ずぶぬれ

王子

ずぶぬれ

 幸せになりたい、というのが先輩の口癖で、いつも溜息をついては誰に聞かせるでもなく定型句のように吐き出し、飼い犬みたいに抱きすくめられて逃げ場を失った僕は重苦しく降りかかる吐息を黙って受け止めるのが常となっていた。

 犬というのはあながち間違いでもなく、先輩は僕を癒しグッズだと考えているようで、自分の好き勝手に気が済むまで抱き締められればそれでよく、なんなら僕と同じサイズのテディベアでも十分に役割は果たせるだろう。テディベアが好き勝手に抱きつかれる係を免除されているのは僕がおとなしく忠犬のように役割を全うしているからだった。

 放課を知らせるチャイムが鳴った後、僕達は正面玄関で待ち合わせをして道草もせずまっすぐ先輩の部屋に向かい、文庫本を開いて三角座りする僕を先輩が後ろ抱きにする。先輩は床に膝をついて僕の首やら胸まわりに両腕を巻きつけ体重を預けて目を閉じる。あごが肩に乗せられていることもあれば、肩甲骨の間あたりにひたいが押し付けられていることもある。僕の目の前には姿見すがたみがあってときおり鏡越しに視線を感じることがあっても本から目を上げることはないし先輩もきっとそれを望んではいない。暑い日も寒い日もとっぷり日が暮れるまでくっつきあって、家の主である先輩の叔父さんが帰宅する前に僕はひっそりとおいとまする。別にやましいことなど何一つしていないけれど、先輩は僕を叔父さんに会わせたくないのだと言う。毎日、毎日繰り返される僕達のルーティーン。

 日が短くなり窓から入り込む風も肌寒く感じられるようになってきた。いつもどおり文庫本を開くと背中に重みが加わり黒く艷のある髪がぱらりと頬を撫でてくすぐったい。はあ、幸せになりたい。先輩が耳元で呟く。本日一回目。

 先輩は容赦無くのしかかってくるので僕も押し潰されないよう重心を後ろに傾けて力の均衡を保たなければならない。うまいこと二人の力が釣り合う場所を見つけてしまえば何のことはない、僕は読書に集中できるし先輩は思う存分抱きつき欲を満たせる。作用と反作用。中三の範囲だったと思う。先輩はもう習っただろうか。以前に読んだ科学雑誌によれば、力は等価交換されるものであり必ず相手が必要だ。一方通行にはならず互いに影響し合う。良くも悪くも人間関係みたいだ。

「何読み始めたの、新しい本でしょ」

「いちご同盟、ですね」

「ふーん」

 たまに話しかけてきてはこんな具合だ。返答に反応はするものの、そもそも返答を求めているわけではないのだろう。飼い犬に「ただいま」と声を掛けるようなものだ。

「ハッピーエンドなの、それ」

「今から読み始めるんだから、まだ分かりませんよ」

「まぁ、そっか。誰も死ななきゃいいね。特に心中とか最悪。ハッピーエンドがいいよ」

 先輩の中にはハッピーエンドとバッドエンドの二つしかなく、バッドエンドは許されない結末なのかもしれない。幸せになりたい幸せになりたいと唱え続ける先輩らしい。ハッピーエンドへの道は正しく美しく、バッドエンドへの道は歪んでいて醜い。小説の結末はその二択に限られないし、ハッピーだろうがバッドだろうが良しとするものだ。でも幸せな結末を純粋に求める先輩も悪くないと思う。

「幸せってさ、狐の嫁入りみたいなものだと思うんだ」

 珍しくなかなか読書をさせてくれない。部屋に来てから僕が帰るまで一言も声を発さないときもあるというのに。締め付ける力が心なしかいつもより強い気もする。

「天気雨のことですか」

「そう。滅多にお目にかかれないし、来ても一瞬。すぐにどこかへ行っちゃう」

 先輩の考える幸せは僕が思うよりずっと消極的だった。幸せなんてそこらじゅうに転がっているものであって拾い損ねて悪態をつくことはあれど、奇跡的な遭遇だとかすぐに過ぎ去っていくものだとは考えたこともなかった。

 つまり、

「先輩、もしかして幸せのハードルが高いんじゃないですか」

 先輩の幸せとはなんだろう。初めて触れた作家が当たりだったみたいな些細な事ではないのだろう。

「そうかな。不幸の方が多いものじゃないの人生って」

 十数年しか生きていない身では何とも言いがたいし先輩の人生グラフの推移を追ってきたわけでもないけれど少なくとも僕よりはそう実感することが多いのは確かなのかもしれない。一度も見たことがない先輩の両親のことも叔父さんと同居しているわけもあえて尋ねはしなかったけれど、親類に引き取られ住まわせてもらっている僕にはなんとなく事情を察することができたし、先輩が幸せになりたいと常々口にしている理由がそこにあるのかもしれないと思い至るのは容易だった。あの口ぶりでは痛切に幸せを欲しているのだと他の人には分かりづらいだろう。

