充質 金木犀
「地面に咲いている時は無色透明。踏まれて勢いよく宙に飛び上がり百花繚乱の花を舞い散らす。そして、地面に落ち切ればまた無色透明に戻る」
「訂正を入れる」
「わかった。どう変更するかは後で聞く。被子植物は変わりない?」
「ああ」
「花びらや萼、おしべ、めしべ、葉、茎、根の形状と色はまだ決めていない」
「ああ」
「匂いも?」
手が遥かに届かぬところまで香りを立たせるこの甘い匂いは、懐古の情を抱かせるのだろう。
金木犀が香る範囲内に入ってから、数分後。
舞子は今の今まで一言も追及しなかったひびなが創生したい花について、より具体的な説明を求めた。
「匂い、か」
「この金木犀みたいに、広範囲に香りを届かせるか、鼻を極限まで近づけないとわからないような仄かな香りか。甘いか酸っぱいか苦いか塩味か。後を残らせるか、残らせないか。どの程度にするか」
「ようやく仕事をする気になったか?」
「匂いも決まっていないという事でいいのね?」
要点から外れた会話の応酬を楽しむつもりはないらしい。
そう悟ったひびなはつまらなそうに肩を上下させた。
「いいのね?」
「そう急くな」
「早く知りたいの」
予想以上に、やる気がみなぎっているらしい。
今まで、眠ったり食べたりしているだけだったので、その反動だろうか。
ひびなはせかせかと歩き続ける舞子に添いながら、これ以上先延ばしにせずに、答えを返した。
「冬の雪が降るような空の匂いから素朴な甘い匂いに変化する香り」
「わかった」
素っ気ない一言のあとに、何か言葉が続くかと思ったが、それだけらしい。
ひびなは眉根を寄せた。
「意外だなと思わないのか?」
「思った。もっと、華々しい香りとか、甘いのも酸っぱいのも苦いのも塩っ辛いのも旨みも代わる代わるに飛び出す香りとか、未知の香りとか言うかと思った」
「思ったなら何故そう言わない?」
「・・・面倒だったから、と、そんな気分じゃなかったからが、入り混じってたから」
「・・・・・・・・・」
「不服?」
「こちらに来てからは色々と話してくれたからな。正直、不服だ」
「それは、ごめん」
「・・・いや、俺も悪かった。もっと、舞子と話したかったから、せっついてしまった」
舞子が立ち止まったので、ひびなも彼女に倣った。
見上げずとも、眼前に在る金木犀。
幹はかろうじて登れる太さだが、枝と言えば、幼子でも登ろうとすれば、ぽっきり折れてしまいそうなほどに細い。
その数々ある枝から派生するのは、遠く届く芳香からは想像できないくらいに控えめな色の橙の、それはそれは小さな花々の連なりと、生命力の強さを示すような濃ゆい緑の葉の数々。
「言葉が時々、煩わしくなる」
「独りになりたいか?」
自ら問うて、初めて気づく。
こちらに来てから。舞子が死んで天界に来てからは、常に共にいた事を。
天界では、仕事や風呂などで離れる必要もなければ、独りになれる部屋も無いのだ。
失念していたと、ひびなは臍を噛み、深々と頭を下げた。
「悪かった。配慮が足りなかったな」
頭を上げて舞子を直視すれば、舞子は頭を小さく振った。
「違う・・・くないかもしれないけど、違う。独りになりたいわけじゃない」
舞子が強く頭を振れば、大気が呼応するように風が吹く。
風が吹けば、芳香が強くなる。
枝が揺れ、小さなちいさな花々は空で離れて散らばり、地でまた連なり、重なる。
「突然、思った、んじゃ、ないかもしれないけど。口が重くなって。喋りたくないなって。言葉なしで、一緒にいたかった時間だった」
「…そう、か」
「ごめん。話してたんだから、派生した会話だって発生して然りなのに、ぶった切って」
「いや、気にするな」
「うん」
「…疲れたか?」
「ちょっと」
ひびなは腰を下ろし、金木犀の、その若干頼りない幹に背を預けて、地に沿って置いた太腿をポンポンと叩いた。
意図を理解した舞子は、そこに頭を預けて、金木犀を見上げる形で、目を閉じた。
甘い、あまい、香りが身を包む。
重くはない。
軽い。
「今度はゆっくり聞くから」
地上での舞子の仕事ぶりを見ていたのだ。
彼女の相反する気持ちが、なんとなく、ひびなには予想できた。
一度知りたいと思えば、なりふり構わず一直線に答えへと駆け走る。
他に目を向ける事は無い。
答えを知っても、次から次へと、知りたい事が現れる。
それこそ、無限に。
故に、早く、はやくと、己を急かせる。
時間が有限だと知っているから。
探求心を満たす。
満たして、仕事へと還元する。
それだけで満足していたのだろう。
だが、今は、それだけでは満足できない。
共に居続けたおかげか。
単に相性の問題か。
花の創生を早く叶えたい。
その反面、早くは叶えなくていい。
回り道をしたいと。
早くと、ゆっくりと、がごちゃ混ぜになって、どちらかに偏れば、それに嫌悪する。
答えへと一直線に辿り着く為の道具としてしか、言葉を使いたくない。
探求心を満たす以外にも、言葉を使いたい。
話す事なく共にいたいとの言葉に、嘘偽りは無いのだろう。
けれど、それだけではない。
これらの予想は、きっと、見当違いではないはずだ。
「求婚した事を、覚えているか?」
ふわりと、天女の衣のように軽い、この甘い芳香のように、ひびなは身体が浮き立ち、どこどこまでも流れて行けるような気がした。
桜のように、小さな花々を増やし、彩を広がらせて、身体で抱えるには補えないほどの、圧倒する大輪を見たかった。
はずだった、
潰さぬように摘まんで掌に乗せた、指の爪よりも小さな一輪の金木犀に姿を重ねるのは、同等の小ささの雪柳。
「満足、できないはずだったのだがな」
思い浮かんだ映像の中に在るのは、
幾十もの枝に早く早くと成長を促し、空を奪うほどに咲き誇る花々でもなく。
一枝に幾つも連なる雪柳でもない。
たった一輪の雪柳である。
ちいさな、ちいさな、一輪の、雪柳である。
金木犀:花言葉 謙虚 気高い人 真実
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