塩分濃度


 あれから何度も右折と左折を繰り返して、僕たちは海に降り立った。天気はおおよそ曇りで、空気は少し重かった。だけど僕たちには関係ない。少し離れた駐車場に軽トラをぶち込んで、ブルーシートを剥がして、両手に余るほどの弁当をちんたら運んだ。夏も終わりかけなので人はほとんどいなかったが、持っているものが持っているものなので、なるべく静かな磯のほうを選んだ。砂浜と言うよりほとんど岩だが、かろうじて足場として安定しそうな、砂っぽいところに弁当を置く。分けてはあったがそれでも重さがあったので、どすんと鈍い音がした。潮風がべったりと肌を撫でまわす。この感じ、まさしく海だ。僕が一番来たかった場所。隣で弁当を放り投げた鳩くんは、しんどそうに言った。


「バカ重い。しかもくせぇ。」

「手がね。生臭い。」

「こんなしんどい海、アリかあ?」


 そこまで言って、鳩くんはあまり濡れてない岩を選んで腰を下ろすと、なるべく手を顔に近付けないようにたばこに火をつけた。そこまでしてでも、避けたい臭いだった。同時に、そこまでしてでもたばこも吸いたいのが、喫煙者のさがなのだ。僕たちの足元ぎりぎりまで、海水が薄く貼っている。鳩くんは一口吸って吐くと、さっき車から一緒に降りてきたラッキーストライクの箱を僕に向けた。


「麦原さんは?」

「うん。ほしい。」


 苦味と辛味がきつくても、やっぱりほしい。僕は普通にヤニカスなんだと思う。あったらあるだけ吸ってしまう。この四日間はさすがに忘れていたけど、思い出したニコチンの味は魅惑そのものだった。しかし、聞いてきたはずの鳩くんはなにか考えている。


「くれないの? 聞いといて?」

「いや、じゃあ、はい。」


 なんとも歯切れの悪い返事の末に、彼は自分のくわえていたたばこを差し出した。一瞬「は?」と思ったが、なるほど、僕のオマージュか。


「なんでよ。新しいのほしいよ。」

「いや、どう言う気持ちでやったのかなって。結構恥ずいすね、これ。」

「あれはほとんど無意識だったの。」


 だけど、潮風で火が消えてはいけないから、僕は理由づけて鳩くんからたばこを受け取った。吸い口が少し湿っている。当たり前だけど、なんか、なんか、なんかだ。鳩くんも変に照れてしまって、俯いて新しいたばこに火をつけている。僕たちは、さっきとはまた別種の沈黙を味わう。ただ足元の砂、岩、波の音、気配を感じるばかり。僕の足はジーンズとスニーカーに守られているけど、鳩くんは草履だし、変な柄のリラコだし、いかんせん防御力が低い。ただの海水浴ならいいのかも知れないが、磯に来るには軽装すぎる。でも、それが普通だ。

 彼の金髪が、傾きかけた太陽光を浴びてきらきら光る。ブルーシート。水の入ったペットボトル。友人の傷んだ髪。日常的だけど、美しいもの。僕は忘れていたのかもしれないと、少しセンチメンタルな気分になる。

 上を向いて煙を空へ送り、空気に溶ける毒素を眺めていると、鳩くんが下を向いたまま話しかけてきた。


「なんで殺したの。お父さんなんでしょ。」

「えっ、なんでわかんの。」

「顔似てる。」

「嘘だ。いや、顔は似てたけど……。」


 僕はビニールの中でべたべたしている父の顔を見た。と言っても、最早これは顔ではない。似ていることが憎くて、ぐちゃぐちゃに潰したのだ。何より腐り果てている。彼の上半身分の体重はそれなりのもので、色付きのごみ袋が少し伸びている。薄くなって浮き出た肉の輪郭。剥き出しになった鼻骨の穴に、変な液が溜まっているみたいだった。抜けた髪の毛がまとわりついていて、ただただ気持ちの悪いオブジェクトに見えた。ピンポイントで顔が見えるなんて、皮肉だ。


「……。」


 鳩くんが黙った。何かを考えているみたいだった。目だけを動かして僕を一瞬見たのは、そのあとに、少し困った風の瞬きをしたのは、なぜなんだ。


「鳩くん。」

「お父さんしかいないと思って。」

「うん。……君は正直だね。」


 言葉の間に煙を挟んで、僕たちは薄い隔たりを設ける。鳩くんは僕の今までを知っている。だから分かったのだと思う。川崎駅前に住み、品川に勤めていた僕が、なぜここにいるのか。なぜクーラーもないような、建付けの悪い畳部屋に住んでいて、キッチンの窓がダンボールで守られているのか。田舎の人間にやたらと嫌われているその理由も、僕の弁当の中身も、弁当が弁当になった理由も。全部、わかっていて、ここまで来たのだと思う。そもそも僕は、親父を殺した翌日に、鳩くんに電話をかけたのだ。

