8.カキツバタ : やって、やる

『結婚するぞ』



 常なら語りかけるは背中なれど。

 この刻ばかりは、回り込んで真正面から見据える。


 机に置く本から顔を上げようとはしない姿勢だけは常と変わらない舞子ではあったが、この刻ばかりは聞き流しはせず。


 この隙間が空いている瞬間が長引けと、強く思う。



『変わる事を望んでいないなら好きにすればいい』

『平日は今迄通りでいい。だが、土日は俺にその身を預けろ』

『いや』


 隙間が閉じる。言葉が届かなくなる。

 内心焦る。

 さらにその内心、何故こんな小娘相手に焦らなければならないのだと、苛立ちが募る。


『預けろと言っても、依子がしてきた事をするだけだ』

『いや』


 姿勢に変動はない。

 しかし、苛立ちが伝わって来る。

 邪魔をするなと。




「で。逃げたしたの~ね」

「……舞子が先に仕事場に向かったのです」


 無言の膠着状態が続いたのは十分ほど。

 椅子を引き、立ち上がった舞子は一瞥もくれることなく、そのまま扉の向こうへと立ち去って行ったのだ。

 行き場のない怒りで暴れ回りたいのを押さえて、俺も出勤し、今は水やりをしていた。


「大体クォーター風情で求婚なんて二十年早いの~よ」


 黙々とラッピング用にリボンを結んでは切るを繰り返し、バタフライボウ、ウェーブリボン、ポンポンボウ、フレンチボウを作り出していく七菜子さんの、耳にタコの発言に反論を繰り返す。


「半人前の間違いでは?」

「クォータ~」


 一文字一文字区切るように言われてはおちょくるような笑みを向けられ、燻るも閉口。

 水替えの作業に専念せんと、花が入っているバケツの取っ手を掴み、片手に一つずつ持ち上げて店の奥の広い水場へと向かった。






『クォーターのくせに生意気よ~』


 昨晩。依子と母君に花屋へと連れられ、酒盛りをしていた七菜子さんに交じり、依子のお別れ会と称した宴会が催される中。


 真っ先に七菜子さんに捕まった俺は、肩に腕を回された密着した身体と酒の臭気に暑苦しさを感じ、一体どれだけ飲んでいるのかと呆れたのも束の間、眠りに就くまでからかわれるのだと思うと、気が一気に重くなった。


 逃れる術など皆無だ。


『俺は純潔の鬼です』

『ばっかね~。女神としてよ~』

『それを言うなら、半人前の間違いでは?』

『半人前にも達していな~いも~の』


 ケラケラと笑い出したかと思えば、俺から離れて依子へと抱きつき、寂しくなると陽気に別れを惜しむ言葉をつらつらと述べては酒を勧め始めた。


 真子と違い付き合いは長いはずなのだが、涙は一切見せなかった。

 酒が入っていなくても、きっと同じだろうと思いながら、解放され傍観に徹した俺は穏やかに酒をちびちびと飲み続けた。


 依子もまた朗らかな笑顔を崩す事はなかった。

 母君も満面の笑顔で暴飲暴食暴笑を続けていた。


 この場には、別れにつきものの、しみったれた空気は一切流れていなかった。




『名前を贈ってもらいありがとうございました。嬉しかったです。ですが、舞子は舞子と呼んであげてください』


『もう私が出て来る事はありません。内側から護る事に専念しますので』


『私も時々は来るから。そんときは一緒にご飯を作ろうな』



 七菜子さんが眠りに就いた事により宴会が終了した朝まだき。

 最後に握手を交わし、目を瞑り身体を預けた舞子を背負った俺は徒歩で、母君はタクシーに乗って家路についた。



 求婚をしたのは、その二時間後。用意した朝食を仕事部屋へ運び、舞子は普段と同様に資料を読んでいる時であった。


 依子の記憶は持っているのだ。

 子細に語るは不要だと結論だけを告げたのだが。





(…惚れた腫れたの感情ではないのだ。世間の女子(おなご)であれば不服であろうが…………変わらなくていいのならば好きにしろと言っていたくらいだ。それは無いだろう)



「…七菜子さん。給料の前借りを願い出たいのですが」


 作業を終えて、ラッピング用の小道具を作り続けている七菜子さんの前に立つ。

 無言で見上げて来るその威圧感に、引き攣りそうになる顔を真顔に保つ。


「地獄に舞子を連れて行きたいのです」


 反応を示さないまま数秒。

 ニヤリと笑う七菜子さんの動向をその場を動かずに追う。



 立ち上がっては数歩、出入り口の方へ歩いて立ち止まり、俺の身長よりは高い硝子の扉を引いて、フラワーキーパーから、取っ手の無い長方形のバスケットの側片面にポンポンボウを飾り付け、白系統にまとめられていたアレンジフラワーを取り出すと、俺の方に差し出した。


 否定の言葉は無い。了承されたのだろうと思いながら。

 七菜子さんの前に向かった俺は受け取り、どこへ配達すればいいのかを問い掛けた。




『舞子さんの会社は常連客でね。毎月フラワーアレンジメントを届ける契約を結んでいるのよ』


『仕事場に居る舞子さんを見た事はないでしょう?きっと驚くわよ』



 一緒に行きましょうかとの誘いに丁重な断りを入れて、車の形容、機能を兼ね備えている地獄の乗り物で、舞子の仕事場へと向かった。













カキツバタ:花言葉 幸運は必ず来る

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