3話
ペラペラと紙をめくる音だけが部屋に聞こえる。
どれぐらい時間が経っただろうか。軽く短編を読み終えたタイミングで俺は視線を本から上げて軽く首をほぐすように左右に傾けた。
丁度良く、と言うべきだろうか運悪くと言うべきだろうか。
どうやら向かいの相手もひと段落ついたようで、互いの視線が交差する。
目が合って生まれた少しの間を嫌い、俺はなんともなしに口を開いた。
「……随分無駄なのが多い部屋だな」
「この部屋のことかい? 大半が私の趣味と研究と好奇心の産物。つまりは知恵の結晶さ。見たまえ。これなんかは私オリジナルの自作指紋採取キットだ。結構自信作だよ」
「そりゃ……凄いな」
見たまえ、と言われ見せつけられるのはビンに入った白い粉。
見たところで白い粉、という情報以上に得られるものはないのだが、それでもなんと言うか……やはりこの手のキットは少年心が刺激される。
凄いな、というコメントは中々に本心を含んでいると自己分析できる。
「ま、採取した指紋を照合する機械も参照データも無いんがね」
「……なんのために作ったんだ?」
「言ったろ? ここにあるのは趣味と研究と好奇心の産物。……つまりはただの道楽さ」
「ああ、そうかい……」
最高に無駄なやり取りを経て、ふと外に顔を向ける。
窓から降る光の加減。この部屋に入ったときと変わらないその光の無変化さは、春先から夏にかけて陽が長くなってくるこの時期特有の今何時だっけ? 現象を引き起こす。
スマホを開き、時間を確認する。
それを見た目前のホム子が時間を聞いてきたので「もうすぐ十八時だ」と答えた。
いつもならもう帰り始める時間だ。
そう考えたとき、彼女はなるほど、と呟いた後、そろそろだなと口にした。
「?」
なんのことだ? そう尋ねようとした自分の耳に、まず聞こえたのはギィという軋むような音。古い木造校舎特有のそれが徐々に、短いテンポでこちらに近づいてきた。
その音の正体は部屋の扉前で止まって、次に一拍も置くことなくコンコンというノックを行った。
「入りたまえ」
ホム子は見越していたのか。突然の来訪者に驚きもなくそう応えた。
「邪魔するっすよー」
建付けの悪いドアを苦も無く横にスライドする様子は随分慣れたものだ。日常的にこの部室を出入りしているのが見て取れる。
ドアを開いた先に見えたのは明るく長い髪に短いスカート、小麦色の肌はいわゆるギャル系と言える人物だった。
失礼な感想だが、このような薄暗い旧部室棟には縁遠いジャンルとしか思えなかった。
……もちろんこの部屋に対する失礼だ。彼女を馬鹿にする意図は無い。
「ほむっち久しぶりどもどもー。……ってわだっちじゃないっすか? どうしてここにいんの?」
「射場飛鳥(いとばあすか)女史。その『ほむっち』なる呼び方はやめてくれと何度言ったらわかるのだ……」
「えー。でもほむっちはほむっちじゃないっすか。本名長くて忘れるんすもん」
「無駄だぞほむっち。射場にモノを覚えさせるのは獣を躾けるそれと同レベルだ」
「そうそう……って、今アタシのことバカにしたでしょ⁉」
「君たち。だから私のことはホームズまたは名探偵だと……」
射場飛鳥。その名前と顔には確かに覚えがある。同じクラスなのだから当然の話であるのだが、個人的因縁としてはライバルと呼ぶのが適切だろう。
「ゴールデンウィークの補習以来っすね。突然いなくなるとかずるかったわー」
「ふっ、俺はお前と違って一年の期末で全教科赤点なんていうパーフェクトするバカとは違うからな。補習期間もお前とは違うのだよ」
「何教科赤点だったんすか?」
「聞いて驚け。……二つだ」
「おお……っ。流石っすね……。自分は今回四つっす」
「……もしかして君達、この場でとても低次元な争いをしてるのではないだろうな」
