第26話 黄色い真実④

「き、君はなってくれないの? 友達に」


  久しぶりの会話に、どこかのネジが緩んでいるようだ。しかし今更戻れまい。賽は投げられた。そう思い、言い切ったと言わんばかりに、堂々と顔を上げる。その顔は先ほどよりも紅潮しているだろう。

 頑張れ、私。彼の言う通り変わるなら、今しかない。

 そして彼ならば、私も。


「……」


 しかし少ししても。当の皇子代黎からは何の返答もない。

 聞こえてなかったのかなあとか、こんなこと言って引かれてるのかなあとか、頭の中に不安を錯綜させながら、チラリと横の彼の方を見る。

 すると、すぐ側に彼がいた。その間、五十センチ。


「きゃっ!?」「おうっ!?」


 驚いた私に驚く彼。慌てて私は一歩分距離をとった。


「な、なんで近づいてきたの?」

「なんでって……歩いて?」


 しょうもない答えに、ガンっと彼の脛を蹴る。ちょっと思い切りすぎたかな。


「いった! なんで蹴るんだよ!」

「足でっ!」


 そう返してくるっと彼に背を向けた。


「……馬鹿に、しないでよ」


 馬鹿にされている。こんなことを言う人がいるとは思わなかったんだろう。彼の性格上、それが面白くてしょうがないんだと思う。

 しょうがないじゃない。友達の作り方なんて、わからないんだから。


「こんな会話する他人がいるかよ」


 すると彼が後ろからつまらなさそうに言った。その呆れ顔が目に見えるようだ。


「これで赤の他人だったら俺にも友達はいねえよ」

「……だから?」

「だからって?」

「……わかったよ。こっち向け」


 彼は私の身体を後ろから両手で掴むと、くるっと反転させ、面と向かわせる。


「っ!」


 彼のその急な行為に、少し戸惑う。男子にここまでがしりと触られたのは、初めてだ。

 


 とくん、と何かが胸の奥で脈打った。

 


 はい、と彼は自分の右手の小指を差し出した。その意図を測りかねていた私に、「ほらあんたも。指きりだよ。それくらい知ってんだろ?」と言った。

 しかしまだそのテンポに着いていけない私が戸惑っていると、彼は私の右手を引っ張り出し、互いの小指を組ませる。


「今から俺とあんたは友達だ。しかも無期限、途中解約無しの一生だ。後悔すんなよ?」


 精一杯の照れ隠しなのだろう。悪戯っぽくそう言って笑った。

 本当になんて素敵な笑顔だろう。どうしてこんなにも自然に笑えるのだろう。

 ダメだ、どきどきする。

 さっきからずっと違和感を覚えていた。こうして実際に彼に触れて、自分がどきどきしているのがはっきりとわかった。なんだろう、この気持ちは。不思議だ。


「偽善、だね」


 言葉とは裏腹に私の顔は少しほころぶ。


「ああ、偽善だな」


 言葉が、通じ合っているのがわかる。

 心が、通じ合っているのがわかる。

 これが、人との会話。こんなにも、嬉しいものだったっけ。

 私は下を向き、組んでいる小指を更に強く握り締めた。

 自然と力が入り、身体が小さく震える。

 泣いていた。

 私は泣かされた。今まで、全く怒ることも泣くこともしなかったのに。

 彼の前では、全てを曝け出される。でもそれは、悪いものじゃなかった。怒ったり泣いたりすることが、こんなにも気持ちの良いことだとは知らなかった。


「泣くなって。こういう時は笑うもんだ」


 そうだ。普通はこういう時は笑うものじゃないか。そんなことも忘れていた。

 もう二度と笑う必要はないと思っていたけれど。

 もう二度と笑う資格なんてないと思っていたけれど。

 今はこの少年のように、自然に笑ってみよう。

 今なら、許される気がする。そして忘れてしまった自然な笑顔を――。


「……」


 …………あれ? あいている左手で自分の頬の辺りを触る。


「なんでだろ……こんなに、嬉しいのに。どうして私、笑えないんだろ……」


 何故だろう。やっぱり、笑顔は、笑顔だけは、許されないのだろうか。深く深くにしまったから、だからこの程度では取り戻せないのだろうか。


「蒼海は、あんたの笑顔は可愛かったって、そう言ってたぞ」


 右手を離し両手で自分の涙をぬぐう。そして嗚咽を止めるように、大きく息を吸った。


「それは、違うの」

「違うって?」

「私の笑顔はね、処世術なの」

「処世術?」

「うん。笑うことで全てが上手くいってた。両親も笑ってくれるし、周りのクラスメイトも私のことを好印象で見てくれる。そんな、計算された汚い笑顔だったの。でも私はそれを忘れてしまった……多分、両親に自分たちは人殺しだ、って告げられた夜に」


