第30話 嫌な予感
私が学校に着いたのは、いつもより早い時間だった。普段は電車でこっちまで来て、川辺でギリギリまで時間を潰してから学校に来る。それはやはり、周囲の目が気になるから。
教室に入り席に座ると、案の定、周囲の私を見る目が気になる。もうこのクラスになってから三ヶ月ばかり経とうというのに、いつまでも飽きない人たちだ。
一人でいることが有意義であったはずなのに、私はそうやっていつも周りの目を気にしていた。これはやはり、彼の、皇子代黎の言うとおり、私は本当は孤独を望んでいない、という事なのだろうか。
まさか、こんな考え方をする日がくるなんて思わなかった。
それにしても周りの目が気になる。昨日の事件のせいだろう。
(……まあいいか)
そう、思う。
だって私が周りにどれだけ疎まれようと、今の私は気にならない。昨日までとは別の意味で、気にならない。気にしないのではなく、気にならないのだ。
それほどに私は今、緊張している。
どくんどくん。
どくんどくん。
胸が、躍動する。正直病気じゃないかな、なんて考えてしまうほど、私の心臓が、強く鼓動を続ける。たった一人の人間に会いたくて、ドキドキしている。
この気持ちは何だろう。
なんてことをわざわざ問うほど、私だって世間知らずじゃない。恋愛ドラマだって見るし、少女マンガだって読む。だから知識だけはある。経験は、初めてだけど。
今日はそのために早く来たのだ。
彼に、早く会いたかったから。
おはよう、と挨拶をしてみたかったから。
昨日彼と別れてから家に帰り、そして目を覚ましてから今まで、ずっと彼のことが頭の中から離れない。どうしてか、考えてしまう。
どくんどくん。
どくんどくん。
胸が痛くなるほど、鼓動が激しくなる。
これだけ緊張していて、彼の前で平静を保っていられるだろうか。普通の私を、出せるだろうか。不安だ。
(それにしても遅いな)
もうすぐHRの時間が始まる。普段の私なら、これくらいに登校しているのだが、彼は私よりも早く来ていると思っていた。というかもう来ないと、遅刻である。
もうしかしてお休み? ――嫌だな、そんなの。今日一日がつまらなくなる。って、それはいつも通りか。所詮いつも通りの毎日が、繰り返されるだけ。だったらあと一日くらい、我慢してもいいかな、なんて。って別に、お休みだと決まったわけじゃないんだよね。だったらこの時間を使って、最初はどうやって会話をしようか考えておこう。
緊張、しないように。
「困ります!」
廊下の向こうから、大きな声が響いてきた。
HRになっても担任が教室に来ないため、ざわついていたクラス中が、その声に一斉に顔を向ける。見えはしないが、バタバタといくつもの足音が聞こえてくる。
嫌な予感がした。
そしてその足音は案の定私たちのクラスの前で止まり、教室のドアがガラリ、と勢いよく開かれた。
そこにいたのは彼――ではなく、担任の武村先生と、なぜか日本史の橙堂先生。
そしてさらにもう一人。真ん中に立ち、その手で教室のドアを開けた人物。それは見知らぬオバサンだった。四十代前半くらいだろうか。保護者参観に向かう母親のような少し派手な出で立ちに厚化粧。誰かの保護者なのだろうか。その顔は、何故か怒りに満ちている。
「何処ッ! どいつよッ!」
と、オバサンが叫んだ。
「金城さん、ちょっと落ち着いて……」
担任の教師が彼女を制止しようとしている。どうやらオバサンの凄まじい形相に困惑しているようだ。
「いいから教えて! どいつが人殺しなのよ!」
そのオバサンの言葉に、全員が、一斉に、私を、見た。
――人殺し。
そのワードに該当するのは、私しかいない。
だから皆は、悪気があったかどうかは関係なく、ただ、反射的に、私を見た。
私を、見た。
……あれ? どうして、こんな気持ちになるのだろう。