「じゃあ不幸をたとえるなら何ですか」

「五月雨かな」

 いつまでもだらだらと降り続ける雨。先輩の頭上には停滞する雨雲がいつまでも居座り続けているのか。幸福は天気雨、不幸は五月雨。

「それじゃあ雨ばっかりじゃないですか」

「言えてる」

 先輩は手のひらを口元にあて、ずいっと僕の耳に近付けて秘密をささやくように言った。僕がびくりとしたのはそのせいじゃない。部屋の外で物音がしたからだった。先輩の声で耳がおかしくなっていないなら玄関の開いた音で間違いない。

「帰って来たね」

「誰がですか」

 先輩につられて小声になる。

「誰って私と叔父さんしか住んでないんだよ」

「まずくないですか」

「かもね」

 先輩は楽しくて仕方がないのをこらえるようにクツクツと小さく笑いながら両腕に更に力を込めた。

「どうする? 玄関に靴置いたままだね」

 言われてハッとする。一方でスニーカーが一つ増えているだけでは男が上がり込んでいるなんて分からないんじゃないかと楽観的な考えもよぎる。

 突然、目の前が真っ暗になった。

「ほら、部屋の前を通るよ。大丈夫、もしドアが開いても私がなんとかしてあげる」

 先輩の上体が僕の頭部をまるごと包んでいた。五感から欠けるものがあると他の感覚が鋭敏になるのは単なる気持ちの問題ではなく人間の生存本能がそうさせているのだと科学雑誌は言っていた。まさにそのとおりだった。先輩の制服からは独特の甘い匂いが漂って鼻をくすぐり今までないくらいに先輩の体温が熱く感じられ、いつもは背中にあって気を逸らしていたはずの柔らかな感触も後頭部に押し付けられると意識せざるを得なかった。脳は酸素が足らないと叫ぶ。わずかな隙間から必死に空気を吸い込む。

「苦しい」

「静かにして。いい子だから」

 そんな言い方をされると本当に拾われた犬になった気分だ。僕が得られる外部の情報は全て先輩に埋め尽くされている。部屋の外の様子は分かりようもない。頭がぼうっとしてくるしよく分からない幾つもの感情が混ざりあいぐちゃぐちゃになって渦巻くせいで体は異常な熱を発している。

 気が遠のきそうになりいよいよ振りほどこうと思ったとき、ようやく先輩の力がゆるんだ。大きく息を吸うと冷たい空気が肺に流れ込んでくる。

「どうせ気付かないよ。今日は真昼間から呑み会だったから。こういう日は帰って来てすぐに寝ちゃう」

「この時間に帰って来るの知ってたんですか」

 綱渡りなイタズラは勘弁してほしい。座り直して文庫本を拾い上げる僕を先輩はいつものポジションで抱きすくめた。

「でもさっきの、すごく幸せだったかもしれない」

 よく分からなかった。ただの先輩と後輩の関係でしかないのに、体にしがみつきしがみつかれる以上は何も無いのに、どこに幸せがあるというのだろう。

「君は幸せだった? さっきも今までも」

 部費やら用具代やらで家計に負担をかけたくなくて帰宅部を選んでいた僕と同じく帰宅部だった先輩に半ば強引に家まで引きずられて「全く下心は無いから安心してほしいんだけど私の悪い癖に付き合うと思って黙って抱きつかれててくれない」と言われたときは驚いたけれど同時にこの人は居場所を求めてさまよう同志なのだと思った。「明日も来てくれるよね」と言われたときも家に帰りたくなくて時間を潰していた場所が図書館から先輩の部屋に代わるだけでそれどころか家と反対方向の図書館から通り道にある先輩の家になる利便性が抱きつかれているだけで手に入るのは幸運だと思ったしそれを幸せと言っていいのなら今まで僕は幸せだったのだろう。ただ僕と先輩の意味する幸せが全く違うベクトルにあるのは間違いなくて答えにきゅうしたから答えをにごす。

「どうしたんですか。なんか今日、らしくないですよ」

 先輩は僕のうなじにぐっと頭を押し付けた。

「夢を見てさ。卒業式の。卒業生退場ってなって体育館の出口に向かう途中君がいて私に花束を差し出すんだ。『今日もうちに来るよね』って訊いたら君は何か言ってるんだけど拍手がうるさくて聞こえない。流されるまま出口をくぐると目が覚めて。起きてからもしかしてあの唇は『さよなら』って言ってたんじゃないかってすごく怖かったんだ」

 そんなことか。普通の人らしいところもあるなと思いつつ文庫本に視線を落とす。

「そうですか。じゃあ卒業式の日も来ますよ」

 その先は分からないから答えようがない。いつか抱きつかれることに嫌気が差したり図書館が家の横に移転したり悪癖の治った先輩が僕を五月雨の中に放り出してずぶ濡れの捨て犬にしたりするかもしれない。もとよりギブアンドテイクの関係だ。だからたとえどんな形で二人の仲が終わるとしても僕達に「さよなら」は要らない。

「先輩、窓閉めませんか。いい加減寒くないですか」

「寒いのがいいの。もっと密着したくなるでしょ。はぁ、あったかい幸せになりたい」

 なるほどそれじゃあこの役割はテディベアには務まらないだろうなと思った。

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