 包み隠さず「親父を殺した。」と申告する僕を案じて、鳩くんはすぐにやってきてくれた。ものすごい夜中で、何ならほとんど朝だったのに、真っ暗な道を走ってきてくれたのだ。今更だが、バラバラになった知らないジジイの死体を見て、よく正気でいられたものだ。僕も普通に血塗れのままで、死体と過ごす二度目の夜に耐えかねて、半ば発狂していたはずだし、何も知らない近隣住民は、朝六時に宗教勧誘のパンフレットを詰め込みに来たし。あの日は僕たち史上最もイレギュラーだった。それでも、僕を一通りなだめて、宗教勧誘を追い返して、今日みたいに風呂に入れて、甲斐甲斐しく飯まで買ってきた鳩くん。血塗れの僕を抱きしめて、「麦原さんのせいじゃないです。」となんども言っていた鳩くん。彼も彼で、変わっているのだと思う。今日だって懲りずに、死体遺棄の共犯者になりにやってきたわけだし。僕は遠くの波を眺めながら、鳩くんに話す。


「少し食べたんだ。親父の肉。」

「ええ? なんで、どうでした?」

「あんまり。おいしくはない……なかったね。」

「史実の食人鬼はうまいって言ってたのに。」


 史実の食人鬼を知っているのはなぜなんだ。変なところで怖い男だ。だけど、今は関係ない。はたから見たら、怖いのは僕の方だ。


「ね。それ、僕も思ったんだ。何が足りなかったのかな、アドレナリンか、セロトニンか……。」

「酒じゃない? それか、たばこ。」

「ああ……。」


 頷いて、促されるようにタールを口に入れた。もう短くなってきた。きっと最後のたばこなんだろうな。そう思うと、やたらありがたく感じた。波がゆっくりと急き立てる。指が熱い。最後の煙、最後の熱だ。僕は細く息を吐いて、たばこの余燼を岩に擦り付けた。丁度いいくぼみがあったのでそっと供えるように置いてみたけど、これってただのポイ捨てだな。僕は立ち上がる。今度はよろけないし、鳩くんの手も借りない。その代わりに、鳩くんは声をかけてくれる。


「いいと思います、俺。人なんか殺しても。」

「ダメだよ。法律で決まってる。法律は守らなくちゃいけない。」


 砂と言うより砂利みたいな地面を踏んだ。立ってから気付いたが、靴底が浸水している。こいつとももう長い付き合いだ、ちょっと疲れているのだろう。


「なんで。あんた住民税も払ってないじゃん。」

「払ってたよー。」


 意外と明るい声が出るもんだ。そして、鳩くんも笑ってくれた。すごく無理をしている笑い方だったけど、それでもよかった。潮風はいつも、思っているより冷たく頬に触る。


 最後まで、僕は鳩くんの言うことを無視してしまった。弁当を引きずって、僕は竜宮城を目指す。今となっては100キロ以上はある僕と言う嫌な重さが、ゆっくりと減ってゆく。罪が流されいるみたいだ。そんなはずないのに。

 死んだ海藻か、流木かなにかに引っかかって、袋が破れた。変な汁が海に交じり始めたが、もうどうでもよかった。僕は足を進める。そこで突然、宇多田ヒカルが脳内に現れた。依然として美しい世界について歌っているようだった。


「麦原さあん。」


 今世の岸から鳩くんが叫んだ。腹まで浸かって、少し寒い僕は、振り返る。


「なあにい。」


 しかし僕は近眼なので、鳩くんの顔は見えなかった。だからもう、海ってこんなに冷たいっけな、とか、ヱヴァンゲリヲン見返したかったなとか、そう言うことを考えていた。


「俺も行こっかあ!」

「いいよお。」

「なんでー!?」


 食い気味に吠えながら、彼はずんずん近付いてくる。砂を蹴り、波を蹴り、僕の背中をまっすぐ追っているようだ。それはもう、「行こうか」じゃなくて「行くよ」じゃないか。僕は反論を口にできない。少しずつ明瞭になる鳩くんの目が、妙に真剣だったからだ。宇多田ヒカルが歌うのをやめた。