ライバル。それはつまりクラス内学力ランキングで最下位を争う間柄ということだ。とはいっても現状俺が圧倒的なリードを保っているためひとまずは安心している。
「で、そんなバカなわだっちがなんでこんなところいるんすか?」
「バカは余計だ、バカは。……まあ説明するのも怠いから手短に言うが、つまりは今日からここに引っ越してきたんだ」
「なーる。了解したっす」
理解が早くて助かる。……いや、違うな。そもそも聞いといたくせに理解する気がなかっただけだ、こいつ。
「というか、それなら俺の方が疑問だぞ。なんでお前みたいなバカがこの名探偵様と交友持っているんだ?」
「あー! またバカって言った! いやまあ、事実なんで否定する気はないんすけど、わだっちにバカ扱いされるのは複雑なんすよねぇ。……まあいいっす。ここに来た理由なら……」
口を開き答えようとする飛鳥が言うその前に、ホム子は知っていたかのように言い当てた。
「私に対する依頼……だろ?」
「その通りっす! 流石はほむっち! しかも今回は会長直々っすよ」
はいこれ、と胸元から取り出したのは一枚の紙。
……胸から⁉
「あー。わだっち何見てるんすかぁ? エッチ」
「失礼な。あんな女怪盗みたいな仕草したら男ならみんな見るに決まっているだろ。つまり俺がスケベなのではなく男はみんなスケベなのだ」
「……なんのフォローにもなってなくない?」
そんなことを言い争っている二人を蚊帳の外に、ホム子は渡された紙片を凝視していた。
さっさと開けばよいものを、まるで爆弾の梱包でも疑っているのかと突っ込みを入れようかと思うほどに様々な角度からグルグルと。丹念に、とはまさしくこのことを言うのだろうといった具合だ。
「会長って……ああ。そういやお前って風紀委員だっけ?」
「そうっすよ。バリバリ取り締まってるんすから」
イエイ、といった感じで腕に巻きつけられた腕章をこちらに向けた。
「お前みたいなやつがよく入れた……っていうかよく入ろうと思ったな」
「さっきから失礼っすねぇ。こう見えて自分真面目なんだぞー。っていうのは別として、まあこのガッコクラブ強制じゃないっすか? だけど自分運動苦手だし、どっかしらの文化部入る程熱中してるものあるわけじゃなかったもので……」
ああ……。成程、と俺は納得した。
「生徒会と風紀委員会はクラブ加入が免除されるんだったな。免除っていうかそれだけ活動があるってことなんだが。それで俺は遠慮したんだった記憶がある」
「それがそうでもないっすよ。そりゃ役職持ったら大変っぽいけど、ウチみたいな下っ端は数も多いしその分仕事は楽だし」
ほーん、そうだったのか。それならこんなよくわかんない部活とは縁を切って風紀委員に鞍替えするのも良いかもしれない。
そんなことを考えていたとき、それまで黙っていた名探偵が突如として声を上げた。
「──ふむ。理解した。それでは行こうじゃないか」
簡潔にして明確なその発言を、しかし俺はそのときまったく理解していなかった。
何処に行くのか。何をしに行くのか。何故そんなことになったのか。どんな依頼なのか。
彼女の『理解した』という発言が、果たしてどこまでを指し示しているのか。それを俺が理解するのはもう少し先の話故、そのことに関する記述は今置いておこう。
「行くって……なんのことだ?」
そう問う声に、彼女はとびっきりのキメ顔で答える。
「ふっ。名探偵が出かける先なんてひとつしかない。そうだろ? ワトソン君」
重要なのはこれがシャーロック・ホームズを自称する名探偵との初めての事件であること。
そして……
「事件だよ。付いて来たまえ」
この部から出ていくという俺の目論見は、所詮儚い幻想でしかなかったという点だろう。
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