14話



「……もしかして君は、今まで私のことを心の中で、そのようなふざけた調子で読んでいたのかい?」


 ホム子というワードを耳にし、彼女は怒りに身体を震わせ詰めよって来た。


「……いや、その……。正直、高名な名探偵の名を日常会話で使うのは個人的に気恥ずかしさみたいなものがあってだな……」


 この気持ち分かってくれるだろうか。


 偉人であったり芸能人であったり、そういった者と同名の知り合いがいるとどうも素直にそう呼ぶ気が起きないのだ。


 何故だろうか。自分でも疑問だ。あれか? 可愛いな、と思う子がいても母と同じ名だと何故か好きになれない心理と似たようなものか?


 ……いや、これは多分違うな。


 ともかく、あまり好みじゃないのだ。


 しかも今回の場合はかの英国紳士の名である。


 格好つけるつもりは無くとも名が持つイメージが格好良いもので、どこか自身の心の中にいる冷静な部分が自分に対して格好つけるな、と突っ込みをいれてしまうようだ。


「だがまあ悪く思うなよ。お前だって俺のことを変なあだ名で呼んでいるだろ? おあいこだ」


 一瞬で驚きから憤慨へ、そして苦虫を噛み潰したような顔へと移行したホム子の顔は見ていて中々面白かった。


 そうして何とか俺の言ったホム子という言葉を咀嚼して呑み込んだ彼女は激しい葛藤の末、


「……良いだろう。私は君を進一君と呼ぼう。その代わり、今後一切私をそのような名で呼ぶことを禁じる! 名前は正しく呼ぶ! それが礼儀ではないかい⁉ いいかい⁉」


「まあ、それがフェアってもんか。……って、お前もさっきまで正しくなかっただろ、俺の名前」


 しかしこれに関してはまったくの正論である。


 やはり名前とは正しく呼ばねばならないものだ。


 それが礼儀だ。


 相手が正しい礼儀を向けるのなら、俺とて正しく返す用意がある。


 いやはや、ホム子の割に中々良いこと言「心の中で思うのも禁止だ! いいかい⁉」……流石は名探偵を自称するだけある。素晴らしい洞察力だ。


「了解したよ、名探偵。……これでいいか?」


「……ふむ。正直まだまだ糾弾が足りていないが……手を打とうじゃないか」


 言葉通り納得した様子こそ見せなかったが、取り敢えずはお許しを頂けたようだ。


 そうして扉の前にいた俺を押しのけて頬を膨らませたホム子……記述においてはこのまま続ける……は扉を開ける。建付けの良い扉はスーとスライドして内部を曝け出した。


 誰もいない広い部屋だ。前回来たときと比べ何か変わったように思える箇所は見当たらない。


 そんな部屋に足を踏み入れた俺達。さて……


「良い天気だな……」


 俺は迷うことなく歩みを進めて前へ。


 自然な足取りとテンションで窓際まで行き、五月の清涼な空気を全身で浴びようと窓を開け放っ「わだっちサイテー」……はて?


 何故かそんな自然派な俺に対して射場は酷く侮蔑を含んだニュアンスで呼びかけた。


「なんのことだ?」


「……当然のことながら、こんな中途半端な時間に着替えをする女子はいないよ」


「な、なに言ってんだよ⁉ 別にさっきの話聞いたからって窓の外を覗いてるわけじゃねえからな!」


「いやいや、いくら何でも露骨っすよ、わだっち。自分のことを天気の良さで喜ぶキャラだとでも思ってるんすか? それギャグっすか?」


「言い方ってもんがあるだろうが……。なんだ? 俺はそんな爽やかなことで喜んじゃならんのか?」


「太陽の眩しさで起きた時太陽相手に切れてた人っすからね、わだっちは。そんな人が自然で喜ぶわけないじゃないっすか」


「君は……なんだ、随分と生き難い性格をしているね……」


「なんだよその目は。憐れむな」


 非常に不愉快だ。こちらは何もしていないのに勝手に覗き魔扱いするとは、こいつらに人の心というものは無いのだろうか。


 しょうがなく、こんなくだらないことで疑われたくは無いのでしょうがなく、俺は窓から身を引いた。


 そうして改めて部屋を見回す。


 しかし見て分かる変化なんてものはそうそう見つからない。強いて言うなら部屋の隅。


 開けられた木製の棚から見える黒の金庫ぐらいだろうか。


 重厚な金庫だ。壊れた様子は見えない。


 その金庫の前にホム子は跪いて観察を始めた。


「……これが件の金庫だね。タッチパネル式金庫。四桁の数字を打ち込めば開く、指紋認証は無い、簡単な金庫だ。しかしながら無理矢理こじ開けたという感じではないね。正攻法だ。ああ、一つ質問だ、飛鳥君。これは当然事件発生以降誰も触ってはいないね?」


