20話



 光石が放り投げた袋。


 それは宙に一瞬留まるようにして浮かび、しかし直後には自由落下を始めた。地面に引かれるように落ち始めたそれを俺達はただ視線でしか追えない。


 あまりにも唐突だった。


 印象だけで言えばそもそもとしてこのような盗みを働くようには見えない大人しそうな女の子。


 そんな彼女がこのような事件を引き起こしたことですら驚きなのだ。


 それですら驚きにも関わらず、その上人の私物を放り投げるというアンモラルな行為は周囲の者を固めるのには充分な破壊力だった。


 そんな誰もが突然の事態に反応が遅れる最中のことだ。ただ一人だけが叫ぶ。


 ────進一君!


 背後から聞こえた声に俺は振り向かない。振り向くよりも先にもう一つの叫びが聞こえたからだ。


 それはあまりに理解し難い叫び。聞き間違えかと勘繰るも、しかし確かな意思を持っているが故に俺はその言葉をはっきり真実であると理解出来た。


 彼女は……シャーロック・ホームズは俺にこう命じた。


「飛び降りたまえ‼」


「⁉」


 ここは校舎の三階だ。飛び降りろなどという指示は到底信じられるものじゃない。というか応じられるようなものではなかった。


 だってそうだろう。下手をすれば死すら有り得るシチュエーションだ。


 そんなものを平然と命じるホム子は果たして人の心を持っているのだろうか。


 ……そんな疑問を抱いた刹那。


「────ッ‼」


 既に身体は駆けだしていた。


 『飛び降りろ』。


 そう指示が出た瞬間には一切の躊躇いも無く、俺は窓へ向かっていた。


 自分でも不思議だった。何故俺はそんな無茶を、思考する間も無く選択出来たのか。


 ……いや、正直に言おう。嘘偽りなく言えば、それは信頼していたからと言う他ない。


 そんな信頼という不確かな根拠を後押しするように、ホム子は続ける。


「大丈夫だ!」


 ……本当に大丈夫なんだろうなあ‼


 先に言っておくが、それは俺がホム子という少女を聖人君子だとか正直者だとかという意味で信頼している、なんてわけではない。


 人としての信頼をする程俺はまだホム子のことは知らない。


 こんな短い付き合いでその人物を知った気になるのは相手に対する侮辱だ。


 故にそんな性根の部分を信じているわけではない。信じられるわけがない。


 俺が信じたのは純然たる彼女の才覚。


 あの女は飛べと言った。ならば飛ぶのがこの場の正解なのだ。


 あの女は大丈夫だと言った。ならば俺は大丈夫なのだ。


 もし俺が窓から飛び降りて怪我をして追えないとなれば、そもそも俺が飛び降りる意味は無い。


 だったらあの女はそんな指示はしないはずだ。


 共犯者を捕まえるために俺に追わせたのだから、俺はこの場から降りても追えるのだ。


 彼女はそこまで読み切り俺に指示を出した。ならばそれで応じるには充分過ぎる理由になる。


 そんな信頼だ。それが俺なりの信頼だ。


 窓の下部へと手を掛け、勢いままに俺は外へと飛び出した。


 身体は支えを失い、重力に囚われる。そうする最中俺が下に向けた視線はあるものを見る。


 ……腕が!


 真下。落下していく手帳を受け取るように校舎側から腕が伸びていた。


 顔や背格好は分からない。窓から腕しか出ていないので分からないが、しかしこのタイミングでこの行動。


 間違いなく共犯者なのだろう。


 そしてもう一つ。視界に入ったのは更にその下にある……


「飛鳥君! 指示は完遂しているかね⁉」


「はいっす! この部屋の真下に、準備しておいたっすよ……マットを!」




 緑色の分厚いマットが下には敷かれていた。俺が落ちてくるのを知っているかのようにそれは待ち受けている。恐らくホム子が射場に指示したものだ。


 確かにこれなら落下しても俺は無事なのだろうが……疑問が残る。


 何故共犯者はこのマットを放置していたんだ?


 共犯者が待機していたのは風紀委員室の真下。


 学校の中だ。当然そこで待機していたのならば射場があそこにマットを敷くところを見るだろうし、確認しているはずだ。


 にも関わらず何故そのまま放置していたのか……


 ……いや、違う。


 俺は考えを改める。それは普通だ、と。


 共犯者の行為に不思議はない。


 いくら目の前にマットがあろうが、いくら自分の策が見抜かれそのマットに誰かが降りてくるのを予測していようが、常人であるならば、ならばこそマットをどかすなんてことはしないだろう。


 追跡者が降りてくるのを知った上でマットをどかすなんてことを平然と行えるような奴はそういない。


 追跡者なんぞ死んでも良いと思っている極悪人なら別かもしれない。


 だがここは学校だ。そんな極悪人がいる程荒んでいるわけじゃない、普通の学校。


 勿論全員、などと言うつもりはない。しかし大概は良識ある普通の人しかいないだろう。


 なればこそホム子はそこまで読んでこのような指示を出した、というわけだ。


「……腹立つなあ!」


 ホム子の掌の上で踊らされているような気分だ。


 そう思い恨み節を吐いた頃ようやく落下の終わりが来た。


 視線が一階窓と平行になった瞬間見えたのは既にもぬけの殻となった一室の部屋。


 だが微かに、開け放たれたドアの向こうにブーツの踵が垣間見えた。




 共犯者だ。共犯者の影が確かに見えた。

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