 そういえば、あの夜から一度も笑った覚えがない。怒って、そして泣いた日はあったけれど、笑った覚えはない。笑えることもなかったのだけど。


「あんたの両親は、どんな人間だったんだ?」


 両親。それはもう思い出したくもない人だけれど、でもまだ明確に覚えている。

 だって彼らを親として慕っていた十数年間の想い出は、真実なのだから。


「仲の良い、夫婦だったんだよ? 二人とも、ほとんど喧嘩なんかしなくて、二人とも、それなりに厳しかったけど、やっぱり優しくて。窮屈な人生だったけど、でも家族で過ごす時間は、悪くはなかった」


 私は、途切れ途切れにそう言った。何故か、言いたくもないことがすらすらと出てくる。どうしてこんなに私は彼らを褒めているんだろう。

 でもそういえばそうだったな。両親は、そういう人間だった。人殺しではあったけれど。私にとっては、普通の優しい両親だった。だって、そういう想い出しか残ってないんだもん。


「でも私が、神様にお願いしちゃったから……一人になりたいって。だからお母さんもお父さんも死んじゃった」


 そう、あれは私がそう願ったから。だから両親は殺された。


「全部、私のせい」


 そのことを、初めて口にした。

 こんなこと、正直馬鹿げていることだとは思う。

 神様なんて、本当にいるわけがない。

 でも一度口にしてみると急に自分の行為が怖くなった。私はなんて恐ろしいことを願ったのだろう。こんなこと、言うことすら憚れるのに、何故私は言ってしまったのだろう。

 自分でも笑えてくる。笑えはしないけれど。


「ハッ、くだらないな」


 そんな私を、皇子代黎は笑った。


「神様なんていない。あんたの両親が死んだのはまだ捕まってない犯人のせいだろ。願うだけで人が殺せるなんてそんな都合のいい事はない」

「うん。わかってる。神様なんていないよ。でもそう願った時は確かに少しは救われたんだよ。それは事実」

「もうそんなものに頼るな」


 妄言を語る私を彼が遮った。

 その言葉は今までで一番力強かった。


「一人がいいなんて言うな。あんたには俺がいる」


 その言葉は今までで一番優しかった。

 少しだけ、どきりとしてしまう。


「……うん」

「友達なんてすぐできる。すぐに毎日が楽しくなる。気が付いたら笑ってる」


 その言葉は今までで一番信用できた。


「うん」

「だからもう二度と神様になんか頼んな。頼るなら、俺を頼れ」


 その言葉は、今までで一番、嬉しかった。


「うんっ」


 私はそこでもやはり笑えなかったが、でも確かにその返事には私の喜びが表れていたように思う。

 そして自分の心臓が今までにないくらいに、鼓動しているのに気付いた。生まれてこの方感じたことのない気持ち。知識では知っていたけれど、自分は一生ありえないと諦めていた感覚。この気持ちを、ちゃんと表情で表現したい。

 彼に、私は嬉しいんだ、ってそう伝えたい。

 悔しいな、笑えないことが。

 可愛いって言ってもらえた笑顔を、見せてあげたい。


「じゃあお節介かけて悪かったな。そろそろ家に帰るわ。小春も待ってるし」

「小春?」

「妹。あいつのためなら世界も滅ぼす」


 冗談だとわかるように、彼は乾いた笑いを付け足した。これまでのある意味臭いやり取りを、茶化したかったのだろう。確かに冷静に考えれば恥ずかしい。

 そのまま美術室を後にしようとした彼だが、ドアに手を掛けた時に立ち止まり、こちらを振り返った。


「そういやあんたはさっき、一人でいることが自分にとって幸せだったって言ったけど、やっぱりそれは不幸だと思う」


 改めて、彼はそう言った。どうしても言いたいことがあったのだろう。私もそれに真摯に答えることにした。


「そう、だね。不幸の中の幸い。しかも勘違い」

「でもさ、だからって後悔すんなよ」

「え?」

「知ってるか? この世界の幸せの絶対量は決まってるらしい」

「幸せの、絶対量?」

「そう。だから誰かが幸せになれば、誰かがその分不幸になってるんだ」

「……」

「だからあんたが不幸でいた分、他の誰かが幸せになれたんだ。それはすごいことだろ。あんたの今日までの時間は無駄じゃなかったってことだ。だろ?」


 なんて、素敵な考え方だろう。

 どうして、そんな考え方ができるのだろう。

 どうして、彼はこんなにも真っ直ぐなのだろう。

 本当にかっこいい。

 これ以上ないくらいに鼓動していた胸が、さらに強く鼓動する。

 息が、乱れる。


「じゃあな。また明日」


 彼は、最後にそう言って手を振ってくれた。


「うん。また明日」


 恥ずかしいけれど、手を振ってみる。すぐに彼は教室を出て行った。


「また、明日……か」


 一人残った教室で自分の言った言葉をもう一度確かめるように、小さな声で言い直した。

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