「そうっすね。れいなっちが開けて気付いた、って流れっすかられいなっちは触ったけど、それ以外の人は一度も触ってないと思うっすよ。近付かないように、って一番最初に注意してたっすし」


「よろしい。素晴らしい判断だね」


 指を鳴らしたホム子は次に射場へと手を差し出し、何かを要求する。二本の指でクイクイっと曲げる彼女から、射場は頭に電球マークを浮かべながらホム子が持参した鞄へと手を入れ、漁り出した。


 引き抜いた手に握られていたのは耳かきのような、綿が着いた細い棒と……


「それはこの間見せられた……」


「──アルミパウダー。いわゆる指紋採取キットだ」


 取り出した諸々は指紋採取キット。


 以前見せられた品ではあるが、一般人である俺からしたら刑事ドラマでしか見ることなかった品物を慣れた手つきでそれらを金庫へと振りかける姿は、中々にそそられるものがある。


 普段はうるさいその口を閉じて丁寧な粉を落とこと数分。


 思わず見入ってしまったことを自覚した頃にはもう粗方作業は終了していた。金庫の表面には無数の指紋が浮き出す。


 現実でこのような場面に直面するとは思ってもいなかったのである種俺は感動すら覚えた。


 と、そこまで見て俺は一つ思い出す。


「そういやこれ、指紋を採取できても照合は無理なんだろ?」


「残念だが、その通りだ。指紋の照合とは中々に骨が折れる作業でね。素人が肉眼で判断出来るものでは無いし、参照するデータ群もない」


「……じゃあ何のためにこんなことしてんだ?」


「一つは実験のためだ。充分に指紋を取れるか、のね。そこに関しては合格点を与えられる代物だと思うよ。それともう一つは……なに、指紋が教えてくれる真実は決して一つではない。見たまえ。君はここから実用的な情報を何かしら得られないかね?」


「情報って……」


 さあ! と自慢気に披露するホム子。期待するような面持ちでこちらを見てくるが……


「……正直、そうなってしまえばただの汚れにしか見えないぞ。全部が全部同じような指先にしか見えないし、目立ったものも無い」


 俺は答えた。確かに言われて見れば指紋の僅かな違いなんてものは肉眼で判別出来ないし、粉の付着具合もまちまちだ。分かることは目立つことが無いという一点だけ。


 そう素直にギブアップを伝えたのだが、しかしホム子は言う。


「その通り! 君に言った通りだとも、進一君。重要なのはその点だ。目立った指紋が無いというその点だよ!」


「? 一体どういうことだ?」


「これらの指紋に目立った違いは無い。では目立った指紋の違いとは何だと思う? そう! それはズバリ指紋の『向き』だ!」


「…………利き手か!」


「そうだ!」


 繋がった思考に思わず大声で答えた俺に、より大きい声でホム子は返した。


「指紋の照合は不可能であっても、指紋がどちらの手によって付着したのかを判別することは出来る。ここに浮かび上がった指紋はどれも同じ向きをしているだろう? それはつまり、金庫の所有者である玲奈と犯人の利き手は同じであることを意味しているのだよ」


 言う通りだ。


 多くの箇所やボタンの押し位置。それらの指痕は頭が左へと傾いている形の物が大概だ。


 それはつまり、ここに触れた人物が主要な操作を左手で行っていたことを意味している。


 そして思い出した。確か以前ホム子に聞いた五条玲奈のパーソナルデータでは……


「左利き、だったな」


「AB型の左利き。彼女の密かな自慢だね。しかしこれは大きな手掛かりだ。左利きは比較的少数派と言えよう。大雑把に考えて右利きの人間は容疑者から除外しても良いだろう。……一応だ、飛鳥君。このことを玲奈へと伝えてはくれまいか? ついでにこの場の写真も撮影しておいてくれたまえ」


「オッケーっす!」


 言うなり、射場は携帯を取り出してパシャパシャと現場保存を始めた。


「……私も撮影していいですか?」


「ああ、構わんよ。私に君を止める権利は無い」


 言うなり光石は元々持っていたカメラを構えてフラッシュを焚いた。


 古めかしい、大きめな一眼レフカメラだ。小柄な彼女に少々似つかわしくないと感じてしまうのは失礼だろうか。


「撮影ぐらい自分ですれば良いだろ」


「ふふっ……。それは難しい相談だね」


「……なんでだ?」


「写真のデータで携帯の容量が圧迫されるのは嫌なんだ」


「急に現実的な悩みを口にするんじゃねえよ」


 そんな理由でこき使われる射場が可哀そうでならない。

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