海の少年

鷹角彰来(たかずみ・しょうき)

海の少年


 海の中は静かだった。世界が音を失えば、こんなにも清々しい気持ちになれるのだろうかと思うぐらいに。


 ここはぼんやりした青色の世界で、全ての生き物は影のようにかすんで見えた。一瞬だけかすかに見えては、すぐに消えていく。


 ここにいつまでもいたいが、息継ぎをするために海上へ顔を出さなければならない。スキューバ・ダイビング用の器具は付けておらず、僕は生身の体で潜っていたのだ。


 頭を海上へ出せば、打ち寄せる波も岩礁を砕かんとする波濤もない、穏やかな海が地平線まで広がっていた。たまに風が吹く時にだけ、ささやきが聞こえる程の静けさの中に、僕は包まれていた。


 その内、船のエンジン音が聞こえて、おじさんがやって来る。それまで僕は、ここをイルカみたいに泳ぎ漂う。記憶を取り戻すためにやってきたことだけど、今はもうどうでもよくなってきた。


 もう、ここの海の男になっても構わない。


 おじさんは濡れた僕にタオルを渡して、呆れた声でこう言った。


「何日も何日もここさ潜って、よぐ飽ぎねぇなおめぇ。海女でねぇのに」


 僕はタオルで体のあちこちを拭いながら、おじさんの話を聞いていた。


「おめぇ最初に見た時、浜辺で裸んままぼぉっとしで海見でるから、牛鬼さに魂抜がれたかと思っだな。案の定、記憶無ぐしてたがな」


 もう何度も、おじさんは僕との最初の出会いを語ってきた。おじさんにとって、僕が突然現れたことは、よっぽど衝撃的だったのだろう。


「とごろでおめぇ。記憶戻っだらどうすんだ? 自分が元いだ所へ帰るが?」

「多分ここにいると思うよ。ここの海が気に入ったし、魚釣りが面白いからさ」


 僕は笑顔を作って、おじさんにそう誓った。おじさんは安心したように目を細め、「そっが」と一言だけ発し、船の操縦へ戻った。




 一体、僕は誰なのだろう?


 大学生か、新入社員か、はたまた犯罪者かもしれない。何であったとしても、僕はこの海から離れたくなかった。


 僕は海の美しさと静けさに触れる度に、母親に抱かれてあやされているかのような懐かしさを思い出していた。それは、僕の記憶を取り戻す糸口だろう。しかし、僕はそれ以上、自分自身に問いただしはしなかった。


 僕は記憶を取り戻すことを恐れていた。きっと昔の自分に戻れば、この海を何とも思わなくなる気がするのだ。


 だから、海に浸かる時は、自分に対して忘れろ、忘れろと、暗示をかけていた。


 明日も、明後日も、それから先も、僕はあらゆることを忘れたまま海を泳ぎ続けていく。

(了)

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海の少年 鷹角彰来(たかずみ・しょうき) @shtakasugi

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