29話



「……だからこの事件で最も損をしたのは俺です。まったくの無関係でありながら住処を奪われ、小うるさい名探偵と同室を強制される。五条には悪いですが、俺の方が損をしているんじゃないですかね?」


「……そうだね」


 森秋先生は静かに頷く。しかしそれは認めるための頷きじゃない。


 あくまで優しく、駄目な生徒を見守るような眼差しだ。


 返却されたテストの点数に納得出来ない生徒が、どういうことかと教師を問い詰めることがあるだろう。


 大概そんなものは認められない。採点ミスなどなく、生徒の方が間違っていることの方が多々だ。


 そして先生は言うのだ。これはこうなんだよ、と。


 それに似ている。


 突きつけたテスト用紙に、正しい計算式を書き連ねようとペンのキャップを捻ろうとする先生の雰囲気を俺は思い出した。これはきっと添削だ。


 間延びした、あくまで緊張感の無い様子で「でも……」と森秋先生は答える。


 俺自身この先どんな言葉が返って来るのか。それをある程度予期しながら短い瞬間を待った。


「────違う、と私が言った場合、それを否定する根拠を君は持っているのかな?」


「……‼」


 俺は奥歯を噛みしめ、言葉を詰まらせる。言いたくはない。だが言わねばならない。


「……いいえ」


 否定する。首を振る。認めてしまう。


「残念ながら証拠はないです。……なんせ貴方は何もしていない」


 うん、と森秋先生は笑顔を見せる。


「そうだね。私は何もしていない。仮にキミの言う通りだったとしても、それは変わらないね。困っている生徒に部室を与え、閉まっているから開けてくれと言われた風紀委員室を開けた。そして廊下で偶然ぶつかった生徒が落とした手帳を預かっている。私はそう主張する。私がしたのはそれだけだよ。もし仮にこの事件が私の行動によって進行されていたのだとしても、それは私が起こしたわけではない。証拠も無い。そうじゃないかな?」


「……三人の証言者に渡された面談の予定表。押されていた判の名前は貴方でした」


「それがなんの意味あるのかな? 私は風紀委員の子から渡された書類に判子を押しただけだよ? まあ結果としてその子は身分を偽った偽者だった。その点は反省しようかな、不用意だったかな」


「……もし俺の言うことが本当だったら、巻き込まれた光石にどう思います?」


「もし君の言うことが本当なら、私は教師どころか人間失格だね。性根の腐った悪い大人だよ。だけど一つ言わせてもらうなら、彼女とてこの状況を覚悟して想定した上で行動しているんじゃないかな。私が何か目的を果たそうとするなら、その覚悟を持った人にしか話を持ち掛けないだろうね」


「教師としてどうなんですかね、それ」


「教師としてではなく人としての話ならウィン=ウィンの取引だね。悪びれるつもりはないかな」


「五条に対しては?」


「言ってしまえば彼女の管理に不備があったことが今回の発端だ。もし完璧に管理されて盗まれるなんて事態になっていなければ、先生だって気にしない。だけど実際こうして手帳はここにある。良かったね。今回盗み出したのが手帳の中身に興味の無い光石さんで。おかげで中身が流出することはなかった。これは彼女の盗み出した情報で記事を書いたりはしない、っていうポリシーのおかげだったけど、もし他の誰かがやっていたら取り返しはつかなかったと思うよ。いやぁ、五条さんから盗み出したのが他の誰でもなく、光石さんで本当に良かった」


「……無知な振りがお上手ですね」


 誰を盗む役に当てるかも含め計算済み、ってわけだ。本当にどこまで考えているのやら。


 それともう一つ思ったのはあくまで公平性と秩序のための行動だったというわけか。


 そんな手帳が盗まれて困るのは五条だけじゃない。多くの人間に迷惑が掛かる。


 今回の事件はつまり五条がしっかりと管理出来るのかを確認するためのテストの意味合いも含んでいた、ということだろうか。いや? 考え過ぎか? どちらにせよ、


 ……そのための手段がコレ、というのはあまりに多くの生徒に負担を掛けていると思うが。


 それがこの教師のやり方なのだろう。悪人かは分からないが、少なくともその冷徹さは善人のものでは無いと感じる。


「違うよ。無知なんだ。君が私を黙らせる何かを持ってこない限り、私は無知なままだ。残念なことに、それが事実なんだよ」


「その言い方だと俺が貴方を黙らせる何かを持ってきたら事実が変わるみたいですが?」


「そうなるかもね」


「……真実はいつも一つって言葉知ってます?」


「真実は一つだよ。だけど真実と事実は別物だ。事実なんてものは観測次第で幾らでも姿を変えちゃうものだからあまり信じない方が身の為かな。……これ、教師の忠告だから憶えておいたほうがいいよ」


「……そりゃどうも。頭の片隅に置いておきますよ」


 吐き捨てるような俺の発言で、会話の流れが切れた。その狭間に、俺は思った。


 ────終わり、か。


 苦虫を噛み潰すような表情を浮かべながら、俺はそれを自覚した。


 結局最後まで教師の顔を崩すことなく、最後には教師としての言葉で締められる。


 そもそもバトルステージにすら立てない程の惨敗だ。


 ……ああ


(……クッソ!)


 俺は思わず頭を掻きむしった。掻きむしって、顔を見る。そんな俺に森秋先生は言う。


「随分悔しそうにしてるけど、そもそも君だって勝つつもりで来てないでしょ? もし仮に私が黒幕だったとして、だとしたら証拠を掴んで来るはず。無いものは無いのだから仕方ないけど、でもここに来ている以上君は負ける気で来た。今更悔しがるのは何故かな?」


「負ける気で来たといっても負けるのを許しているわけじゃないですからね。悔しいのは悔しいですよ。……だけどまあ、それを自覚してここにいるってわけで、つまり言いたいのは……」


「宣戦布告、ってわけだ」


 俺の言葉を遮って、森秋先生は断言する。どこまでも人の心を見透かすような言動は、まさしくあいつを彷彿させる類の人種なのだろう。俺は放とうとした言葉を


「……人の言葉を盗るのは良い趣味じゃないそうですよ」


「悪い趣味ついでにもう一つ。そんなに悔しがっているキミに、改めて私はこう言ううよ。……今回はキミの負けだ」


 森秋先生は白紙の神に△を一つ描き、そこに点数を書き加えた。


 ……五十点。


 どうやら赤点を貰ったらしい。

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