールと言い当てる。
「左様」
これは少しアルコールの匂いを足したエールだ。
本物のアルコール飲料ではないが、本物のエールと同じように苦いという。
「おまけにノンシュガー。こちらはほろ苦くて、食も進むじゃろうて。どれ、お嬢さん、引っかけぬかのう?」
彼女はどういうわけか、自分たちを堕落へと誘っている。
セリスにはそう見えた。
しかし、魔王復活を予言した魔法使いが、どうして討伐を阻害するようなマネを?
もしかすると純粋に労をねぎらっているだけ?
「セリス殿、ムリはいかん。ムリは続かぬ。自分を適度に許すのが、長続きのコツというもの」
カメリエは「ホレ」と、優しく炭酸を促す。
せっかくの施しを、断るわけにはいかない。
とはいえ。ここは、ライカに相談しないと。
と、逡巡するより先に、口が動いていた。
しまった、と思った頃にはもう遅い。
喉をかき分け、甘い炭酸が食道を駆け抜けていく。
炭酸が弾ける度に甘い香りが鼻を貫き、甘苦さが舌を撫で回した。冷たさが喉を通り過ぎ、胃袋へ吸収されていく。脳が満たされる至福。罪悪感から沸き上がる愉悦。純粋な旨味。感動的であり、蠱惑的な味わいだ。
「はわああ」
一杯飲んだだけなのに、理性が吹き飛びそう。すぐに襲ってくる後悔と、もっと飲みたいという欲求が、セリスの中でせめぎ合う。
「犯罪的だっ。うますぎるっ。減量のほてりと、社交界にいる人の熱気で息詰まる空気の中で飲む炭酸。染み込む。身体に!」
まるでセリスの思いを代弁するかのように、テトが感想を口に出す。
「どうじゃ? もう一杯」
「ぜひに!」
すぐにテトがグラスを傾けた。
カメリエがテトのグラスにジンジャーエールを注ぐ。
テトは、二杯目へ突入していく。
窮屈な場の空気と、ダイエットの過酷さを洗い流すように、ノンアルコールのエールを煽る。
セリスの飲むジンジャーエールと違って苦いはずだが、うっとりした顔で一気に飲み干す。
「セリス殿。魔王討伐は過酷な試練。やすやすと達成できるものではない。このカメリエめがほんの少しだけ、心を和らげて進ぜよう」
カメリエが向かう先には山盛りのクッキーやケーキ類。
セリスは、もう隠しようがないほど、生唾を飲む。
自身を律しようにも、食べ物から視線を逸らせない。
「よいのじゃよ。あちらの方はもう、手をつけておられる」
テトの方を見ると、唐揚げやミートボールなど、油っぽい食事に手をつけてしまっている。
今日は勧められても口にすまいと考えていたのに、たった一杯のジンジャーエールが、心をかき乱す。
「テトさん、あんなにもほっぺたをパンパンにして」
「あのご婦人、酒も進んでおられるようで」
カメリエの言うように、テトは幸せそうに口を動かしていた。
一口くらいなら。セリスの深層心理が囁きかけてくる。ダメだ、と、すぐに我に返る。
けれど、パーティ会場にある料理の味は、全て分かっている。見ているだけで舌が暴れ出す。胃袋から手が出そうになる。
「はっ!?」
気がつくと、フォークを口に含んでいた。
自分の意思とは無関係に、手が料理を突き刺し、口へと運ぶ。口はモグモグと、肉や魚、野菜を咀嚼する。
止まらない。止められなくなっていた。
涙が出そうになる。ここまで自分は弱い生き物だったなんて。これでは、ライカに嫌われてしまうだろう。もう、彼に合わせる顔がない。
セリスの顔の前に、料理を載せた皿が差し出される。
「もっとどうぞ。遠慮せずに食べてもいいんですよ」
意外にも、皿を差し出したのは、ライカだった。
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