「君はさ、なんもしてないじゃん。」


 僕がそう言うと、鳩くんはしっかりとした声で、


「したよ。人轢いた。」


 と返してきた。そうじゃないだろう。そうだとしても、相手は打ち身だろう。僕は殺してバラして食ってるんだぞ。とうとう鳩くんが隣に並んだ。若い顔がすぐそばにある。


「相手が悪いんでしょ?」

「じゃあ、人殺しのこと好きになった。」

「それは罪じゃないよ……。そして好きなの、僕のこと。」


 衝撃の事実だ。唐突すぎてなにも思えない。


「実は。」


 実はね、と繰り返した鳩くんは、それこそ罪の告白みたいに目を細めている。それから、僕の右手から弁当の袋をひったくって、水の中でぎゅっと握りしめた。呆れた。つくづく馬鹿な青年だ。僕なんかに付き合って、なんでか好きにもなって、人も轢いてるし、免停期間すら守らない。


「恋人と、その親父さんと、心中かー。」

「なんで付き合ったことにしてんの。」

「俺と結婚してくださあい!」

「ああ、そこまで言う……。」

「息子さんを俺にくださいぃ。」


 ツッコみづらいボケを散らかして、鳩くんは気を紛らわせているらしかった。水の中からざばんと弁当を引き上げ、顔に寄せて親父に何かを懇願している。別に、僕の所有権が親父にあるわけではない。彼が一番わかっているだろうに。

 波が一層高く迫る。仕事にゆくたび京急本線品川行きの中から眺めていた、恐ろしいビル群を思い出した。目の前で静まり、すっと溶けて消えた水の壁に、僕の自意識も飲まれ始めている。だけど、隣に鳩くんがいるから、平気な気がした。鳩くんが僕を好きなのは、本当にわからないけど。


「お義父さんと呼ばせて……!」


 一方、鳩くんはまだボケ続けている。見兼ねた僕が「それ、死んでるよ。」とツッコむと、待ってましたと言わんばかりに彼はこちらを向いた。その胴が動くたびに水の流れが変わるのが、なんだか不思議だった。白く泡立つ僕たちの輪郭。鳩くんは淡々と言った。


「どーりで喋らんわけだ。」


 どこか満足げで、子供っぽい。あどけないと言うのが正しいのかもしれない。そう言えば彼は、僕よりいくつか年下なはずだ。ずっと、かわいくて、最後の友達だと思っていた。これは本当だ。


「やり切ったね。」

「駆け抜けた。つらかったっす。」


 つらいならやらなきゃいいのに。そう思って鳩くんの顔をじっと見つめると、彼は少しだけ口角を上げて、すぐに戻した。笑うと言うには、あまりにささやかな表情の変化だ。それなりに濃い付き合いがあるからこそわかるものだと思う。と言うか、僕と鳩くんの関係は案外深くて強いものだったのかもしれないと、そんな気になってきた。鳩くんが僕を好きになっちゃっても、おかしくはないのかな。


 水しぶきが絶え間なく顔にかかる中で、鳩くんは案外平気そうだった。告白もしたのに。僕の方がビビっているんじゃないかってくらいだ。靴の中に砂が入っているな、と思った。


「笑ってくんないから。」

「状況がさ、て言うか、寒くて。」

「俺も寒い。自分で言ったことも、普通に体も。」


 それでもって、足の感覚がふやけてクラゲみたいになってきた。体温もどんどん下がっている。それなりに綺麗な海の中で、親父だった肉二袋はぐにゃぐにゃになっている。僕にはそう見えた。鳩くんは「麦原さん」と僕の名前を呼んで、


「海、寒いね。」


 と言った。その声がやたらと鮮明で、僕は顔を上げる。鳩くんの目。ぬかるんだ両目。正しい頬の角度。


 僕の中で流れる鳩くんとの記憶が、鳩くんのくれた言葉が、鳩くんの触れた手が、鳩くんの選ぶ音楽が、たくさんの、僕の中の鳩くんが。鳩くんの吐く息が、白くても、透明でも、鳩くんが優しくなくても、ずっと優しくても、笑っていても、嫌がっていても、狂っていても、正気でも、狂っていても。


 僕が悲しみに暮れない理由は、すべて鳩くんにある気がした。


「鳩くん。」

「はい。」

「今気付いた。僕も君が好きだ、ダーリン。」

「遅いぜハニー。」


 鳩くんは笑っていた。たぶん、僕も笑っている。親父も認めてくれた(僕も鳩くんも、沈黙は肯定と見做すタイプだ)わけだし、気持ちのいい門出だ。

 

 鳩くんが袋を持ち替えて、空いた左手で僕の手を握る。僕も握り返す。生憎の曇り空だが、デートに天気は関係ない。罪や体がどんなに重たくたって、鳩くんは気にしないだろう。なら僕だって気にしないよ。波の声すら聞こえなくなりそうだ。僕は鳩くんの手にキスをした。彼の皮膚は冷たくて、塩辛くて、少しだけ甘かった。

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