こんな目、慣れていたはずなのに。蔑まれるのは、慣れていたと思ったのに。
「あいつね……」
そう言って金城と呼ばれたそのオバサンは私を睨みつけ、こちらに近付いてくる。
「お願いします。落ち着いてください。金城さん」
そう言って私たちの間に入ったのは武村折鶴先生。いつも気だるそうな彼女が、珍しく真剣な面持ちでそう応対する。
「どいて!」
「どうか落ち着いてください」
「どきなさい! 何? 犯罪者の味方をするの!?」
「私が話を聞きますから! だから……落ち着いてください」
その言葉に、オバサンは激しく胸を上下させながらも、その先の言葉を飲んだ。
「黄泉路、すまなかったな」
武村先生は私の方を向き、現状を理解できていない私に、そう言って落ち着かせた。
「また後で話を聞かせてもらうと思うから、準備しておいてくれ」
先生が小さい声でそう言うと、
「金城さんの心情もあります。ここで話をすべきでしょう、武村先生」
そうクラスに響き渡る声で言ったのは、日本史の眼鏡の教師だ。
「橙堂先生」
「黄泉路。いくつか質問をさせてもらうぞ?」
橙堂は、武村先生の制止を無視し、前に出た。そして奇妙に作った笑顔で私を見下ろす。
「昨日、学校が終わったあと、何をしていた?」
「え……昨日は、放課後用事があって美術室に行って……」
「そのあとは?」
「そして、そのあとはすぐに帰りました……」
それは昨晩、うちに来たに虹倉さんにも伝えたことだ。あの後何度か思い起こしたが、記憶に間違いはない。
「その途中、駅前で
「え?」
断定的に問われ、返答に窮する。金城とはそもそも誰の事だろう。しかし、私の一言一句を周囲のすべての人が見守っている。
慎重に答えようと、もう一度頭の中で昨日を振り返る。美術室を出たあと、私はまっすぐに校門を出、駅に向かって歩いた。他の生徒との下校時間とずれていたため、道を歩いていたのは、私だけだった。その時も、私は彼のことを考えていて、そしたらあっと言う間に駅が見えてきて、そして…………あれ?
そこまでは覚えている。そしてそのあと、駅に……入った?
だめだ、昨日、帰りに電車に乗ったときの記憶が無い。
いや、その後家に帰るまでのことが、思い出せない。記憶があるのは、家についてからの記憶。そこまでどうやって帰ったのか、詳細が、思い出せない。
あれ? どうして? 毎日やっていることだから、覚えてないだけ?
……ううん、違う。
私には昨日、駅について電車に乗って、家に帰るまでの記憶が――無い。忘れてしまっている。ぽっかり穴が開いてしまったみたいに、そこだけが思い出せない。どうして?
「私は……昨日……どうやって家に……」
「ほら見なさいよ! やっぱりこいつじゃない!」
「落ち着いてください金城さん。黄泉路、金城くんと会っていたんだな?」
会った覚えは、無い。でもそれはやっぱりただ、覚えていないだけなのだろうか。
「覚えて、ません……」
「ふざけないでッ!」
ぱしん、とオバサンは手を伸ばし、私の頬を思い切りはたいた。
どうして私は叩かれたのだろうか?
どうして私は思い出せないのだろうか?
なんだか頭が痛い。それはオバサンの怒鳴り声がうるさいからでも、顔を叩かれて脳みそが揺れたからでもない。昨日の事を思い出そうとすると、頭が痛くなる。
もうわけがわからなくなって私を叩いたオバサンを見上げる。さっきまで怒りの形相を浮かべていたはずのオバサンは、それはやはりまだ怒っている顔だったが、しかしその目から、涙が、じわりじわりと、溢れてくる。
「うちの子を、返してよ……」
とても弱々しい口調で、私にそう言った。
私、に。
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